さて、エゼキエルの預言に戻ることにします。覚えておられると思いますが、昨晩、私たちは務めのための預言者の備えについて考え始めました。そして、開かれた天について述べました。「天が開かれて、私は神の幻を見た」。さて、今朝、私たちは「神の幻」というこの句の後半に進んで、この預言者に与えられたこの最初の幻を取り上げることにします。これは四節から二八節までの部分を占めています。あなたたちはこの三つの章を注意深く読んでおられるので、今朝この区分をもう一度読む必要はないでしょう。
注意すべき第一の点は、この幻はみな一つのものであるということです。この幻には多くの部分がありますが、ただ一つの目標を目指しています。この章の最後の節は私たちにこれがそうであることを告げます。二八節の第二区分は、「主の栄光の形のさまは、このようであった」となっています。この章に記されていることはみな、「主の栄光の形のさまは、このようであった」という句に含まれているのです。
この幻全体を包括する要素は主の御座でした。この幻の中にある他のものはみな、この御座の一部にすぎません。それらはみな主の御座を構成するものなのです。これを理解することがとても重要です。あなたたちはこの幻の中にある多くの異なる点を扱っているのではありません。多くの部分から成る一つのものを扱っているのです。火、稲妻、恐ろしい力、圧倒的な推力、生き物、車輪、人の形があります。これらのものはみな御座の一部です。それらのものが主の御座の意義を構成しています。それらはみな「主の栄光の形のさまは、このようであった」というこの最後の句の中に含まれているのです。
さて、この章に記されているこの形を理解していただきたいと思います。「御座は何かしら分かれていて遙か天上にあり、ケルビムたちは地上にいる」と思うべきではありません。これらのものはみな一つであることを私たちは見なければなりません。ここでは上の方に御座があり、次に御座の下に天空があり、さらに天空の直下にケルビムたちがいます。しかし、それらはみな一つであり、みな一緒に動いています。御座とケルビムたちは一緒に動いているように思われます。それらは北から来るのが分かります。これはみな一つのものであり、これがいま私が強調したい点です。さて、天空の下に何があるのか考える前に、何が上にあるのかを考えることにします。おそらく、二六節をもう一度読んだ方がいいでしょう。
「生き物たちの頭上の天空に、サファイヤのような御座の形があった。そして、その御座の形の上に、人の姿のような形があった。」(アメリカ標準訳)
そこで、「すべてを支配している要素は御座の人である」と述べて始めることにします。この意義を理解しない限り、あなたたちはエゼキエルの預言全体を理解することはできません。この書に記されていることはみな、過去のことであれ、未来のことであれ、御座の人という光の中で見る必要があります。天空の上に一つの御座があり、そこに人のような形が着いています。統治権はすべて、御座の人に与えられています。これはエゼキエル書に対する鍵であり、特に今の経綸に対する鍵です。御座の人に統治権が与えられています。これがすべてに対する鍵です。他のものはみなこれから発し、これに向かって他のものはみな進みます。
この一連の学びを始める時、私たちは「この書には今の経綸に対する使信はあるのか?」という大きな問いを発しました。その答えは新約聖書からの三つの箇所によって与えることができます。一つはヨハネ六・六二であり、主イエスご自身が語られた御言葉です。「人の子がもといた所に昇るのを見たらどうなるのでしょう?」。これは人の子がいるべき正当な所はどこなのかという問いにつながります。「人の子がもといた所に昇るのを見たらどうなるのでしょう?」。二番目の箇所は使徒行伝七・五六でステパノが述べた言葉です。「天が開けて、人の子が神の右に座しておられるのが見えます」。これは主イエスの御言葉が成就されたことを啓示しています――「人の子が神の右に座しておられるのが見えます」。この質問は答えられました。
さて、三番目の箇所はこれらを含んでいるだけでなく、さらにその先を行くものです。それはヘブル人への手紙一章八節の中にあります。「御子については、『あなたの御座は、おお神よ、代々限りなく続きます』と言っています」。この節は彼がもといた所にまで遡っており、人の子はもといた所に昇られたことがわかります。あなたの御座は永遠の過去からであり、永遠まで続きます――「あなたの御座は代々限りなく続きます」。これは御子について述べていますが、イエスはご自身のことを人の子と言われました。人の子が永遠の御座に着いておられるのです――「天空の上に御座があり、人の姿のようなものがそれに着いていた」。
正当な地位についた人なる御方
まず第一に、神には人なる御方がいます。神には人なる御方があり、この人は神が常に望んでこられた御方であり、神が得ようとしてこられた御方です。そして今、この人は正当な地位についており、神が意図された所におられます。この二つの点をしっかり把握してください。なぜなら、これまで述べてきたように、この二つがすべてを支配しているからです。ついに神はこの人を獲得されたのです。神はこれまでずっとこの人を求めてこられた、という感覚があります。神はアダムを創造してそのような人にならせようとしました。そして、神は歴史を通して御心にかなうこの人を求めてこられました。神はこのような人として御子を見いだされました。これが受肉の完全な意義です。神は一人の人を備えて、この人は今や神に定められた地位についています。この人はその正当な地位についています。彼は統治する地位についています。これは詩篇八・六の「あなたは彼に主権をお与えになりました」に呼応します。主権と権威はみな、この人に与えられています!彼は神の御子ですが、人の子でもあります。さて、すべてはこれによって支配されていることに、私たちは注意しなければなりません。主の僕の備えはこれによって支配されています!主の僕の務めはこれによって支配されています!務めはみな、この御座の人から受けた性格を帯びていなければなりません!
次に、この偉大な書をさらに読み進むと、神の裁きに来ます。最初に主の民が裁かれ、次に諸国民が裁かれます。これらの裁きはみな、御座の人によって支配されています。裁きの後、神の証しの回復に来ます。神の証しの回復は御座の人にしたがってです。今これに長い時間を費やすこともできるのですが、その大いなる豊かさについては後で述べることにします。
しかし、次のような疑問が生じます。「神が欲しておられる証し、神が回復することを欲しておられるものとは何でしょう?」――それはイエスの証しです。神は御心にかなう人を得ておられること、神の御心にかなうこの人はある種類の人であること、この人は他のすべての人とは異なること、すべての権威はこの人なるイエス・キリストに与えられていること――これが証しです。これが神が回復することを願っておられる証しです。後で見ることになりますが、この証しが見いだされるのは神の家の中です。神の家はこの人にしたがって構成され、この人の意義が神の家の中で表現されます。私たちの到着点は、神の家の中で表されるイエス・キリストによる神の証しです。
ですから、エゼキエルの預言に記されているように、回復の働きはこの御座の人によって支配されています。「回復の働きは御座によって支配されている」と私が言う時、それは公の統治を意味するだけではありません――すべてを支配しているのはこの人の性格であるということも意味します。次に、神のこの家に進みます。神の家はこの数々の預言の中でとても重要な地位を占めています。これはとても素晴らしい家です。この家に来る時、この家は御座の人によって支配されていることがわかるでしょう。次は川です。この川はこの家から始まり、祭壇のそばを流れ、庭を出て、この国を流れ下ります。川の流れるところ、すべてのものが生きます。これは使徒行伝の内容に対応することがわかるでしょう。なぜなら使徒行伝では、この川は霊のエルサレムの聖所から流れ出て、ユダヤ全土、サマリヤ、地の果てまで流れることがわかるからです。この川の流れるところ、すべてのものが生きます。これはとても長い川です。これは世界最長の川です。これは中国にまで至りました。これはインドを流れています。これは全地を流れる川であり、この川の流れるところ、すべてのものが生きます。しかし、覚えておいてください。この川の出発点は御座の人です。これはみな、神がこの人を正当な地位に置くことによって支配されているのです。
次に、神の民が嗣業を受けるのを私たちは見ます。これは新約聖書のもう一つの偉大な真理であり、主の民が霊的な嗣業を受けることです。これがこの数々の預言の中で述べられている最後の点の一つです。ここでもまた、主の民が嗣業を受けるのはただ、主イエスが正当な地位につかれる時だけです。別の言い方をしましょう。イエスが正当な地位につかれる時、神の民は嗣業を受けるのです。主が正当な地位につかれない限り、私たちは決して嗣業を受けられません!
さて、使徒行伝を見てみましょう――何という豊かさを主の民は受けるのでしょう!何と大きな嗣業を彼らは受けるのでしょう!彼らはこの嗣業をいかなる理由で、また、いかなる方法で受けるのでしょう?この書が伝える大いなる使信は「イエス・キリストは主である!」ということです。神はあらゆる支配や権威を遙かに越えて彼を高く上げられました!イエスがご自身の地位につく時、主の民は嗣業を得ます。
これらの預言の最後のものは都です。聖書で最後に記されているのは都であり、この都から川が流れ出ることを私たちは知っています。しかし、この川は神と小羊の御座から流れます。イエスはついにご自身の地位に完全につき、都は彼の豊かさを入れる器となり、この豊かさはこの都から出てすべての諸国民に至ります。これらのことがみな、予型や象徴としてエゼキエルの預言に記されています。「この書には今の経綸に対する使信はあるのか?」という最初の問いに、これで答えたことにならないでしょうか?答えたことになることが、今やおわかりいただけたと思います。しかし、いま大切な点は、これはみな御座の人によって支配されているということです。
私たちはこれについて二つのことを見ます。なぜなら、神がキリストを天に上げられたことはとても重大なことだからです。これについてよくよく考えてもらうことにしましょう!神がキリストを天に上げられたのは何と偉大な事実でしょう!これは長いあいだ私たちを占有できるものです。「神は御力の卓越した偉大さを行使してキリストを天に上げられました」とパウロは私たちに告げます。これは、この宇宙の他の力はみな、キリストを天に上げるために征服されなければならなかったことを意味しました。神がキリストを天に上げられたことは、とても重大な事実です!次に、第二に、キリストが天におられる事実は、神の民にとってもとても重大な事実です。
裁きはキリストの御座から来る
さて、一、二分前に述べたことに戻ることにしましょう。裁きはすべてキリストの御座から来ます。キリストは御座からご自身の民や諸国民を裁かれます。エゼキエルの預言では裁きは神の民から始まることに注意してください。これは私たちを黙示録の冒頭に導きます。栄光の主イエスによって最初に裁かれるのは諸教会です。「裁きは神の家から始まらなければならない」ということが神の一つの原則です。もちろん、神のご性格から言って、これは必要なことです。神がこの世を裁かれ、この世の人々がクリスチャンたちを指さして、「彼らを見てください。彼らは何と矛盾しているのでしょう。にもかかわらず、あなたは彼らを放置しています。あなたは来て私たちを裁いていますが、ご自身の民を裁いていません」と言ったとしましょう。これは全くおかしなことです。ですから原則として、「裁きは神の家から始まらなければなりません」。私たちは主の民としてこの御座の裁きの下に来なければなりません。
この意味をとても注意深く説明することにしましょう。今朝、私はすでに一度ならずこれを述べました。この御座に着いているのはある種類の人であり、神はすべてをこの人の性格にしたがって裁かれます。これが黙示録の冒頭に記されていることです。この書の冒頭で、主イエスの全体像が描かれています。彼のパースンや姿が詳細に描かれています。彼はそのような者としてご自身を諸教会に示されます。次に、聖霊はまるで、「わたしはこの人にしたがってあなたたちを裁きます」と仰せられたかのようです。ですから、すべての教会に対して、「聞く耳のある者は、御霊の言うことを聞きなさい」と語られたのです。聖霊の働きはすべてキリストと関係しています。あなたたちはこれを新約聖書の一つの偉大な真理としてご存じです。さて、諸教会に対する課題は、「あなたたちはどれくらいこの人に達しているでしょうか?あなたの生活、性格、働きはどれくらいこの人に見合っているでしょうか?」ということです。
この人が裁きの基礎です。諸教会はこの人にしたがって裁かれます。これが裁きの意味です――神の測量線は御子です。問題は常に、「私たちはどれくらいキリストに達しているか?」ということです。これが裁きの意味です。教会を裁いてから、神は諸国民に向かわれます。これがエゼキエル書に記されていることであり、黙示録に記されていることです。神の民に対する裁きと諸国民に対する裁きはみな、この人にしたがっています。
イエスの証しの回復
次に、神の二番目の動きを見ます。黙示録において、これは大いに明らかです。それはイエスの証しを回復するための動きです。ヨハネは言います、「私は神の言葉とイエスの証しのために、パトモスと呼ばれる島にいた」。「イエスの証し」というこの句は黙示録の中に数回出てきます。これが神の活動の基礎です。
さて、諸教会の間の一つの問題は、「勝利を得る者に……」という問題です。勝利者たちは神の証しの回復を象徴します。神の回復の動きは勝利者たちによります。勝利者たちはキリストにしたがっていないものを捨て去って、今やこの神聖な人の表現となった人たちです。ですから、この書の最後に来る時、エゼキエル書でも、黙示録でも、都が出てくるのです。これは文字どおりの都ではないことを、私たちはみな知っています。文字どおりの都ではありえません。この都を地上に持つには、多くのものを取り除かなければならないでしょう。この都は、もちろん、絵図です。それは教会の絵図であり、今や教会は都として神の描写に呼応します。パウロはこれを次のように述べました、「キリストは教会を愛して、教会のためにご自身をささげられました。それは彼がしみや、しわや、そのようなものが全くない、栄光の教会をご自身に迎えるためです」(エペソ五・二五、二七、アメリカ標準訳)。この御言葉は黙示録の最後に出てくる都を完全に描写しています。「御霊は聖なる都エルサレムを私に示された。都は神の栄光を帯びていた――栄光の教会です――都の光は最も尊い宝石のようであった」(黙示録二一・十、十一)。光は常に純粋さの象徴です――「しみや、しわや、そのようなものが全くない」のです。「キリストは教会を愛して、教会のためにご自身をささげられました」――都の中央に小羊の御座があります。象徴がおわかりいただけたでしょう。霊的意義がおわかりいただけたでしょう――この最後の状態は御座の人に対応しているのです。
使徒行伝は大いなる始まりの書です。この書は御座のキリストと共に始まります。使徒時代の終わりに来る前に、状況は悪化し始めました。パウロの手紙からこれを察することができます。特にテモテに宛てた彼の最後の手紙からわかります。状況は悪化し始めていました。証しは失われました。次に、黙示録に来ると、神はこの証しを回復するために神の家から裁きを開始されます。黙示録の終わりでは、それが完全に回復されるのを私たちは見ます!
神の力と動き
さて、エゼキエル書に戻ることにします。この書の中に、すでに述べたように、私たちは神の力と動きを見ます。この最初の幻はその描写です。用いられている象徴を見てください。第一に「燃える火」です――だれがこの燃える火の前に立てるでしょう?この火が地上を一掃し始める時、だれもそれを止められません。火に抵抗することはできません。次に「ひらめく稲妻」です――それはここでは大きな電気嵐のようです。これは恐ろしいものです。だれがこの電気嵐の前に立てるでしょう?あなたはこれに刃向かうことはできませんし、それを一掃することもできません。この書には途方もない力を意味するあらゆる象徴があります。これはみな神の動きと関係しています。なぜなら、最終的に勝利したのはこの御座だったからです。
教会は当初、イエスが御座に着いておられることを大いに意識していました。サタンが御座に着いているのではありません。皇帝が御座に着いているのではありません――イエスが御座に着いておられるのです!教会はこの偉大な事実の力の中で前進しました!教会はこの事実に基づいて祈りました!教会はこの御座に向かって嘆願し、確信をもって祈りました。なぜなら、教会は彼が御座に着いていることを知っていたからです!あなたはその一つの例を思い出すでしょう――人々は大きな反対を受けており、支配者たちは立ち上がって、彼らに敵対しました。そして、教会は祈るために共に集まりました。その祈りの中で彼らは詩篇第二篇を引用しました。詩篇第二篇に何が記されているのかはご存じでしょう。「なぜ異邦の民は荒れ狂い、この民は空しいことを思いはかるのか?地のもろもろの王は立ち構え、共に集まって、主とその油注がれた者とに逆らう。(中略)天に座しておられる方は笑う。主は彼らをあざけられる。(中略)『わたしは詔を宣言した。わたしはわが聖なる者をわが聖なる山シオンに立てた』」。次に、王たちや支配者たちに向かって訴えがなされます。「御子に口づけせよ。さもないと、主はお怒りになるであろう」。人々が使徒行伝の中で祈りに用いたのはこの御言葉であることがわかります(四・二五、二六)。この御座とそれに着いている人に対する何という確信を、これは示しているのでしょう!彼らはこの根拠に基づいて祈ったのです!この根拠に基づいて宣べ伝えたのです!この根拠に基づいて歌ったのです!
そうです、彼らは歌う民でした。二人の人が歌っているのを聞いてください、この歌はどこから発したのでしょう?牢獄からです!打たれて傷つけられた二人の人がいて、地下牢の奥に放り込まれていました。彼らの足は鎖で堅くつながれていますが、それにもかかわらず歌っています。このような状況の中でどうして歌えたのでしょう?イエスが御座に着いておられることを知り、信じていたからにほかなりません!彼らの歌は信仰と確信の歌だったのです。すると数分後に大きな地震があり、すべての扉が開いて、彼らの鎖は外れ落ちました。イエスが御座に着いておられます。それゆえ、彼らは歌ったのです!
それゆえ、彼らは苦しみました!そうです、彼らは大いに苦しみました。しかし、苦しみに耐える力は、イエスは御座に着いておられるという意識から生じました。彼らはこの根拠に基づいて死んだのです!ステパノは死ぬ間際に言いました、「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」。これが彼の証しであり、この根拠に基づいて彼は死んだのです。
さて、時間がなくなったので、今朝はこれくらいにしなければなりません。私たちはこの偉大な幻の最初の部分しかまだ見ていません。しかし、この書の中には私たちの時代に対する使信があることを、あなたたちは理解されたと私は確信しています。しかし、次のことをあなたたちに思い出してもらわずに話を終えることはできません――すなわち、これはみな務めのために一人の人を整えることと関係していたのです。もしエゼキエルがこの幻を見ていなければ、彼は決して自分の務めを果たせなかったでしょう。彼の務めはみな、この最初の幻から発しました。私たちはこの意義を見なければなりません。「イエスは主であり、イエスは御座に着いておられます。それゆえ、私は進み続けることができます。私は困難に直面することができ、苦しむことができ、死ぬことができ、祈ることができ、歌うことができます!」。これが私たちを支配するものでなければなりません。