神の家の諸原則

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:詩篇一三二篇

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建造に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」

これと関係する、読むべき聖書の箇所がたくさんあります。しかし、紙面が限られているので、進みながら参照するだけにしなければなりません。

議論するまでもないと思いますが、人々の間の神の臨在の中心、すなわち、神の家は最重要事項です。神の家は神の臨在の中心です。なぜなら神の家は、主の関心事や権益に関する他のいっさいを含んでおり、それと関係しているからです。主の家は神の権益と関心事という広大な領域の中にあります。最終的に、それは広大な領域に恩恵をもたらすでしょう。神はそれを通してご自身を現されます。それは神の臨在の中心です。

旧約聖書のこの箇所に記されている偉大な型である宮を考えることにより、この神の中心的住まいの基礎や基盤を成している諸原則を学ぶことができます。

信仰と従順の勝利

今しがた読んだ節は、歴史的にも霊的にも、多くの事柄に対する鍵です。初めに、次のことを再び指摘したいと思います。すなわち、神の家、主の住まいの第一の原則は、他のものがすべて塵になった時に現される、信仰と従順の勝利です。アブラハムの希望と望み、そして彼に対する神の約束と神の契約は、すべてイサクにかかっていました。イサク以外にアブラハムは何も持っていませんでした。それなのに神は仰せになったのです、「今、あなたの息子であるイサクを取り、全焼のいけにえとしてささげなさい」(創世記二二章二節)と。ヨブの言葉によると、これは「あなたの宝を塵の中に置きなさい」(ヨブ記二二章二四節)ということでした。ヘブル人への手紙の著者が述べているように、契約や約束がすべてかかっている者をアブラハムはささげたのです(ヘブル人への手紙十一章十七、十八節)。一つの面から見ると、アブラハムはまさに人生の動脈を断ち切り、希望、将来、可能性をすべて手放しました。この観点からすると、すべてが灰になりました。神の介入がなければ、イサクはたちまち灰になっていたでしょう。実質的に、彼は灰になったのです。アブラハムの心構えや従順に関するかぎり、イサクはすでに灰になっていました。薪がそこにあり、祭壇と刀の用意も整っていました。しかし、信仰が従順を通して勝利しました。そして後に、まさにこのモリヤ山が、宮すなわち神の家の建設地になったのです。神の家はこのような基礎の上に建造されます。

これはカルバリを予表します。純粋に地的な観点から見ると、カルバリはいっさいの希望の終わりでした。それは宝を塵の中に置くことでした。それは灰であり、終わりでした。この十字架の周りにいた人々にとってそれがいかなるものだったのか、私たちは知っています。すべてが終わったかのようでした。しかし、この偉大な宇宙的ドラマの中心的特徴は、それが死に至るまでの、実に十字架の死に至るまでの信仰の従順だった、ということでした。今も昔も、神の家はこの基礎の上に建造されます。これが一つの原則です。それは大いなる現実であり、キリストに関する大いなる教理です。しかし、これは実際的なことです。つまり、この種のことが進む時だけ、神の家の基礎や基盤の設置そして建造が可能になるのです。

いのちを捨てること

これと関係する原則は、すべてが暗闇で何の希望もないように思われる時に、教会は従順と信仰によって自分のいのちを手放して、自分の魂を絶えず放棄しなければならないことです。従順な歩みが必要です。その歩みは、見込みも希望もないように思われることをするよう私たちに要求しますし、したがって、私たちの命、私たちの魂の放棄を必然的に伴います。これが建造の道です。これまで常にそうでした。

若い男女がこの世の望みをすべて捨て、自分の宝を塵の中に置いて、主の命令で出て行く時、彼らはこの世の希望や望みに関するかぎり、すべてを灰の中に置いたのです。教会はこのような方法で建造されてきました。主に対する従順と信仰によって自分の利益を手放すことは、人生の目的に関わる偉大な行為に限られたことではなく、日常的なことでもあります。こうして建造が進みます。主が指を置いて「わたしはこれを望んでいます」と言っておられるものを惜しむことにより、神の家の発展はなんと遅らされ、妨げられることでしょう。私はこれを大いに詳しく扱って示すことができます。

しかし、一般的原則があります。それは、すべてが灰の中に置かれる時、従順を通して信仰が勝利することです。アブラハムは神を信じました。この偉大な勝利により、神は宮の建設地を獲得されました。この宮は、神のすべての御旨を成就する上で中心的な役割を果たすあの霊の家の、偉大な例であり、型でした。神はそのような家の中に住まわれます。しかし、この中心的な家は深い取り扱いを受けなければなりません。神の臨在のまさに中心であり、神がご自身をお委ねになるこの家は、他の何ものにもまして多くの剥ぎ取りを経験しなければなりません。これは必然的に深い働きを伴います。とても深い試みを通して、信仰が完成されるのです。

犠牲的な神の愛における神との交わり

このとても深い試みと並んで、犠牲的な神の愛における神との完全な交わりという要素があります。アブラハムは、愛する御子を惜しまずに私たち全員のために無償で与えてくださった方の御心の中に踏み込みました。このアブラハムの偉大な歩みについて語る際、私たちはこれまでしばしばこの要素を指摘してきました。それはまさに、神の愛の犠牲的性質にあずかること、すなわち代価を払って与えることでした。これが神の家が確立される唯一の道です。愛のゆえに、代価を払って与えなければなりません。アブラハムにとってイサクは愛する大切な者でしたが、彼がイサクより神を愛したことはきわめて明白です。この素晴らしい宝を保つことより、従うことの方が遙かに重要であることを、アブラハムは理解していました。これが愛です。これが、「主を畏れること」と聖書が称しているものです――愛による畏れの要素です。

これがどういう意味か、きっとご存じでしょう。あなたがとても重んじている人、その人の愛をとても高く評価している人がいるとしましょう。あなたはその人を失望させないよう、絶えず大いに気を遣います。これが主への畏れの性質です。アブラハムは神を畏れました。神の家はこの種の畏れの上に建造されます。これには実際的な日常的意味があります――私たちの心の中にある神の愛は、私たちの尊い犠牲と献身という結果になります。

人の栄光は低くされる

次に、アブラハムからダビデに移ります。宮の建設地になったこのオルナンの打ち場は、人に栄光を帰すサタンの働きを断ち切ること、そして人を大いに低くすることを表徴していました。イスラエル人を数えるようサタンがダビデを誘惑したことは覚えておられるでしょう――ヨアブのような肉の人でさえ、それを見抜けました。「主がご自身の民を今の百倍にしてくださいますように。しかし、わが君なる王よ、彼らはみな、わが君のしもべではないでしょうか?なぜ、わが君はこのようなことを要求されるのでしょう?なぜ、イスラエルに対して咎ある者となられるのでしょうか?」(歴代誌上二一章三節)。「主はとても多くのことをしてくださいましたし、それ以上のことをしてくださるでしょう。しかし、自分の資産の大きさを評価するために、そして自分の王国の偉大さを誇るために、人数を数え始めることはしないでください」。

ヨアブは肉の人でした。しかし肉の人の中には、クリスチャンよりも原則について理解している人がしばしばいるようです。しかし、ダビデは神の知恵と人の善良な知恵を退け、イスラエルを数えることに固執しました。その結果はご存じでしょう。人に栄光を帰すこと、そして人の能力や達成を重んじることは、すべてダビデに対するサタンの促しから発していました。主は出て来て、それを容赦なく打たれました。そして、人に栄光を帰すサタンのこの働きは断ち切られ、人は大いに低くされました。オルナンの打ち場に来た時のダビデは情けない有り様です。ああ、この人は今や、塵に下るほど低くされています!

神の家の建造が可能になるには、まずこれがなされなければなりません。人を重んじるサタンの働きは完全に断ち切られなければなりません。人の栄光や、自分のために栄光を求める人の欲求は、低くされなければなりません。これは主の御名のための家であり、天と地と地獄の中にある他の名のためではありません。「わたしの栄光を他の者に与えはしないと主は仰せられます(イザヤ書四二章八節)。

主は常にこれをなさっています。ああ、神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ!ああ、神に属する領域の中で得る名声!ああ、教会の中で地位を得る喜び!ああ、この肉は自分の喜びや満足を求めてなんと頻繁に活動することか!主は常に肉を激しく打ち、痛撃を加えておられます――それは、主の家が私たちから出たものの上にではなく、正しい基礎の上に建造されるためです。これは私たちに強い感銘を与えます。

主よ、ダビデのために、彼のすべての謙卑を思い出してください」(詩篇一三二篇一節)。この「謙卑(humiliations)」という言葉は、英訳で用いられている言葉よりも正確です。本文では「苦しみ(afflictions)」ですが、他の言葉を付け加えて「彼が自分自身を苦しめた苦しみ」と言わなければ、真の意味は伝わりません。彼は言います、「私はなんと自分を低くしたことでしょう!私は自分の目に眠りを与えず、寝床にも上がりません。自分の家を楽しむこともしません。私は自分を低くし、乏しくなりました。それは、主のために一つの場所を見いだすためです」。主はこの謙卑を要求されます。主は人をこのように砕かれます。それは、家が正しい基礎の上に据えられるためです。これが私たちに対する主の取り扱いの理由です。主は私たちを何者にもされません。

真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません。名声を求めてはなりません。印象づけようとしてはなりません。自分の威厳に固執してはなりません。人々よりも抜きんでて、彼らに自分を尊重させようとすることを、決して何もしてはいけません。そういうことは主には通用しません。

ですから、それを取り除きましょう。すべて取り除きましょう。神の目から見て自分がいかなる者なのかをわきまえましょう。主はこれを成し遂げられます。ですから、自分の真の姿とは異なる姿を人々の意識に植え付けて優位に立とうとするなら、私たちは神の家の原則に反することになります。自尊心はすべて捨てなければなりません。認められたいという欲求も、すべて捨てなければなりません。このようなことはみな、一掃されねばなりません。神の家はそのようなものの上に据えられることはありません。神はそのようなことを許されません。人は低くされます。それ以外のことは、すべて悪魔の働きです。それは、心の中に高ぶりが見つかった者から来ます。

あわれみと裁きが出会う

次に、宮の建設地になったこのオルナンの打ち場は、裁きとあわれみが出会った場所であることを、あなたたちに思い起こさせましょう。私たちは次のように歌います、

「あわれみと裁きをもって、
主は私の時をつむがれる。」

裁きがなければなりません。ダビデの場合もそうでした。しかし、裁きは一つの面にすぎません。あの日、あの打ち場で、裁きとあわれみが出会い、互いに口づけを交わしました。その結果が宮でした。裁きは神の家から始まらなければなりません。しかし、神に感謝します。それは完全な滅びに至る裁きではありません。それは裁きの混ざったあわれみであり、その結果は、裁きに対するあわれみの勝利です。これがカルバリであり、神の家です。常にこうであることがわかるでしょう。裁きがあるでしょうし、なければなりません。私たちはこれをとてもよく知っています。

主はご自身の家の原則に反するものを見逃されません。パウロはこれをコリント人たちに知らせようとしましたが、私たちもこれを知ってさえいたら。今日、多くの人が様々な方法で苦しんでいます。なぜなら、彼らは神の家の原則を守っていないからです(コリント人への第一の手紙十一章三〇節)。そこには裁きの面があり、裁きが進みます。しかし、ああ、神がそうなさるのは、ただあわれみを示すためなのです。神の目的はあわれみです。こうして、神はご自身の家の基礎を据え、こうしてご自身の家を建造されます。

神は人に借りをつくらない

神の家では人に借りがあってはなりません。ダビデは神聖な原則になんとこだわり、今やそれに対してなんと敏感なのでしょう!精錬する火が私たちを原則に対して目覚めさせます。別の機会のダビデがそうでした。契約の箱がどのように車の上に置かれたのか、覚えておられるでしょう。ダビデは聖書を忘れていました。彼は苦しみの時を通り、ついに神の御言葉の中に神聖な原則を見いだし、事態を正しました(歴代誌上十三、十五章)。ここで、彼は再び原則に対して敏感です。オルナンはダビデに打ち場を与えたかったのに、ダビデは言いました、「いいえ、私はあなたに十分な代金を払います。そうすれば、『神の家は人に借りがある』とはだれも言えないでしょう。後で他の人が、『そうです、私がそれを神に与えました。その宮の敷地は私の贈物です』と言うことはできないでしょう」。

どの備品にもオルナンを示すものがあってはなりません。神の家では、何人も貸し手としての地位にはありません。そこでは人に借りはありません。人は外に出されます。あなたはこれを適用することができます。

脱穀

これは打ち場であり、主の御前ですべてが脱穀される場所でした。ここに籾殻はありません。現実的で純粋で真実で堅固でないものは、何もありません。建造に寄与しないものは何もありません。本物の穀粒でなければなりません。神は常にこれをなそうとしておられます。神の家は打ち場です。私たちの籾殻、空虚さ、空しさは、すべて取り除かれつつあります。真に重要でないものは、みな取り除かれつつあります。神はご自身の家の建造の材料を求めておられます。別の比喩を用いると、神はからだを求めておられます。神は穀粒を求めておられます。籾殻は去らなければなりません。主の民の間における私たちの主との関係において、私たちは主の家を構成している者として次のことに気づきます。すなわち、主は私たちの空虚さ、虚構、籾殻を、吹き分け、脱穀し、取り除いておられるのです。しかしそうすることによって、主は実際のものを獲得されつつあるのです。主は堅固なもの、残るもの、養いになるものを獲得されつつあります。これが主の建造の土台です。

これまで述べてきたことはみな、大いに実際的な方法で成し遂げられなければなりません。用いられている絵図は型や象徴にすぎませんが、その実際は聖霊の御手の中にあります。聖霊は、神の民の生活の中でそれらが成就されるよう、絶えず求めておられます。聖霊が私たちに働かれる時、それに全く協力するよう注意しましょう。