第四章 アブラハムと命の法則

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ローマ八・二、ガラテヤ二・十九~二〇

命の七重の法則の次の面がアブラハムによって示されています。創世記十六章の最後の方で私たちはアブラハムに出会います。

ノアによって示されている命の法則のその面について述べた時、復活の立場の上に立つ必要性について考慮しました。復活の立場は、天然の立場をすべて拒否したことを意味します。そして、私たちは洪水すなわち死のバプテスマの向こう側にあることを意味します。ですから今、私たちは復活の立場の上にあると見なすことにします。復活の立場にあって、私たちはアブラハムと手を組みます。そして、アブラハムに私たちを導いてもらって、命の働きの次の点が何かを告げてもらいましょう。

キリストにある命は信仰の命である

ここで、一言で言うと、命の法則は信仰と結びついていることがわかります。ノアを通して復活の立場に達する時、私たちは必然的に信仰の立場の上にあります。これをすぐに理解するのは結構なことです。復活の命について黙想するのはとても素晴らしいことです。このような考えにだれもが応じてくれるでしょう。これを受け入れるのに何の異論も困難もありません。しかし、理解しておいてください。復活の命は必然的に信仰生活と不可分に結びついているのです。信仰の道筋以外で命を知ることは決してできません。命が増し加わるのは信仰の道筋によります。この二つは同行します。一方は他方から生じます。

ノアについての黙想で最後に強調したのは、「外に」というささやかな言葉でした。箱船建造におけるノアの証しは、彼がその状況の領域の外にあるということでした。彼は脱出法、外に出る手段、方法を確保しつつありました。箱船を建造することによって、彼は事実上、「私はこの中にはいません!この外にいます!」と宣言していたのです。ですから、アブラハムに関する最初の言葉が、「あなたはそこを出なさい」と主が言われたことであるのも驚くにはあたりません。これはみな一つながりです。

しかし、外に出て復活の立場に達することは、外に出て信仰の立場に達することを意味します。ノアは復活を象徴し、アブラハムは信仰を象徴します。「あなたはそこを出なさい」!命自体が信仰の命です。生活方法について述べているのではなく、命自体が信仰の命であると言っているのです。信仰――神の御子の信仰――は命です。もちろん、これは深遠な発言ではありません。これがいかに単純で初歩的であるかは、これを裏返してみさえすればわかります。信仰から出ていないものは何であれ、常に死の性質を帯びています。疑いは死であり、不信仰は死であり、信頼の欠如は死であり、そのような類のものはすべて死です。疑問、論争、単純な信仰に欠けるものは何でも、私たちを停滞させ、停止させます。それは死です。ですから、命の法則がアブラハムの内に信仰の線に沿って働いているのがわかります。その信仰は絶えず深く深く働いて、ますます豊かな命を生み出します。この二つは同行します。信仰が深まれば深まるほど、ますます命は強まります。同様に、命の度量のさらなる増加は、より深い信仰を意味します。

ここでまた、アダムの悪を覆していることに気づきます。アベル、ノア、アブラハム、その他の人々、そのどの場合も、神は過去に遡って働いておられます。神はアダムの悪を覆しておられます。アブラハムに来る時、不信仰という基本的罪に対する神の勝利を彼に見ます。この人々は真なる方を指し示す人々です。キリスト・イエスの内にすべては集約されています。象徴的・典型的形でではなく、生き生きとした実際的な形でです。アダムを欺いて堕落させたサタンの勝利は完全に覆され、完全に無効化されました。キリストが現れたのは悪魔の業を滅ぼすためだからです。しかしこの箇所においても、悪魔の働きが象徴的方法以上の方法で滅ぼされつつあることをそれは意味することがわかります。神は状況の成り行きを覆し、アダムの過ちを無効化し、状況を正されつつあります。

さて、アブラハムを見て、その生涯を二、三の包括的言葉でまとめなければなりません。アブラハムの全生涯を網羅するつもりはありません。その概略すら網羅するつもりはありません。しかし、この信仰の生活の主要な要素をいくつか抜き出すことはできます。

命の賜物は神からであり、全く神のためのものである

第一に、これはただ神と共に出て行く問題でした。これがいわゆる「アブラハムの召し」に関する神の意味だと思います。「主はアブラムに言われた、あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家から出て行きなさい」(創十二・一)。あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家!神の主権により、アブラハムは命の器となるよう選ばれました。型として、絵図としてです。この命、いま述べているこの命は、ただ神だけのものであり、全く神のために生かされねばなりません。これ以外の関係の中では、それを握ることも用いることもできません。それはそのように用いられることを拒みます。神の命は、神以外のものと関係を持たされることを拒みます。そのようにされるやいなや、あるいは、そうさせようという試みがなされるやいなや、この命は停止し、この命が宿っている器も停止してしまいます。これがまさにアブラハムに起きたことです。神は「あなたの国から出て行きなさい」と言われましたが、「あなたの親族、あなたの父の家から出て行きなさい」とも言われました。これは包括的、総括的なことであり、完全かつ決定的なことでした。アブラハムは信仰の最初の一歩を踏み出しましたが、二歩目と三歩目は踏み出しませんでした。彼は親族と父の家を連れていたので、あまり遠くへは至りませんでした。彼は停止してしまいました。そして、神の要求の残りが成就するまで、あるいは少なくともその大半が成就するまで、そこにとどまりました。その後、アブラハムは進み続けました。しかしそれでも、これから見ることになるように、彼は神の御旨の中に完全に進んで行ったわけではありません。あなたには要点がおわかりだと思います。

新生によって神の子供の内にあるこの神聖な命は神の命であり、それ以外の何物でもありません。この命を他の何物とも関わらせることはできません。これは他の物と共には働きません。これが働くのはただ神と関係があるときだけです。神の御思い、神の御心、神の御旨と関係があるときだけです。この命は神の完全な御旨に私たちを導きます。そうである以上、この命は全く神のためでなければならず、それ以外の関係はすべて引き下がらなければなりません。この命にそれ以外の関係を持たせてはなりません。この命はたんなる抽象的なものではないことがわかります。この命はキリスト・イエスの中にあり、聖霊の御手の中にあります。確かに、これらを分離することはできません。この命をこのパースンから、この神聖なパースンから分けることはできません。キリストは命であり、聖霊は命の霊です。ですから、この命を扱うことは聖霊を扱うことであり、キリスト・イエスを扱うことでもあります。そしてこれは、神のまさに本質であるこの命には、独自の特徴、独自の形体、独自の意義、独自の標準、独自の目的があることを意味します。この命には独自の気質、独自の理屈、独自の方法があります。この命は、それ自身の方法、それ自身の意義、それ自身の気質を持つものであり、そのようなものは他にありません。この命は自分の道を行きます。他の方法、他の気質はみな、確かに別物であり、全くの別物です。これらのものの間に往来はありません。「わたしの思いはあなたたちの思いとは異なり、あなたたちの道はわたしの道とは異なる」と神が言われる時、「天と地が隔たっているように、あなたたちの道や思いはわたしの道や思いから隔たっている」と神が言われる時、それは、「わたしの命は、その気質、判断、理屈、特徴、性質があなたたちとは全く異なるものであり、あらゆる点で異なる、全くの別物なのです」の言い換えにほかなりません。

では、その効果は何でしょう?これは、それは天然から出た何ものとも共存したり交わりを持ったりできないことを意味します。それは、私たちのこの別の命、私たちのこの性質と、何の交わりも持てません。天然の命は神の命の友たりえず、神の命は天然の命の友たりえません。これらは二つの別世界の中にあります。人の天然の命、魂の命はサタン的要素と関係しており、神の命は神的要素と関係しています。これらの命は二つの全く別の王国です。さて、この神の命はそれ自身の道とそれ自身の関係を要求します。この神の命は全く神から出ているものを要求します。「あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家」という句に、私は天然的関係や天然的影響を示唆するものを見ます。神は私たちの内のご自身の命があるところにそのようなものを許すことはできません。パウロは、「神が御子を私の内に啓示することをよしとされた時(中略)直ちに私は血肉にはかることなく」(ガラ一・十六)と言いました。それは神の事柄に関する人の影響や天然の影響だったことでしょう。これがこの箇所の原則です。天然に関するかぎり、神と共なるこの命は全く独立していなければなりません。

さて、もちろん、こう述べるには注意が必要です。なぜなら、独立の悪について私たちは多くの事を述べてきたからです。私が全く別の領域の中で話していることが、おわかりになるでしょう。これをはっきりさせたいと思います。まず第一に、霊的独立の性質を帯びているものはすべて間違っています。私が述べているのは主の民の間でのことです。それは神の団体的法則――これはまた命の法則でもあります――を破ります。また、私は霊的なものの影響について述べているのではありません。私たちには霊的影響、霊的関係が必要であり、互いに助け合う必要があります。この事では決して独立してはなりません。他の人々の内にある神から出ているものについては、決して独立してはなりません。「私は自力で神と共に歩んで、神を知らなければなりません。他人から何も受けることはできません。私はだれも信用できません。私は自分だけの確信と信念により、一人で主と共に進み続けます」と言う人々もいます。これは大きな間違いかもしれません。自力で主を知らなければならないという姿勢の間、主は同じようにご自身と共に歩んでいる他の人々を通してご自身を知らされることがよくあります。私たちが他の人々と共に霊的に歩もうとせず、また、私たちの孤独は神と共なる孤独ではないために、こうした間違った種類の独立は逆に働いて、私たちは全く欺かれてしまうかもしれません。それは、たしかに信念ではあるのですが、全くの欺きです。いま私が述べているのはこれとは別のことであり、天然の影響のことです。霊的な人々や神から出ている霊的事柄の霊的影響力のことではありません。神の御旨に至るには、こうした影響、助け、交わりが必要です。しかし、天然的要素の侵入という問題の場合――多くの天然的要素があるかもしれません。感傷、私たちに影響を及ぼそうとする他の人々の天然的愛情など――天然的要素が入り込んで私たちを神の御旨とわかっているものから引き離す場合、話は別です。それらの要素は神を知る知識から生じたものではなく、神と共なる親しい歩みから生じたものでもありません。他の人々を通して私たちに知らされる神の御旨ではありません。この場合、こうしたものを完全かつ決定的に退けるよう、信仰の命は要求します。そして、私たちの霊的命に関するかぎり、神のために、全く神のために生きるよう、要求します。これがアブラハムに対する最初の試練であり、彼に対する命の法則の最初の適用でした。彼はあらゆる天然の影響をものともせずに、神と共に出て行くのでしょうか?天然的考慮に影響されることを許さずに、自分自身の心の内で神の動きに応じるのでしょうか?

長い間、アブラハムの場合、それは部分的でしかありませんでした。したがって、神の御旨は差し止められ、アブラハムは神の御旨の中を部分的にしか進みませんでした。第一に、彼は父親を一緒に連れて行き、そのせいで行き詰まりました。そして、彼の父が亡くなるまで、神の御旨に関してさらなる自由はありませんでした。天然的な血縁関係の影響があるかぎり、彼の生涯は遅らされました。しかし、これはみな外面的にだけでなく内面的にも適用されなければなりません。私たちの諸々の関係、私たちの家族についてだけ述べているのではありません。たしかに、そのようなところで天然的な影響が私たちに及ぶかもしれません。しかし、これはそれ以上のものです。私たちの中にこの地上や天然に対する血縁関係や係累があります。私たちの中に、絶えず肉に諮ろうとするものがあります。肉的判断、肉的理屈、天然的知性の働きや影響があります。私たちはそれを押しのけて断ち切らなければなりません。復活の立場に達して命を知るようになる時、天然の命からのものはすべて後に引き下がらなければなりません。なぜなら、この命は本質的に信仰の命だからです。

心を試すこと

さて、アブラハムの第二の問題は、この地上における、神の事柄に関する野心の問題です。この問題は私たちを看破します。ついにアブラハムは先に進みました。諸々の関係に関するかぎり、天然の影響は少なくなりました。そして、彼は進み続けて約束の地に入りました。大願が成就しました。そのために彼はすべてを手放し、このために彼は信仰によって踏み出したのです。彼は約束の地に入りました。それは彼が期待していたものであり、彼の新たな野心でした。それで彼は何に出会ったのでしょう?神の御心とは正反対のもので満ちている土地です。その地の酷い飢饉です。小さな区画すら彼に与える人はだれもいませんでした。彼はその地に足場を持ちませんでした。私はあなたたちに申し上げたいのですが、このような経験は私たちの野心に対するとても良い試練です。神と共に進み続ける時、神のために出かける時、私たちは何を期待しているでしょう?何が目的でしょう?さて、この質問に対する答えが、神に関して、この地上のものに対して、私たちが野心を抱いているかどうかを決めます。要点がおわかりでしょうか?天然的な野心を霊的な目標にすり替えるおそれがあることがわかります。依然として同じものが働いており、唯一の違いはその方向または領域です。この世で野心を抱くのと同じように、神の働きでも野心を抱くおそれがあります。これは同じ天然的な野心です。それは天然の野心です。あなたが願いを持つとき――あなたは何を願っているのでしょう?見ること、得ること、地位を得ることでしょうか?成功を求める野心――たしかに、それはかつてはこの世でのことでしたが、今やこの同じ野心が別のものに移りました。仮にアブラハムの場合もそうだったとすると、それはなんという試練だったことでしょう!それは野心に対する試練でした。彼は何も得ませんでした。その地には足の置き場すらありませんでした。あちこち移動して、幕屋に住まなければなりませんでした。その地に関するかぎり、彼の信仰に対する即座の目に見える応答は皆無でした。この試練の下で彼は挫折しました。彼はエジプトに下りました。彼がエジプトに下ったことにはどんな意味があるのでしょう?期待です!彼は神の御手に何か別のものを期待したのです。この命は信仰の命であること、そして、この命が内側深くに造り込まれれば造り込まれるほど、神の事柄においてさえも天然を喜ばせようとはしなくなることを、彼は教わらなければなりませんでした。

往々にして、子供、幼稚園児、信仰の初歩的段階にある、あまり圧迫に耐える力のない人々に対して、神はすぐに結果を与えてしるしを顕わさなければなりません。成熟のしるしは通常、神が外側の顕現やしるしを差し控えるようになること、神ご自身のためにただ神と共に歩むよう要求するようになられることです。神が外面的事柄を差し控えられるようになることが、神の学校を卒業したしるしです。これは、この命に野心を抱いているかどうかに関する試験に合格したことを示します。

アブラハムはこの最初の試験、この真理の最初の適用に失敗しましたが、幸いにも教訓を学びました。主の僕たちが霊的に前進するとき、私たちはそれを常に称賛しなければなりません。次の出来事――二つの出来事が立て続けに起きるのは注目に値します――では、この同じ領域で驚くべき素晴らしい勝利を目にします。十二章にはアブラハムがエジプトに下ったことが記されています。これは彼にとって死の道であり、命の道ではありませんでした。野心は死の道であることが判明しました。次の章で直ちに起きるのは、牧草と水を巡るアブラハムの僕たちとロトの僕たちの間の争いです。アブラハムはこの問題のことでロトのもとに行き、「争わないようにしましょう。何を争う必要があるのでしょう?(私たちは自分自身のために何かを欲しがっているのでしょうか?――これが彼の言葉の主旨です)さて、ロトよ、周りを見て、目を上げて、この地を見渡しなさい。この地の最も良いところを見て、それを選びなさい。あなたの好むところを私に知らせ、その残りを私に与えなさい。あなたは選んだものを取りなさい。あなたが行くことを選んだ方向とは逆の方向に私は直ちに進みます」という主旨のことを言いました。ロトは目を上げて、よく潤っていて肥沃なヨルダンの平野全体を見渡し、それを選びました。それで彼らは互いに別れました。アブラハムの側では、それは野心に対する勝利でした。直ちに神がやって来て、「あなたの目を上げなさい。(中略)あなたが見ているすべての土地をわたしはあなたとあなたの子孫に永久に与える。わたしはあなたの子孫を地の塵のようにする」と仰せられます。結局のところ、ここに命の道があります。地的獲得、野心、満足の道、地上で何かを得ようとする道は、ロトにとって死の道になりました。この世に関するかぎり、アブラハムは手放しました。神のために手放しました。それで神がやって来られたのです。

こうしてロトはアブラハムから分離されました。何が起きたのでしょう?それまでずっと制限の原因だったこの血縁関係はこれで終わったのでしょうか?そう見えます。これが起きるその日、天然的影響が断ち切られるその日、神が新たな命の領域と共にやって来られます。この原則は真実です。神の御前で真に繁栄や成功をすべて手放す地点、人々が重んじるキリスト教的働きやキリスト教的務めさえもすべて手放す地点に達しえた時、それは前進し続けている印です。クリスチャンたちの間で得られる絶好の機会や大きな利益を手放して、「全くかまいません。主はご存じです。与えるにせよ、差し控えるにせよ、それは主が決めることです。私はそのような賞を求めません。そのようなものが神と共なる私の歩みに影響を及ぼすのを私は許しません。野心によって私の道が決まることはありません」と言えることは成長の確かなしるしです。それはこの地上ではあまり大したものに思われないかもしれません。広く開かれた扉とか、そのような類のものには思われないかもしれません。しかしどういうわけか、そこに命があることがわかります。霊的影響力があることがわかります。何か大事なものがあることがわかります。最終的に、それは大事なものになります。しかし、これは時として、まず第一に、野心とのこの戦いを必然的に伴います。この戦いでは、こうした示唆や影響をすべて下ろさなければなりません。こうして私たちは、命の道はたとえすべてを犠牲にしても神と共に進み続けることであることを理解する地点に達します。命の霊の法則はこのような形で働きます。

遅延や一見矛盾のように見えるものを神は用いられる

さて、第三に、アブラハムの事例では、一見死の道のように見えるもの、すなわち遅延と矛盾という神の道に沿って、命が働いていることがわかります。神はアブラハムに息子を約束されましたが、約束して立ち去ってしまい、この問題を何年も放っておかれました。約束の成就が遅れたことは、神を信じる信仰の深化に役立ちました。そして、アブラハムの生涯に神からのものが圧倒的に増し加わる道を備えるのに役立ちました。遅れが長引けば長引くほど、希望の成就はますます神からでなければならなくなり、人にはますます不可能になります。これが目的です。私たちが好むかどうかにかかわらず、神はこのような方法で働かれます。私たちがこの思想を抱いていようといまいと、これは真実です。神が実際に命の法則にしたがって働いておられる時、私たちは信仰のこの領域の中にもたらされなければなりません。この領域では、神の約束さえも差し止められていて、すぐには成就しないかに思われます。神は真実です。神は人に借りを作りません。最終的に、神に借り方はなくなります。これは決着済みです。神は、ご自身に対する適切かつ正当な期待にすべて応じられます。そして最終的に――たとえそれが長く待った末のことだとしても――神の正しさと神の信実さが不可抗力的に証明されます。私たちはみな次のような態度を取ることを許されています。「主よ、私が長く待った末にあなたの御前に立つ時、『あなたは私の信頼を裏切った』とあなたの帳簿に繰り込むことのできる根拠を、あなたはすべて清算済みでなければなりません」。このような立場に立つことが神にとって大切です。かの日、神に信頼した者たちが、「主よ、あなたは一つも期待を裏切らず、私が正当に望みうること、キリストにあって正当に望みうること以上のことをしてくださいました」と言えるようになることが、まさに神の性質と性格に求められています。神はこの期待に応じられます。しかし、命を深め、命を強め、神の似姿を生み出し、死の力とサタンの働きを滅ぼし、アダムの過ちを逆転させるために、神はご自身の約束に対する信仰の問題に関して私たちを成長させなければなりません。神はそうしてくださいます。それが成長のしるしであり、成熟のしるしです。遅延という神の務めはこのようなものです。

次に、さらに、矛盾という神の務めがあります。ようやく息子が与えられました。しかし、次に何が起きたでしょう――「あなたの息子を取って(中略)わたしにささげなさい……」。矛盾です。神は与え、そして取り去られます。成就することを約束しておきながら、その後、それを一撃で消し去られるかのように思われます。さて、これは何を意味するのでしょう?その真意は何でしょう?私が思うに、愛する人よ、この箇所の核心は、神は常にご自身のものにしようとされる、ということです。心は神に向かうべきであって、事物に向いてはならないのです。たとえ約束の成就が遅れたとしても、神は、私たちのためになされる御業よりも神ご自身を求める境地に、心を引き寄せようとされます。もし矛盾というこの務めの下にあるなら、その目的は私たちを事物から引き離して神ご自身のものにすることです。

すべてのすべてである神

さて、この命の法則のすべての面をまとめました。命の霊の法則とは何でしょう?それはどこでどう働くのでしょう?最初から最後まで主ご自身がすべてである、というこの立場の上で働きます。主ご自身がすべてとなられること、これがこの問題の核心です。「あなたの国、あなたの親族、あなたの父の家から出て行きなさい」。出て行きなさい――この地上のものに関する野心、たとえそれが神に関するものでも、そこから出て行きなさい。事物から、たとえそれが神が行える事や与えられる事だとしても、そこから出て行きなさい。どこに向かって出て行くのでしょう?神ご自身に向かってです。その結果がわかるでしょうか――ああ、これは素晴らしいです!――「わたしの友であるアブラハム」。わたしの友!なんと多くのものをこれは含んでいることか!神のためにすべてを手放すこと、完全に神の側に立つこと、神にご自身の道を進んでいただくこと、たとえ神がご自身を否定して矛盾しているように思われたとしても神に信頼することは、私たちが神の御心の中に直ちに入る結果になります。わたしの友!これは命でしょうか?命の道でしょうか?この言葉がアブラハムについて言えたのと同じように、最終的に私たち全員にも言えるようになるなら、それは確かに命ではないでしょうか?確かに、これは何物にもまして願うべきものではないでしょうか?この地点に達するとき、「これはまさに命です!」と私たちは言うでしょう。これには何物にも代え難い価値があります!そうです、命は神との友情という基礎に基づくのです。

神との友情とは何でしょう?それはすでに述べてきたことです。神との友情はこの世との友情ではありません。私たち自身の天然の命や、その影響、思慮との友情ではありません。神の事柄における野心、計画、達成との友情ですらありません。神が私たちのために行えることとの友情ではありません。神ご自身との友情です。これがすべてです。そうである以上、主が遅れたり矛盾しておられたとしても、それにもかかわらず私たちは信頼すべきことを、これは意味します。友情とは敵意をすべて除き去ることであることがわかります。敵意はサタンからアダムを通して入り込みました。そして、アブラハムによって除き去られました。これは何を意味するのでしょう?信仰によって除き去られたのです。信仰は敵意を徹底的に滅ぼします。もちろん、それは漸進的です。アブラハムは一生涯このように生きなければなりませんでしたが、その結果、神の友になりました。

そして、私たちはこの命の道の中にあります。それはこの信仰の道です。私たちは敵意が存在する地点を超えて着実かつ確実に進んでいると、私は信じています。私たちの心の中に神への敵意はあるでしょうか?神に失望しているでしょうか?神を腹立たしく思っているでしょうか?苦々しい気持ちや、遠慮があるでしょうか?そのようなものが何かあるでしょうか?そのようなものがもしあるなら、それは私たちの内に働く死の働きであることがよくわかります。それは命ではありません。唯一の道は、この命にそれ自身の信仰の法則にしたがって働いてもらうことです。なぜ私たちは失望しているのでしょう?なぜ悲しみを感じているのでしょう?主が自分の期待どおりの方であることを実証してくださらなかったからである、と私たちは堅く確信しているのでしょうか?そうであると堅く確信しているのでしょうか?期待が失望に終わったのは、事が自分の願いどおりに運ばなかったからではない、と私たちは堅く確信しているのでしょうか?そう堅く確信しているのでしょうか?事が自分の願いどおりに運んでさえいれば、私たちはどれほど神を喜んでいたことでしょう!「神は忠実であり、神は信実です。私たちは主を愛します」とどれほど快く言っていたことでしょう。しかし今、事はうまく運ばず、状況は容易ではありません。状況は困難で、私たちに敵対しています。この状況のせいで私たちは困っています。愛する人よ、私はこう信じます、もし私たちが主を目的とする境地、主が私たちの目標となる境地、「私の目標は神ご自身であって、喜びや平安ではなく、私の神ご自身です」と確かに言える境地に達するなら、私たちは命の道の中にある、と。しかし、それ以外の思わくや影響が私たちの天然の命から忍び込むなら、すべてを台無しにしてしまいます。この問題はきわめて明白であることがわかります。

私たちに対して、この命の道は主の御前に再び行って、次のように言うことを要求します。「主よ、私の地的な見通しがすべて色あせ、私の野心がすべて失望に終わったとしても、あなたを私は求めます。あなたが私の大志であり、私の目標です。あなたを持っていれば、こうした他のものは全く重要ではありません」。私は信じていますが、私たちがそこに辿り着けるようになる時――私たちの間でこの道をかなり進んでいる人はあまり多くありません――それでもそこに辿り着けるようになる時、私たちは命の秘訣、喜びの秘訣、解放の秘訣を見いだすでしょう。褒賞であるイサクを神がこの地上に戻せるようになるのを私たちが見るかどうかは定かではありません。神が褒賞を差し控えられるのは、私たちがそうしたものから神ご自身に向かえるようになるためです。神がご自身のために私たちを獲得される時、神はこの地上で何かを与えられるようになります。この地上で祝福を与えられるようになります。しかし、覚えておこうではありませんか。神の願いはご自身のために、ご自身のためだけに私たちを得ることであり、私たちが従う時、命がそこに見つかるのです。これが命の道です。他の影響や思わくがすっかり無くなって、すべてが主のためのものになること、主ご自身のためのものになることを、この命の法則は要求します。