神の命による複製

T. オースチン-スパークス

生命体は、決してそれ自身が目的ではありませんし、決して自分自身のために存在するのでもありません。生命体はもっと大きな目的のための手段です――もっと大きな目的のための経路です――生命体の目的は、命によって自分自身を複製することです。この複製には常に犠牲が伴います。常に代価が必要です。それは常に、その器が何らかの方法で自分を放棄することによります。つまり、死が増し加わりへの道なのです。複製には犠牲が伴います。これは私たちを聖書のあの御言葉に導きます。主は、ご自身の者たちとの将来の関係に関する一切のこと、そしてご自身がこの世に来られた結果を、その御言葉の中に集約されました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし死ねば、多くの実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります」(ヨハネ十二・二四)。

もし命が繁殖しなければ、なんの目的もないままです。自分自身が目的になってしまいますが、神の定めでは、いかなる生命体もそうなってはなりません。増し加わりという結果を迎えるために、生命体は自分を放棄することによって、自分の命を救います。増し加わりの法則は犠牲です――「一粒の麦が地に落ちて死ななければ……」。他のまさった目的のために、たんなる私的なものをすべて放棄しないかぎり、繁殖、増し加わり、複製はありえません。

これは次に、私たちを幾つかの点に導きます。第一は、内なる命としての復活したキリストの意義・真価です。

内なる命としての復活したキリストの意義・真価

復活したキリストは内なる表われや経験のための現実であることが示されます。主の復活の命が私たちの内になければなりません。キリストがその命によって、そしてその命の霊によって、私たちの内に宿らなければなりません。復活したキリストの内なる意義・真価は、キリストが内住している者たちの内に、その命を複製することにあります。それは、キリストを内に住まわせているすべての者たちが、キリストの復活の命の力により、命によるキリストの表現となるためです――命の力によりキリストを現すためです。これは私たちの内にキリストが複製されることです。

私たちの内にこの複製がなされるための法則は、私たち自身は死ななければならない――死の立場を受け入れなければならない――ということです。それは、個人生活や私的利益をすべて完全に取り除き、捨て去り、それと手を切って、キリストがすべてとなるためです。これが、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」とパウロが述べたとき、言わんとしたことです。キリストのものではない命が完全に十字架に渡されて死ぬことにより、キリストの表現が生み出されます。キリストのものではない命は主イエスの墓の中に落ち、主イエスの墓から彼の表現が生じます。

死によるキリストとの合一により、私たちは停止し、キリストが開始されます。そしてこの最初の時から、キリストがすべてとなられます。これは基本的なことであるだけでなく、漸進的なことでもあります。その意義や目的はすべてを包括していますが、漸進的でもあります。私たちはこれを一度限り完全に受け入れなければなりません。私たちは、きわめて明確かつ意識的に、この立場を取らなければなりません。その立場は、今、死によるキリストとの合一を受け入れることにより、自分がもはやまったく地位を占めなくなる立場であり、また、自分が現れる時はいつでも、打たれ、脇にやられ、先に進むのを許されなくなる立場です。

私たちは一度限り明確に明け渡すことにより、今から後、次のことを受け入れなければなりません。すなわち、自己から出たものはすべて、あの十字架によって容赦なく打たれること、そして、自己が入り込む時はいつでも、自己が立場を得ることは許されないことです。私たちはこれに明確に片を付けて、あの包括的かつ総括的な完全な根拠に基づいて、主がその真の意味を実際化してくださるよう、主と交渉した方がいいでしょう。問題は、それに関する私たちの認識や把握や理解――「これはあってはならない『私』である」と自分で思うもの――ではなく、「私」であることを主がご存じのものです。問題は、自分に関する自分の知識の量ではなく、私たちに関する主の知識です。自分の考えや想像以上に、「私」であるものを大量に示されるでしょう。ですから、私たちの知識にしたがってではなく、主の徹底的な知識にしたがって、自己はあの十字架の力の下に渡されなければなりません。これを私たちは一つの行為によって受け入れます。

次に、これは漸進的な過程になります。日毎に死ぬこと、主イエスの死を常にこの身に負うことにより、主の死が日毎に働いて、私たちに自己を否ませます。これは私たちが最初にそれを受け入れた結果です。しかし、これ――十字架へのあの犠牲的明け渡し――がなされるとき、キリストの命が複製されます。彼ご自身の命の力により、私たちが減少している間、彼が増し加わります。自分を脇にやるよう要求されるたびに、その要求を満たしてそれに応じるなら、それはキリストが増し加わる機会となります。キリストの死の意味の新たな領域を受け入れるよう私たちに要求するものは何でも、私たちがそれを受け入れるなら、復活の命によってキリストの度量を増し加えるものとなります。

ですから、内なる命としての復活したキリストの意義・真価は複製にあります。他に道はありません。この道以外に、新約聖書にしたがってクリスチャンを整える道はありません。主ご自身の者の数を増やすことは、外側から何かを付け加えることによりません。十字架に来て死ぬことによります。これが唯一の道です。「キリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた」という立場に立たない限り、決してクリスチャンたりえません。

すべてが生き生きとした性格を帯びる必要性

これが二番目の点です。これは、これまでの考察で述べてきた最初の点に、私たちを連れ戻します。すなわち、キリスト教、キリスト教的真理、キリスト教的秩序を組織化して、それを一つの体系として運用したり、適用したりすることは、神の御心に反するのです。それは命の結果、命の成果でなければなりません。複製はただ命によります。教理体系としての真理にはよりません。複製は何らかのキリスト教的秩序を打ち立てることにはよりません。命によります。ですから、すべては生き生きとした性格を帯びる必要があります。キリストが増殖されうるのはただ(ここでは増殖という言葉を適切な意味で用いています。文字どおりキリストが何人もいるようになることだと思う人はいないでしょう)、すべてが生きていて、生き生きとした秩序にあることによります。

これは私たちを三番目の点に導きます。これはいま述べたことをある程度明らかにして、解き明かします。

教会の性質
(a)構成

教会を構成するものは何でしょう?教会はキリスト教の信条や一組の信仰箇条に基づいて構成されるのではありませんし、ある教理的主張に賛同することによるのでもありません。教会は、教会に加わるよう人々に求めることや、教会の構成員や支持者となるよう求めることによって、構成されるのではありません。教会は主の復活の命の伝達によって構成されるのです。複製が教会の増し加わりの法則です。

増し加わりは二つの方法で実現できます。一つは模造の方法です。鋳型を使って大量生産することができます。すなわち、同じ型で多くのものを造ることにより、模造によって増し加わりや増殖を実現します。言うまでもなく、このような方法は教会成長に関する新約聖書の方法ではありません。これは複製のための新約聖書の方法ではありません。

他の方法は受胎によります。すなわち、内側から命が成長することです。命が表れて、自分の道を進む時は、この形を取ります。これは外面的であるというよりは、むしろ内面的です。模造品と受胎によるものとの差は、死んでいるものと生きているものの差です。一方は造られますが、他方は生まれます。主ご自身の復活の命の活動とエネルギーが伝達授与される結果、教会が構成されます。たとえあなたが何を発展させたとしても、もしキリストの復活の命が働いておらず、御霊によって十分に伝達されていないなら、真の教会成長は決して得られません。

(b)秩序

同じ法則が教会の秩序にもあてはまります。教会の秩序は主の命の結果です。ここでも二つの方法がありえます。あなたは職務に任命して、ある肩書きや名称――それらは特定の活動領域、働きの種類、責任を示すものです――を割り当てることができます。また、そのような職務や地位に選出したり、投票することもできます。そして、このような道筋に沿って進んで、教会の秩序を確立することができます。

あるいは、別の道筋にしたがって、命の法則に治めてもらうこともできます。この場合、考慮すべきは、教会の構成員たちの間における、主の命の働きや現れであり、教会の構成員たちが、この命により、ある霊的能力のしるしを示し始めるようになる道です。能力は様々な方法で生じて、発現します。そしてやがて、その自発的現れにより、また主の命がそのような構成員たちの間で自らの道を進んだ結果、教会は次の事実を考慮せざるをえなくなります。すなわち、自分たちの間のある人物が霊的に資格づけられているという事実、そして、その人はまさにこの神の命の働きにより、すでに霊的に資格づけられているため、特定の奉仕に適材適所の人材であるという事実です。

命は教える奉仕や管理の奉仕の中で現されるかもしれません。それはたんなる天然の能力ではありません。生まれつきの長所の結果や、訓練などの結果でもありません。霊的なしるしを帯びているのです。そこで主の民はそれを考慮して、「明らかに主はこの人にこのように賜物を与えておられます。私たちはこれを考慮して、その発現を許さなければなりません」と言うようになります。こうして、教会は命の道筋に沿って秩序づけられます。

エペソ書の有名な節に関して、私たちに疑問が向けられるかもしれません。「彼は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えてくださいました。それは聖徒たちを成就して、奉仕の働きをさせるためであり……」。主がこれをなさった時、主はご自身のなさったことを教会に知らされたでしょうか?「わたしは今、あなたたちの使徒として、あなたたちの預言者として、あなたたちの伝道者として、あなたたちの牧する者また教える者として、これこれの人を確かにあなたたちの間に送りました」と主は言われたでしょうか?あるいは、主の賜物は最初は秘密であって、各々の信者が主と共に進むときはじめて現され、ある形で発達しつつあることが分かったのではないでしょうか?そうではなかったでしょうか?一般的に言って、私はこれが真実だと思います。主の天的秩序の永続性は従順の結果であり、機械的なものでも、事務的なものでも、教会法的なものでもありませんでした。活発で、生き生きとした、霊的なものだったのです。

これはとても重要です。主は、奉仕者たちを任命すること――奉仕や奉仕者を建て上げること――を、私たちの手に委ねられません。主は命によって奉仕を成長させられます。主が奉仕を成長させておられるところでは、教会はそれに注意を払わなければなりません。その任命が神によってなされたことは全くそのとおりかもしれませんが、それは機能する前に命によって現されなければならないことも同様に真実です。バルナバとパウロが長い間アンテオケで待たされたのは、一つにはこれが理由だと私は信じています。パウロは確かに召されており、選ばれていました。天が彼を使徒として定めたことに、何の疑いもありませんでした。また、使徒のしるしがすべて彼に備わっていました――最高のしるしは、第一に彼が復活した主を見たことでした。しかし、この主権的選びや彼に対する個人的委任にもかかわらず、彼はまずダマスコへ行き、自分のなすべきことを、教会すなわち会衆の一人として、教えてもらわなければならなかったのです。そして次に、集会の一構成員として、アンテオケで一年以上待たなければならなかったのです。

その当時ですら、主はパウロのところにも、その仲間であるバルナバのところにも、来てこう告げることはなさいませんでした。「さあ、わたしがあなたたちを召した働き――あなたたちはそれを知っています――わたしがあなたたちに告げた働き、あなたたちを選んだ働きに出て行きなさい!出て行って、それに取りかかりなさい!」。主は、その会衆の指導的メンバーたちを通して、「バルナバとサウロをわたしのために選び分け、わたしが彼らを召した働きにあたらせなさい」という指示を与えられました。その教会がこれを行えたのは、その命令のためだけでなく、この二人はこの奉仕に召されていることが彼ら自身の間で実証されていたからでした。彼らは、自分たちが奉仕に召されていることを、会衆の中で命によって示したのです。これが主が奉仕者たちを示される方法です。

これは私たちを、「あなたは主と共に進み続けない限り、自分の奉仕を知ることはできない」というこの点に導きます。あなたは神によって定められており、主権的に選ばれているかもしれません。あなたの生涯は偉大な価値を持つ奉仕と関係しているのかもしれません。あなたはそれについてまだ何も知らないかもしれませんが、「あなたはわたしのために選ばれた器です」という主の御言葉があなたにもぴったりとあてはまるのかもしれません。しかし、自分の奉仕が何かわかるようになるのは、あなたが命の中で主と共に進み続けるときだけなのです。

あなたの内に主の命が増し加わるにつれて、そして、主とのあなたの交わりが妨げられることなく進んで、その意義や真価を発揮するようになるにつれて、あなたは、主が自分の内である特定の方向に動いておられること、そして、自分がある奉仕のために訓練されつつあることが、わかるようになります。自分の奉仕をあらかじめ教わって、それに実際に気づくようになる人は、私たちの間にだれもいません。私たちが自分の奉仕を知るようになるのは、私たちが神と共に進み続けて、その命が自らの道を進む時だけなのです。

これは重要なことです。奉仕は命にかかっているからです。奉仕は機械的任命によりません。私たちは奉仕者を建て上げられません。奉仕者を建て上げられるのは復活したキリストだけであり、キリストはご自身の復活の命によって奉仕者たちを建て上げられます。キリストの復活の命なしに奉仕者になろうとする人の前途には、災いが待ちかまえています。私たちの内にある主の命の結果によらずに、なんとか奉仕者になろうとすることから、主は私たちを解放してくださいます。復活した主の命は、その命の所有者である主の御心にしたがって、それ自身の姿を取ります――それ自身の方法で表れます。

教会の成長

この点にはすでに触れましたが、繰り返し再び強調することにしましょう。教会成長は命の原則に基づきます。この世を行き巡って人々を一つに集め、キリストに関するいくつかの主張を受け入れるよう人々に求め、それから人々を諸教会へと形成すること、このようなことは決してできません。主は諸教会を形成するよう私たちを召しておられません。それは私たちの仕事ではないのです。人々が神に対してこの事実を認識していれば。もしこれが認識されていれば、今日の状況は現状とはだいぶ違っていたでしょう。

教会を拡張する御方、教会の成長を支配している御方は主です。私たちのなすべきことは、主の復活の力により、主に任命された所で生きることです。もし他者のただ中で、主が次のような主の子供たちを二人だけでも得られるなら、主は開かれた道を獲得されるでしょう――その二人の内には主の命が満ちていて、自由です。また、彼らはこの命の基礎に基づいて生きています。他の人々を自分たちのところに集めようとはしませんし、ある真理や教えを受け入れることを条件に、人々を一緒に集まらせようともしません。ただ、キリストが自分たちにとっていかなる意味を持つのかを証しします。このような方法で単純に生き生きと証しがなされる時、「彼らの持っているものを自分も欲しい!」と、ついには様々な人たちが言うようになります。また別の人は、「私はあの人の経験がうらやましい。これこそまさに私が求めていたものです!」と言うようになります。このような人たちは救いの道を尋ねてやって来ます。あるいは、彼らを主に導く機会が見つかります。このような方法で教会は成長するのです。

教会成長は、あなたがキリストを宣べ伝えて、他の人がそれに応じるとき、街角で進むこともありえます。人が心でキリストを信じ、口で彼を主と告白するなら、御霊によって命を与えられ、主のものになります。教会の増し加わりは、あなたが出て行ってビルを借り、人々をそこに来させようとすることや、自分の集会に来させようとすること、そして、教会名簿で人々を地方教会に形成することによるのではありません。これはその道ではありません。成長は命によります。最初これは、たった一人だけが命の中に入ることによってであるかもしれません。次に、長く待った末に、別の人が命の中に入ります。あるいは、もっと早いかもしれません。しかし大事な点は、それが命ゆえの増し加わりであることです。これが教会成長です。

主の教会の成長のために、主は命の経路、命の拠点を得なければなりません。私は信じていますが、命の拠点を与えられるなら、遅かれ早かれ、次の二つの出来事のいずれかが起きるでしょう。すなわち、そこではキリストが完全かつ決定的に拒絶されるか、あるいは、増し加わり――成長――が起きるかのどちらかです。これが十分明らかになるでしょう。命には凄まじい力があります。主の命は殺すか生かすかです。どちらになるかは、それに対して取る姿勢次第です。主は命から命へと至らせる香りであるか、死から死へと至らせる香りであるかのどちらかです。何者も決して中立のままではいられません。主が必要としておられるのは命の拠点です。

必要最低限ではあるもののなんとか十分な数は、まず二人です。主の命の中で一つである二人、あの命の中で協力しあう二人です。主は彼らを二人ずつ遣わされました。これが教会の核です。敵はこのような者たちを殺したり、抑圧しようとします。あるいは、分かれさせようとします。そうして、主に対して彼らが持っている増殖上の有用性に関して、彼らを霊的に滅ぼそうとします。これを覚えておいてください!主の権益は、その一つの命による二人の交わりと密接に関係しているのです。

復活した主の全資源を開拓すること、それに基づいて生きること、それに頼ることが、この主要な問題においては、なぜこんなにも重要なのか、そして、主の命の霊的な隠されている天的資源、主の豊かさが、なぜこのように私たちの生活の基礎とならなければならないのか、今、私たちは理解できます。その目的は私たち自身にとどまりませんし、私たち自身のためでもありません。もしそれらをそのように転用するなら、私たちは死ぬでしょう。この備えは主の御旨のためであり、主の御旨は複製すること――主ご自身の復活の命を複製することなのです。