第3章 命なるキリスト

A. B. シンプソン

「この命が現れたので、この永遠の命を私たちは見て、それを証しし、あなたたちに知らせます。この永遠の命は御父と共におられましたが、私たちに現されました。」(一ヨハネ一・二)

「この方は真の神であり、永遠の命です。」(一ヨハネ五・二〇)

自然界と贖いが発する声はすべて、一言に集約することができます。その言葉は、春や、花々や、芽生えるつぼみや、鳥たちの歌声や、復活した主の開かれた墓や、喜ぶ聖徒たちの溢れる愛情と感謝の賛美から脈打ち流れ出る――という言葉です。

そして、この意義深い一つの言葉は、新約聖書の中で最も深遠な二つの書、すなわちヨハネによる福音書とヨハネの手紙の基調をなしています。他の書は私たちに真理、性格、義について告げますが、この二つの書は命について告げます。他の書は私たちに何をなすべきであり、どうあるべきかについて告げますが、この二つの書はどうすれば私たちはそうなることができ、私たちの前に置かれている事柄を成し遂げることができるのか、その秘訣について告げます。自然の神秘は命です。人が知恵や力のかぎりを尽くしても手に入れられないものは命です。科学は私たちに物理法則を教えることができ、自然の力を造り出すことすらできます。しかし、神だけがこの不思議で繊細な拍動を与えることができ、この拍動により自発的動きと命が生じます。

義務ではなく命

山上の垂訓は理想の生活のあるべき姿について私たちに告げます。しかし、ヨハネによる福音書は、どうすればこの理想が現実のものになるのかを私たちに告げます。この書は命の始まりの神秘的な新生で始まり、来るべき時代の最高に発達した聖化されて栄化された命にまで導きます。ヨハネの手紙はさらに詳しく、神聖な命の源、発展、流出について解き明かします。その連続的な五つの段階を追うことにしましょう。

1.キリストは永遠の命

第一に、キリストは永遠の命です。惑星が回転し、昆虫が羽音をたて、天使が歌うよりも前に、キリストご自身は永遠の命でした。引用した御言葉の原文は一つの点を強調しており、文字どおり訳すとこうなります、「私たちはあなたたちにあの命、永遠の命を示します。この命は御父と共におられましたが、私たちに現されました」。また、二番目に引用した御言葉はさらに詳しくこの同じ思想を伝えます、「この方は真の神であり、永遠の命です」。イエスはこの命であり、彼からすべての命が発します。自然界の命は彼の創造する力の流出です。精神、思考、知性の命は、彼の無限の精神の放射にすぎません。この力が彼個人の命により、巨大な天体から極微の粒子に至るまで宇宙を動かします。なぜなら、「彼によって万物は存在し」、「彼の中で私たちは生き、動き、存在している」からです。新生した人はみな、彼の命から生まれました。教会はどの年代、どの地方にあるものも、彼の命と力の新創造です。すべての聖徒の命は一瞬一瞬、生けるかしらによって支えられています。ですから、彼の命は永遠の命であること、そして彼の中に命の泉があることを知るのは素晴らしいことです。この命の泉は決して涸れることなく、その豊かさは決して尽きることがありません。この「永遠の」という言葉は「始まりも終わりもない存在」という思想を伝えるだけでなく、私たちを引き上げてより高い命の水準にもたらします。これは目に見える一時的な命よりも高い水準に属する種類の命です。この命の範囲は無限であり、その長さは無限です。無限の豊かさと輝かしい十全性をたたえた、計り知れない大海原なのです。

この命の君、生ける方、輝かしい神の御子をあがめましょう。この方は輝く永遠の命の中で私たちの前に立ち、「わたしは生きている者です。わたしは死んだことがありますが、見よ、永遠に生きます」と仰せられます。

2.現された命

第二段階は現された命です。「この命が現されました」。この御言葉は主イエスの受肉と地上生活の物語全体を含んでいます。この御言葉はまた、ヨハネが福音書と手紙の中でしばしば用いている「命の言葉」という句の意味をも網羅しています。この句は原文では「この命の言葉」となっています。ちょうど、言葉が人の思想の表現であるように、彼は私たちに対する神の御思いと御旨の表現であり、すでに存在していたけれども啓示されずにいた事柄の現れです。神は書き記された言葉だけを私たちに与えるのではなく、生ける方を私たちに遣わしてくださいました。そして、この方の実際の詳細にわたる地上生活を通して、神の性格と人類に対する神の愛の御旨を示してくださったのです。

次の物語はある宣教士が経験したことです。彼は数年間コンゴの人々に説教しましたが、彼らを説得することができませんでした。ついに彼は、山上の垂訓の学びを途中で止めて、アフリカ人たちに向かって「私はあなたちの間でこの章を実行することにします」と宣言しました。その日が終わらないうちに、アフリカ人たちは宣教士に家財道具一式を要求しました。これにより、宣教士はその宣言を実行する機会をふんだんに与えられることになりました。彼は抵抗せず、「求める者には与え(中略)借りようとする者を断らない」ようにしました。夕暮れになって宣教士の妻は困ってしまいました。家財道具をはぎ取られ、飢えが目前に迫ってきたからです。しかし、これはドラマの第一幕にすぎませんでした。夜が明けないうちに、黒人たちは自分たちが目撃した奇妙な実例について考え始めました。彼らは言いました、「この人は商人のようではない。彼は私たちになにも求めずに、自分の持ち物をすべて私たちに与えてくれた。彼は神の人にちがいない。私たちは彼の取り扱いに気をつけた方がよさそうだ」。そこでその翌日、前日とは正反対の光景が見られました。持ち物が利子付きですべて戻って来たのです。これが第二幕でした。第三幕は一大リバイバルでした。千名近くの人が回心し、コンゴで最も大きな教会の組織になったのです。「この命が現され」、彼らはそれを見ました。そして、それはどんな言葉にもまさる実物教育でした。そのように、キリストは生活の中で御父の知らせと福音の意味を示されました。彼の地上生活は、神が真の人間生活に期待しておられるものをすべて備えた完全な模範でした。人類史上初めて、御父は「これはわたしの心にかなう者である」と言える人をご覧になりました。キリストの人間生活は、私たちが維持すべき地上の関係のあらゆる面に及びます。その生活は、典型的な人生経験の隅々にまで、あらゆる色彩と陰影を帯びて現されました。そのため、「イエスならどうされるだろうか?」という単純な合い言葉を適用できない状況は一つもありません。彼の死に関する偉大な教えに熱中するあまり、彼の生活の価値を見くびったり、神の啓示としての、そして人間性の理想としての、彼の完全な模範の重要性を軽視したりしないようにしようではありませんか。

3.十字架につけられた命

第三段階は十字架につけられた命です。私たちはキリストの生活を過小評価するべきではありませんが、一方、彼の死の意義はどんなに高く評価しても評価しすぎることはありません。

ある教師たちの学派は、キリスト教社会主義や、キリストの模範を社会的・世俗的問題の実際面に細かく適用することについて多く語ります。しかし、この人々はカルバリにまで至りません。彼らは、聖書全体の鍵であり、すべてのクリスチャンの希望と経験の鍵である、あの偉大な出来事を見落としています。ですから、私たちはこの霊的に深い手紙においても、「この血」という句にすぐに出会うのです。この句は聖い畏れと優しさのこもった静けさをもって、私たちに立ち止まるよう命じます。ヨハネは手紙を書き始めるやいなや、二色の濃深色――黒い罪のしみとキリストの尊い血――で全編を彩ります。「御子イエス・キリストの血がすべての罪から私たちを清めます」(一ヨハネ一・七)。復活節と復活の背後にはカルバリの十字架、イエス・キリストの死があります。彼がご自身を犠牲にしてささげられた神聖で人間的な美しい命は、私たちにどのように死ぬかを教える従順と服従の模範であるだけでなく、罪のための贖い、人々の罪のために神の義を満足させるものでもあります。ヨハネは、イエスの霊と命に対する深い洞察力によって、キリストの血が持つ贖罪の意義を他の弟子たちよりも認識しました。「見よ、神の小羊」という御言葉が、彼の美しい福音書全体に鳴り響いているようです。「イエス・キリストの血」が彼の手紙の背景です。「私たちを愛して、ご自身の血により、私たちを私たちの罪から洗ってくださった方に」が、彼の荘厳な黙示録の中で繰り返し歌われる贖いの歌の基調です。イエス・キリストの血は、無限の価値を持つ彼の命を意味します。キリストはご自分のいのちを、私たちが失ったいのちの身代わり、贖いの代価として与えてくださいました。

さて、私たちの主の苦難を感傷的な方法で味わい、彼の恥と苦しみに同情して泣くだけでは十分ではありません――人の痛ましい悲話を聞いて泣く人もいますし、感動的な雄弁の魔力で泣く人もいます。しかしそれでもなお、キリストの血の力についてなにも知らないかもしれません。キリストの死はある偉大で強力な事実を表しています。しかし、信仰によってこの事実に基づいて彼に協力し、個人的に「キリストの苦難の交わり」にあずからなければ、それは私たちにとってなんの価値もありません。キリストの死は私にとって、彼が死なれたとき私も死んだことを意味します。また神の目から見て、私は今や自分の罪のために処刑された者のようであることを意味します。私は今やキリストと共によみがえりました。そして、私は罪のために処刑されたがゆえに、以前の罪から義とされた別人と見なされています。「死んだ者は罪から解放されたからです」。それだけでなく、キリストの死は私の聖化の秘訣でもあります。なぜなら、あのカルバリの十字架上で、私、罪深い自己は死に渡されたからです。そして、私がキリストと共に自分をあの十字架の上に置いて、自分は死んだと見なした時、キリストの復活の命が私の内に入って来て、生きているのはもはや私のもがきや、善や、悪ではなく、私の主になったからです。キリストの内にとどまっているかぎり、この方を通して私はキリストと同一視され、キリストが歩まれたように歩むことができます。

愛する方々よ、あなたはキリストの死の中に入って、それを自分のものと見なされたでしょうか?そしてキリストの死を通して、今あなたは「キリストの復活の力」によって神に対して生きておられるでしょうか?

4.復活した命

第四段階は復活した命です。十字架に至らずに止まることが間違いであるように、十字架で止まることも間違いです。私たちの神学の中からキリストの死を削除することが間違いであるように、死せるキリストしか持たないことも間違いです。キリストの死は彼の復活のための背景にすぎません。放棄された命は再取得されて、いま彼は「わたしは死んだが生きている者である」と言って、私たちの前に立たれます。救い主がその上につけられている十字架ではなく、彼がその上につけられた十字架が、まさに不朽の命の門です。この節は復活の主を暗示するもので満ちています。「私たちが手でさわったもの、すなわち、命の言葉について」という御言葉は、「わたしにさわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたたちが見るとおり、わたしにはあります」と主が弟子たちの間に立って語られた朝を直ちに思い起こさせます。ヨハネが記したこのような言葉には、なにかしら無量の感慨があります。それは、彼が主の胸によりかかって学び、主の復活の現実を疑いようのないほど目撃し、主との親密な交わりと愛の接触を再び経験したからなのでしょう。

そして、これは私たちを導いて、「キリストの血」という言葉が持つ、復活に関するいっそう高尚深遠な意義に注目させます。なぜなら、血は命であり、私たちをすべての罪から清めるのは彼の贖いの死だけではなく、イエス・キリストの命、彼の復活の命でもあるからです。私たちは彼の死によって救われるように、彼の命によって救われます。出エジプト記の昔の予表の一つに、次のようなものがあります。モーセは山のふもとで雄牛をほふり、その血を祭壇上に注ぎ、血の一部を鉢にとって民の上に注ぎました。それから、モーセはそれを持って山に登り、その所で彼らは神とまみえ、血のゆえに受け入れられました。この二番目の血の効力は、キリストの復活の命、一度捨てられた後再び取得された命を示しているように思われます。ですから、私たちは感謝に満ちた愛をもって私たちの復活の主の勝利を祝い、命の君、生ける方を賛美します。主は今、死を征服した方として、新しい命の所有者として、この新しい命の源また頭として生きておられます。主は、彼の死と復活の中で彼に結合されるすべての人に、この新しい命を与えてくださいます。

5.内住する命

第五段階は内住する命です。この命はキリストご自身のためではなく、私たちのためです。死人の中からよみがえったキリストは、今わたしたちのもとに来て、私たちの内でご自分の生活を再び営まれます。これこそ、ヨハネの第一の手紙に記されている聖化の秘訣であり、この手紙に関するすべての難問を解く鍵です。おそらく、新約聖書の中でヨハネの第一の手紙ほどきよめの問題について多くの矛盾を抱えているように見える書はないでしょう。たとえば、第一章では「もし自分に罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いているのであって、真理は私たちのうちにありません」と言っており、また、「もし私たちが『自分は罪を犯したことがない』と言うなら、それは彼を偽り者とすることであって、彼の御言葉は私たちの内にとどまっていません」と言っているのに、少し後の箇所では、「神から生まれた者はみな罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」と言っています。さて、これらの御言葉はどう調和されるのでしょうか?それは実に簡単です。第一に、人間である「私たち」が罪を持っていること、そして罪を犯したことは事実です。私たちの内には善なるものがなにもなく、私たちは自分を無価値で無力なものとして放棄しました。しかし他方、私たちは彼を自分の命として受け入れました。彼の命には罪がありません。彼が私たちの内に植えてくださる種は、美しい球根――たとえ不潔な土地に植えられても、周囲の土壌によって汚されることなく、天使の翼のように清らかに成長する――のようにしみのないものです。その種は他の要素に属するものであり、それ自身の性質は元来本質的に純粋なのです。

このすべての奥義を解く鍵は、この手紙の二つの節にあります。「彼の内に住む者は罪を犯しません」(一ヨハネ三・六)。ここにきよめの秘訣があります。「私たちのきよさではなく、彼のきよさです」。ここでは私たちの完全さについてはなにも述べられていません。私たちが罪から守られるのは、私たちが彼にしがみついて、毎瞬彼から命を汲み出す時だけです。それは内住の命です。

さらにこう記されています、「神から生まれた者はみな罪を犯しません。神から生まれた方が守ってくださるので、あの悪しき者は触れることができません」(五・十八)。ここでも同じ真理が別の言い方で表現されています。私たちの内に住んでおられる神のひとり子は、私たちを罪の力とサタンの攻撃から守ってくださいます。私たちはちょうど、一枚のガラスによって猛禽から隔てられている小さな昆虫のようです。悪魔がたびたび攻撃しても、「あの悪しき者が(私たちに)触れることはありません」。

これに関連する節がもう一箇所あります。「神の御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持ちません」(五・十二)。ここで、私たちの霊の命の源となるのは、主イエスご自身との私たちの合一です。ですから、使徒パウロが発見した「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」という秘訣は、主の胸によりかかった弟子の秘訣でもありました。どうか神がこれを私たちの生活の秘訣としてくださいますように。そして、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の命、現された命、十字架につけられた命、復活した命、内住する命の豊かさを知ることができますように。私たちの主イエス・キリストに栄光がいつまでもありますように。アーメン。