第一章 携挙と第一の復活

エーリッヒ・ザウアー

「マラナサ。われらの主よ、来たりませ!」(一コリ十六・二二)

今の時代は復活節の時代である。贖い主の復活と共に始まり、贖われた者の復活で終わる。その間に、命に召された者たちの霊的「復活」がある(ロマ六・四~十一、コロ三・一)。それゆえわれわれは、この二つの復活の間によみがえらされた者として、二つの復活節の間に生きており、燃え輝く光として(ピリ二・十五)、永遠の光の二つの顕現の輝き(epiphaneiai)の間に生きている(二テモ一・十、テト二・十三)。そして、最初の復活節の力により、われわれは進んで行って最後の復活節を迎える。かしらの復活は肢体たちの復活の保証である。復活の命の木は、全く熟した実を結ぶ。

教会の希望には四つの点がある。

携挙と第一の復活(一テサ四・十三~十八)、
キリストの裁きの御座(二コリ五・十)、
小羊の婚姻(黙十九・七~八)、
来たるべき世界統治(一コリ六・二~三)

一.携挙の時

1.二つの復活。聖書は、一度に全員が同時に復活するとは教えていないし、義しい者と義しくない者がすべて一度に最終的裁きを受けるとも教えていない。むしろ、「死者の中からの復活」(ルカ二〇・三五)、「第一の」復活(黙二〇・六)、「死者の中からの格別な復活」(ピリ三・十一、逐語訳)について述べている。聖書は復活の中の「区別」や「組」について述べ(一コリ十五・十五~二四)、それらが介在する期間によって互いに分かれていることを強調する。「アダムにあってすべての人が死ぬように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。しかし、各自は自分の組(この言葉は同時に軍隊の『師団』をも示す)に従う。キリストは初穂であり、その次はその来臨の時にキリストに属する者である。その次に終わり(すなわち、復活の終わり、残りの死者の復活)が来る」(一コリ十五・二二~二四)。

旧約聖書では、この二つの復活――「永遠の命に至る」復活と「永遠の責めと恥辱に至る」復活――を、一つの絵図の中で一緒に見せている(ダニ十二・二、十二・十三)。主イエスが地上にいた時に語られた預言と同じである(ヨハ五・二八~二九、使二四・十五を参照)。しかし、預言による啓示が進むにつれて(ヨハ十六・十二~十三)、この二つの復活は二つの主要な出来事として区別されるようになった。義人の復活はメシヤ王国の前に始まり、一般的復活は王国の後に、世の終わりの時に起きる。その鍵は黙示録二〇・四~五である。「この者たち(神とキリストとの祭司)は生きて、キリストと共に千年間支配した。しかし残りの死者は、この千年間が終わるまでよみがえらされなかった」。「その肢体たちが、キリストご自身のように、特別な復活、『死者の中からの復活』にあずかることは、かしらであるキリストが栄光を受けることである」(マコ九・九~十、ルカ二〇・三五)。このような同様の表現が、キリストの復活と関連して三十四回現れる(例えば、一ペテ一・三、ガラ一・一)。また、御民の復活と関連して四回現れる(マコ十二・二五、ルカ二〇・三五、使四・二、ピリ三・十一)。

この復活は:

その時については――第一の復活であり(黙二〇・五~六)、
その内容については――格別な復活であり(ピリ三・十一、ルカ二〇・三五)、
その性格については――義人の復活であり(ルカ十四・十四)、
その救いの恩恵については――命に至る復活である(ヨハ五・二九、ダニ十二・二)。

2.神の日々。キリストの初臨と共に、神の暦では「終わりの日々」(使二・十七)が始まった。初期のクリスチャンたちが確信していたことによると、キリストの受肉と共に「終わりの時」(ヘブ一・二、一ヨハ二・十八)が始まった。なぜならキリストこそ、それ以前の長きにわたる諸々の時代が目指してきた目標だからである(ヘブ九・二六)。「キリストの最初の出現は終わりの始まりであり、その二度目の出現と共に終わりの終わりが始まる」。それゆえ、メシヤ以前(クリスチャン以前)の諸々の時代の終結、「終わり」、目標は、メシヤ(クリスチャン)時代に生きるわれわれの上に、キリストにあって臨んでいるのである(一コリ十・十一)。「キリストの教会は歴史の目標である」(Ph.バックマン)。したがって終末の歴史は、新約聖書が意味するところによると、最終的未来の歴史であるだけでなく、新約の救済史全体が漸進的に進展する終末の歴史なのである。キリストにあって、完成の始まりが現れた。それゆえ、それ以降、すべてがすでに終末の歴史なのである。

現在は:

(1)「救いの日」である(二コリ六・二)。恵みが探し求める「日」(ヘブ四・七)、救いが完全に宣べ伝えられる「時」(ヨハ十六・二五、逐語訳)、霊と真理とによって御父を礼拝する「時」(ヨハ四・二一~二三)である。その目標は、

(2)「神の日」である(二ペテ三・二)。天と地との新創造であり、「永遠の日」(二ペテ三・十八逐語訳、改訂訳の注を参照)である。この二つの日の間にあるのが、

(3)「末の日」である。これもまた長い期間である(二ペテ三・八)。義人の復活と共に始まり(ヨハ六・三九~四〇、六・四四、六・五四、十一・二四)、失われた者の裁きで終わる(ヨハ十二・四八)。メシヤ王国はこの二つの出来事の間にあるので、それが網羅する期間は千年以上に及ぶ(黙二〇・五)。末の日は携挙、「イエス・キリストの日」(ピリ二・十六、一・六、一・十、一コリ一・八、二コリ一・十四)、「主の日」(二テサ二・二~四)、旧訳預言書の「エホバの日」(ヨエ二・一~二、三・十四)と共に始まる。そして、メシヤの栄光の王国の間、「それらの日々」の間、古い地球のこの輝かしい期間(エレ三・十六、ヨエ三・二、ゼカ八・二三)の間続き、「裁きの日」(マタ十・十五、十一・二二、十一・二四、十二・三六)、人々と御使いたちとが報いを受ける時(ユダ一・六)、大きな白い御座の前での最終決着(黙二〇・十一~十五、二ペテ二・九、三・七、ロマ二・五)と共に終わる。こういうわけで、末の日は明けの明星の日(二ペテ一・十九、黙二二・十六)、真昼前の嵐(黙六・一~十七、七・一~十七、八・一~十三、九・一~二一、十・一~十一、十一・一~十九、十二・一~十七、十三・一~十八、十四・一~二〇、十五・一~八、十六・一~二一、十七・一~十八、十八・一~二四、十九・一~二一)、正午や午後の日の光(マラ四・二、すなわち千年王国)、夕方の燃え立つような稲妻(黙二〇・九、ゴグとマゴグ)になぞらえられる。しかしついに新しい太陽が上り、「夕方にも光がある」ようになって、破壊された世界から変容した世界が生じるのである。

エペ四・三〇、二テモ一・十二、四・八、一コリ三・十三、二ペテ一・十九、一ヨハ四・十七、ヘブ十・二五を参照。

3.時代の完成。主の来臨と出現。携挙の正確な時はわからない。「その時期や時は、あなたたちにはわからない」(使一・七、マタ二四・三六、マコ十三・三二)。栄光のその時は近い。主は「見よ、わたしはすぐに来る」(黙二二・二〇、二ペテ三・八~九)と仰せられるからである。栄光のその時は遠い。花婿が「遅れた」(マタ二五・五)と彼は仰せられたからである。貴人は王国を受けるために遠い土地に行き(ルカ十九・十一~十二)、「しばらくたってから」ようやく戻って来て、僕たちと清算をした(マタ二五・十三、マコ十三・三二~三七、ルカ十二・四〇)。われわれが直ちに永遠に期待を寄せ、永遠のために備えをすることを、神は望んでおられる。われわれにとって、最後の事柄が常に最初であるべきである。「あなたたちは腰に帯をして、明かりを灯していなさい。自分の主人を待つ人々のようでありなさい」(ルカ十二・三五~三六)。

その時を計算することが常にいかに不毛であるかは、そうしようと試みたきわめて偉大な知性の持ち主たちが互いに矛盾していることからわかる。ルターは、世の終わりは一五五六年であると予期した。「目覚めよ、御声は呼びたもう」の詩歌の作者は一六七〇年、高名な注解者であるジョン・コッケイウスは一六六七年、アモス・コメニウスは一六六七年、科学者のアイザック・ニュートンは一七一五年、J.A.ベンゲルは一八三六年に予期した。セブンスデイ・アドベンチストの間の諸々の矛盾については言うまでもない。

この主題の詳細については、大きな違いが常に存在してきた。同じように偉大な聖徒たちや学者たちが、様々な見解を支持している。したがって、独断を戒め、忍耐を心がけ、探求にいそしむべきである。

この精神でわれわれは末の時を仰ぎ見る。

キリストの世界統治に関しては、末の時は「時代の完成」であり、

キリストの不在に関しては、末の時は彼の王としての来臨(パルーシア、parousia、降臨)であり、

キリストの隠匿に関しては、末の時は彼の啓示と除幕であり(アポカリプス、apocalypse)、

キリストの栄光の光に関しては、末の時は彼の輝かしい出現である(エピファニー、epiphanay)。

新約聖書に五回現れる。マタ十三・三九~四〇、十三・四九、二四・三、二八・二〇、字義訳。
キリストの降臨については新約聖書に十七回現れる。例えば、マタ二四・三、二四・二七、二四・三七、一コリ十五・二三、一テサ二・十九、十三・十三等。
この語句は「未来」や「帰還」ではなく「臨在」を意味する。もっと厳密には、入場を意味する。パルーシア(parousia)とエピファニー(epiphanay)は、王や皇帝の訪問を表す専門用語だった(例えば、ネロのパルーシア、ハドリアヌスのエピファニーのように)。このように、王としてのイエスの統治というこの要素が、初期のクリスチャンのパルーシア及びエピファニーの望みという思想の中に含まれている。それはイエスが「栄光の王」として到来されることである。「見よ、あなたの王があなたのもとに来る」(ゼカ九・九)。
キリストの帰還については、新約聖書に五回現れる。一コリ一・七、二テサ一・七、一ペテ一・七~十三、四・十三。
そのギリシャ語は「輝く」(エピファネイア、epi-phan-eia、ファイノー、phaino、私は輝く、を参照。例えば、ヨハ一・五)という言葉と関連している。

二.携挙の性質

「見よ、私はあなたたちに奥義を告げる。私たちはみなが眠るのではなく、みな変えられるのである」(一コリ十五・五一)。「主ご自身が、ときの叫びと御使いのかしらの声と共に、神のラッパと共に天から下ってこられ、まず、キリストにある死者がよみがえるからである。それから、生き残っているわれわれが、彼らと同時に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(一テサ四・十六~十七)。

携挙は、その性質に関して言うと、五重の出来事である:取り去ること、引き上げること、変容、勝利、祝福である。

1.取り去ること。携挙は取り「去る」こと、あらゆる魂と体の苦悩から(二コリ五・二、五・四、ピリ三・二一)、敵によるあらゆる迫害と抑圧から、罪と(ロマ六・六と比較せよ)死の(ロマ七・二四)全領域から、連れ出すことである。こうして、携挙は「(来たるべき)贖いの日」(エペ四・三〇、ロマ八・二三)に、全聖徒の安息となる(二テサ一・七)。

このような携挙は:

神の恵みの働きであり、「イエス・キリストの現れの時に、われわれに与えられる恵み」である。この恵みはわれわれをすべての罪から解放する。
神のあわれみの働きであり、「われわれが待ち望んでいる、永遠の命へと至るあわれみ」である。このあわれみはわれわれをすべての不幸から解放する。「恵みは罪を取り去り、あわれみは不幸を取り去る」(ベンゲル)。
神の全能の働きであり、この全能はわれわれを変容させて贖い主と同じかたちにし、きわめて栄光に満ちた霊の体にわれわれを高める。その時、全宇宙を動かしているのと同じ力が、われわれの体に働くのである!「彼は、全世界を従わせうる力により、われわれの卑しい体を変化させて、ご自身の栄光の体と同じかたちに変えてくださるであろう」(ピリ三・二一)。

それゆえ、パウロは「携挙」という言葉に特に強い言葉(ハルパゾー harpazo、一テサ四・十七)を用いている。この言葉の実際の意味は、急いで捕らえる、力ずくで奪う、急にいきなり自分に引き寄せる、である。この言葉をルカは使徒行伝の中で、ローマの兵士たちが暴徒からパウロを引き離した様子を描写するのに用いている(使二三・十)。また、一テサロニケ一・十で、パウロは携挙のことを「来たるべき怒りからの救い」と呼んで、ある言葉(ギリシャ語のリュオ rhuo)を用いている。この言葉の厳密な意味は、「力ずくの救い」である。彼はこの同じ言葉を二テモテ四・十七で用いて、ネロの裁きの法廷で命が助かったこと、「獅子の口から救い出された」ことを描写している。したがって彼は、教会の故郷への帰還を、力強い軍隊の絵図をいくつも用いて描写する。主ご自身が「警報」と共に、「号令」、「ときの声」(欽定訳では叫び)と共に、「神のラッパ」の「響き」と共に、天から下って来られる。その時、王なる征服者である主は、天の軍勢に伴われて、ご自分の地上の戦士たちを、永遠にご自分に結合されるのである。

そして、これは最も重要である。なぜなら、携挙は

2.引き上げることだからである。このような携挙は、

肢体たちをかしらに結合することである。なぜなら、主ご自身が下って来られ、われわれはいつまでも彼と共にいるようになるからである(一テサ四・十六~十七)。彼は栄化された教会をご自分に迎えられる(エペ五・二七)。その目的は、贖い主としてのご自分の栄光を完全なものにすることである(エペ一・二三)。「わたしは再び来て、あなたたちをわたし自身に迎える。わたしのおる所に、あなたたちもおらせるためである」(ヨハネ十四・二~三)。また、携挙は、
肢体たちを互いに結合することである。なぜなら、生きている者は死んだ者と同時に引き上げられ(一テサ四・十七)、あらゆる時代、あらゆる土地の教会が、初めて一緒になるからである。こうして、完成された教会が初めて存在するようになる。しかし、地上においてではなく、空中においてである(一テサ四・十七)。その時まで存在するのは、ただ諸教会(複数、黙二二・十六)だけであり、ある時代に地上に生きている、ある世代の教会だけである。「しかしその時、昇天が起きる。火の戦車と馬に一人だけで乗って行ったエリヤの昇天のようではなく、数百万の聖徒が起きて、神の聖なる力により、みなが一緒に天の諸々の領域をハレルヤで満たすのである」。しかし、それ以上である。このように天に上げられた者たちは変容するのである。

3.変容。「終わりのラッパが鳴り響く時、たちまち、またたくまに」――彼らの卑しい体は栄光の体に変えられ(ピリ三・二一)、この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬものは死なないものを着ることになるのである(一コリ十五・五一、十五・五三)。

そして、これがすべて空中で起きるのである!(一テサ四・十七)。なんという勝利か!

4.勝利!というのは、空中こそ敵の働きの基地だからである。世界が現在、悪鬼の勢力に支配されているのは、空中からである。だから、サタンは「空中の権の君」(エペ二・二、六・十二を参照)と呼ばれている。しかし今、まさに敵の権力の領域で、征服された敵のまさに本拠地で、征服者なる方と、その勝利の軍勢が会合する。これ以上の勝利はありえないし、これ以上に輝かしい戦勝祝賀はありえない。キリストは完全に征服なさった。その教会は徹底的に勝利した。それで、迫害された者たちの戴冠式が、敗北した迫害者の本拠地で執り行われるのである。

5.祝福。これは贖われた者の「祝福に満ちた望み」(テト二・十三)である。「ちりに伏す者よ、さめて喜べ。あなたの露は光の露であって、地は死者の霊(ヘブル語ではレファイム Rephaim)を生き返らせる」(イザ二六・十九、三五・十、五一・十一を参照)。

三.来たるべき霊の体

1.その必要性。しかし、なぜ体の復活なのか?なぜ、ただ霊だけではないのか?体は魂の牢獄ではなく、人間の本質に属するからである。体がなければ、人は「裸」(二コリ五・三)だからである。この地上でも土の体は御霊の宮となることで尊いものとされたのであり、それゆえ、捨ててしまえないからである(ロマ八・十一、一コリ六・十九)。罪により、霊と魂は体から分離されるようになり、その結果、体の復活がなければ、罪のなんらかの影響が贖われた者のうちに残ることになるからである。しかし、神は人をひとまとまりの存在として創造されたのであり、したがって、神は人をひとまとまりの存在として贖われるのである。霊が不死のものとして永らえるだけなら、命が部分的に存続するだけであり、贖いも部分的なものになってしまう。神は御手のわざを放棄されない。物質もまた、創造者としての神の力の想念であり御業である。したがって、神ご自身が贖われた者のどの部分も、死のうちにとどまることは許されない。そうであってはじめて、「死は勝利のうちに飲み尽くされる」(一コリ十五・五五~五七、二コリ五・四、イザ二五・八、ホセ十三・十四)のである。体からの贖いは許されるはずがない。体贖いが実現しなければならない(ロマ八・二三)。だからキリストは、死者をよみがえらせることを、救い主としてのご自分の特別な働きと見なしておられるのである。まさに、キリストご自身こそ生ける復活である(ヨハ十一・二五)。「父が引き寄せてくださらないかぎり、だれもわたしに来ることはできない。わたしはその人を終わりの日によみがえらせる」(ヨハ六・四四)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ。わたしはその人を終わりの日によみがえらせる」(ヨハ六・五四、三九、五・二八、二九を参照)。

2.その現実性。「具体的に現すことが神の諸々の道の終極である」。イエスの復活の体によって、これはきわめてはっきりと証明された。この復活の体は目で見ることができ(ルカ二四・四〇)、手で触ることができた(ルカ二四・三九、ヨハ二〇・二七)。蜜と魚を食べることができた(ルカ二四・四一~四三、使十・四一と比較せよ)。確かに、主ご自身の証しによると、この体には肉や骨もあった。「わたしの手と足を見よ。まさしくわたしである。わたしに触ってみなさい。霊には肉や骨はないが、見てわかるように、わたしにはある」(ルカ二四・三九)。ギリシャ語のオステア(ostea、骨)が使われている。ヨハネ十九・三六やヘブル十一・二二で使われているのと同じ言葉である。したがって、「復活した方には実際の体はなく、ご自身を具現化する力があるだけである」「その性質に関して言うと、キリストは純然たる『霊』になられたのであり、復活の体をまとわれたのは、ただ人にご自分を見せる目的のためである。しかし、顕現がすめば、その体をいつも脱ぎ捨てられたのである」という教えは誤りである。このような説は、上記のルカ二三・三九と直ちに矛盾する。この節で主は、自分は「霊」ではないと、はっきりと言っておられる。この間違った意見によると、主は普段は肉や骨のない霊である。その場合、主はご自分の言葉で弟子たちを完全に欺いたことになる。なぜなら、「霊には肉や骨はないが、見てわかるように、わたしにはある」と言うかわりに、「霊は肉や骨をとることはできない」と言わなければならなかったはずだからである。

しかし、復活した方は、天の御座にある完成されたすべての人の典型であり原型である(一ヨハ三・二、ロマ八・二九)。その栄光の体に、われわれの体もいずれ同形化される(ピリ三・二一、一コリ十五・四九)。したがって、彼の体から、われわれ自身の未来の体の基本的な諸々の特徴がわかる。彼の体の外面的基盤は栄化された物質であるから、われわれの体もそうである。

一コリント十五・五〇は、これに反することをなにも述べていない。なぜなら、文脈からわかるように、パウロがここで神の王国を嗣ぐことができないと言っているのは、ただ栄化されていない血と肉のことだからである。一コリント十五・五四に訴えても駄目である。この新しい体は、この節では確かに「霊の」体と呼ばれているが、その意味するところは、「この体は全く非物質的なものであり、ただ霊だけから成っている」ということではない。同様に、われわれが現在所有している「魂の」(サイキカル psychical)体の場合も、ただ「魂」だけから成っているのではない。むしろ、「魂の」「霊の」という言葉は、この二種類の体の基本的性質を示しているのである。地上の体では魂が支配し、天の体では霊が支配する。一方から他方への変化は、物質を脱ぎ去ることではなく、その正反対の身につけることである(一コリ十五・五三~五四)。「脱ぐ」ことではなく、この朽ちる物質の上に不死の朽ちないものを「着る」ことである(二コリ五・二~四)。しかし、この変化の性質は全く不可解である。これは驚異であって、天の物質の驚異と同じように、永遠になって初めてわかるであろう。

それゆえ、この天の体の現実性に基づいて、聖書はからのの復活について述べている。「墓の中にいる者たちがみな、人の子の声を聞くときが来る」(ヨハ五・二八~二九)。この卑しい体は栄化され(ピリ三・二一)、この死ぬべき体は生かされ(ロマ八・十一)、朽ちるものに蒔かれたこの体は朽ちない不死のものによみがえらされる(一コリ十五・四二~四三、五三~五四。ヨブ十九・二五~二六を参照)。

しかし、仮に霊の体が存在せず、現在の体と未来の体との間に直接的関係はなにもないのだとすると、なぜ墓が開かれるのか?なぜ復活があるのか?その場合、この新しい体は全く別物であって、同じ体ではないであろう。墓に蒔かれた「この」体ではないであろう。否、古い体と新しい体との間には、つながりがあるにちがいない。魂や人格のつながりだけでなく、体のつながりもあるにちがいない。

地上の体では、原子が常に出入りしている。この物質の変化は七年周期であり、体を構成する全物質が全く変わってしまう。そのため、この期間が過ぎれば、以前の物質の原子はもはや一つもなくなる。それでも、それは「同じ」体である。創造者から与えられた力により、魂は自分を取り巻く物質から「新しい」体を建て上げ続ける。体自体は自然界から取られた物質で成っているが、その物質を魂は生かして支配し、自分自身の性格にしたがって、より高次の性質の単体とするのである。

このように地上の体でも、決定的要素は物質ではなく、体を建て上げる魂の力である。にもかかわらず、この古い朽つべき体の中に、ある不滅の要素がすでに存在している。この不滅の要素は、復活と変容の時、「天からの住まいを着せられる」(二コリ五・二)。そうであってはじめて、古い体が「復活」しなければならないことや、古い体を未来の体の「種」として形容できることがわかるのである。いま見ているこの過程は、壊すことであると同時に建て上げることであり、分解することであると同時に結び合わせることであり、新しく創造することであると同時に保存することなのである。

「死にかけている植物の中で、ある要素だけが生き残り、次に、この要素が新たな物質を自分に引き寄せ、光や土の影響のもと、新たな植物の体を形造る。この体は、この要素のおかげで、死んだ植物と同じものだが、にもかかわらず別のものでもある」。それと同じように、人体が分解した後も、新たな形成の可能性を秘めたある要素が生き残る。魂は言わば体の磁石である。この磁石が、体の数百万の構成原子を結び合わせる。死により、魂はその磁力を失い、原子は散り散りになる。しかし、復活により、魂はこの磁力を再び受ける。しかも、遙かに高度で完全な力を受けるのである。それで今、魂は天の光の力を身につけて、新しい完全な栄光の体で自分を装うのである(二コリ五・二~四)。

天の物質について思い描くのは不可能である。比喩的な表現しかできない。天の物質と地上の物質との関係は、きらめくダイヤモンドと、その原料である黒炭との関係のようである。ガスの明るい炎と、その燃料である黒い石炭との関係のようである。輝く宝石と、それが採掘された汚い土との関係のようである。そのように、人の墓場は復活の苗床となり、神の民の墓地は天の露により(約束の)完成である復活の畑となるのである(イザ二六・十九)。

火により(二ペテ三・十二を参照)石炭は揮発してガスになり、結晶化して言わば「栄化」し、ダイヤモンドになるのである。
中間状態に関する注記
死んで復活するまでの魂の境遇に関して、聖書はほとんど述べていない。個人が完成されるのは復活によること、したがって死ぬ時に完成されるのではないことは確かである。聖書はもっぱら目的地に目を向ける。この中間期間を素通りして、僅かなヒントを与えるだけで、特別に強調していない。われわれは死ではなくキリストの再臨を待ち望むべきである。信じる死者の場合、これはなによりもまず、幸いな待望期間である。それはパラダイスにおいてであり(ルカ二三・四三)、キリストと共にであり(ピリ一・二三、使七・五九)、「アブラハムのふところ」においてであり(ルカ十六・二二)、そこは地上よりも「遙かに良い」場所である(ピリ一・二三)。救われていない死者の場合、すぐに「火」(ルカ十六・二二~二四)が始まる。したがって、信者が最初に「益」を受けるのは携挙の時ではなく、死の時である(ピリ一・二一)。未信者の場合、神の義なる裁きを恐れつつ待つしかない。しかしどちらの場合も、復活によって完了する。すなわち、命の復活か裁きの復活という結末になるのである(ヨハ五・二九)。

四.復活の体の七重の栄光

この新しい体の性質を描写するのは不可能である。聖書は比喩的な暗示しか与えていない。

1.霊的である。卑しい体は「魂の」体であるが、栄光の体は「霊の」体である(一コリ十五・四四~四六)。これは、前者では魂が優勢であり、後者では霊が優勢であることを意味する。

2.服従。卑しい体は時として制約であり、拘束である。栄光の体は完全に役に立つものである。卑しい体は、「魂の」体として、ある程度霊から独立しており、この独立性により、体と霊との間に頻繁に戦いが生じる(ロマ七・五、七・二三、一コリ九・二七、ロマ六・六)。しかし、栄光の体は完全に霊によって治められる。全く依存して、霊の思いのままになり、完成された命の完全な道具となる。

しかし自然界では、その逆の状態が支配している。

3.優位性。卑しい体は、霊に関してはある程度独立しているが、生来の状態に関しては依存的であり、束縛されている。栄光の体は、霊に依存しているが、こうした生来の状態に関しては独立的であり、自由である。したがって、前者には、養いの必要性や、病や災厄のおそれがあるが、後者には王者的自由があり、物質、空間、時間の諸々の制約を超越している。

したがって、栄光の体は食べることができるが、食べることは不必要である(ルカ二四・四一~四三)。
――物質を超越している。
したがって、栄光の体は閉めきった部屋に現れることができる(ヨハ二〇・十九。なおルカ二四・三一、三六を参照)。
――空間の制約から自由である。
したがって、栄光の体は永遠に不死である(一コリ十五・五四、十五・四二)。
――時間の制約から全く自由である。

4.高揚。卑しい体は、そのようなものであるために(ピリ三・二一)、「不名誉な」体である(一コリ十五・四三)。しかし、栄光の体は高められた体である。現在の体の低級さは、病や死からわかるし、妊娠、出産、その養い方からもわかる。したがって、この尊い未来の体では、こうした諸々の状態はなくなる。「復活の時には、彼らはめとることも嫁ぐこともしない。彼らは天にいる神の天使たちのようである」(マタ二二・三〇)。

しかしこれは、「彼ら自身が天使になる」ということではなく、ただ「天使たちのように」なるということである。死ぬ時に天使になる人はだれもいない。われわれは確かに天使たちと交わりを持つようになるが(ヘブ十二・二二、ルカ十六・二二)、天使を超えた者になるのである(一コリ六・二~三)。われわれは「被造物の初穂」(ヤコ一・十八)、「神の子」(ロマ八・十四)なのである。

5.幸福。卑しい体は悲しみや痛みを通るが(二コリ五・二、五・四)、栄光の体は祝福に満ちている。「彼らは飢えることも渇くこともない」(イザ四九・十、黙七・十六~十七)。「もはや嘆きや、叫びや、痛みはない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙二一・一~二七、四・一~十一)。「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえり、卑しいもので蒔かれ、栄光のうちによみがえり、弱さのうちに蒔かれ、強さのうちによみがえる」(一コリ十五・四二~四三)。

6.光輝。卑しい体は惨めな天幕だが、栄光の体は透明な光り輝く宮殿である。「義人は父の王国で輝く」(マタ十三・四三)。

まぶしく輝く白い雪のように(マコ九・三、ピリ三・二一)、
透明な露のように(イザ二六・十九)、
月や星のように(ダニ十二・三)、
大空の明るさのように(ダニ十二・三)、
力強い太陽のように(マタ十三・四三、十七・二、黙一・十六)、
栄光の光のうちにおられる主イエスご自身のように(ピリ三・二一、一ヨハ三・二、二コリ三・十八)。「教師たちは天のように輝きを放ち、多くの人を義に立ち返らせる者たちは、星々のようになって永遠に至る」(ダニ十二・三)。

これが、われわれが待ち望んでいる栄光である。これと地上の体を比較すると、一粒の種と完全に開花した花のようである(一コリ十五・三五~三九、四二~四四)。一粒の小さなケシの種の中に見事な植物が、ドングリの中に巨大なオークが、小さな種の中にりんごの木が含まれていようとは、思いもよらないことである。それと同じように、現在の体のうちに将来の体の栄光を認めることは少しもできないのである。

7.キリストへの同形化。しかし、最も輝かしい特徴は、贖われた者はキリストに同形化される、ということである。「われわれは彼に似た者となる。ありのままの彼を見るからである」(一ヨハ三・二)。われわれは「彼の栄光の体に同形化」(ピリ三・二一)されるであろう。われわれは彼の「かたち」を帯びる。それは、「彼が多くの兄弟たちの間で長子となるためである」(ロマ八・二九、コロ一・十八。二コリ三・十八を参照)。「第一の人は地から出て塵に属し、第二の人は天から出た者である。この天の人のように、われわれもまた天の者である。われわれは塵から出た者のかたちを帯びているように、天から出た方のかたちをも帯びるのである」(一コリ十五・四七~四九、ダービー)。