キリストにあっての完全

笹尾鉄三郎

「我らはこのキリストを伝え、知恵を尽くしてすべての人を訓戒し、すべての人を教う。これすべての人をしてキリストに在り、全くなりて神の前に立つことを得しめんためなり」(コロサイ一・二八)。

キリストにあっての完全!これは我らに対する神の切なる願いである。神が種々の方面から我らを教え、恵み、また懲らしめたもうのは何のためかというと、どうにかして我らをキリストにあって完全な者として御前に立たせるためである。もし我らがやっと滅亡より救われただけで完全にならないなら、神はどれほど失望なさるかわからない。これがために聖霊はパウロの内に働き、また今日我らの内に働いていたもうのである。今日、このことについてしばらく話すことにする。

(一)これは神の命令である。「さらば汝らの天の父の全きがごとく、汝らも全かれ」(マタイ五・四八)。ある人は「人間が完全になることなど決してない」と言うが、それは人間の考えで、ことに罪を持つ者の言う所である。

(二)神はこれがために道を備えたもうた。「今は神キリストの肉の体をもて、その死により汝らをしておのれと和らがしめ(これは救いである)、潔く傷なく責むべき所なくして(これは完全である)、おのれの前に立たしめんとしたもうなり」(コロサイ一・二二)。ああ、しかり、主が肉を裂き血を流したもうた御目的は、前述の神の御命令が我らにより成就され実行されるためである。神の命令にはいつでもその実行の道と力が伴っている。

(三)これは聖徒の経験である。

パウロは「我らのうちすべて全き者」と言っている(ピリピ三・十五)。ちょっとここで注意されたい。十二節においてパウロは「我すでに全うせられたりと言うにあらず」と言い、十五節において「我らのうちすべて全き者」と言っている。前後撞着するようであるがそうではなく、完全に二種あるのである。十二節の完全は主再臨の時、我らが栄光の体に甦りあるいは化した時に達する完全であって、今日この方を味わいたいと思う。

さて、現世におけるキリストにあっての完全とは、すなわち愛において完全であることである。前述のマタイ伝五章の神の命令も、「兄弟のみならず敵をも愛せよ。愛において父のように完全になれ」との意味である。

我らの力量や働きは実に不完全であっても(人より見て)、愛は神の前で律法を全うする(ローマ十三・八)。聖潔とは「この汚れを捨て、かの癖を直し、こうしてはいけない、ああしてはいけない」というような窮屈なことではなく、全き愛により全心全力を挙げて神と人とに向かう心の状態である。ここに自由があり、平安があり、大胆があり、力がある。神は愛であるゆえに、神の子たる我らも愛であるぺきはずである。キリストの御謙卑、御服従、御忍耐、また一切の御働きはことごとく愛である。全き愛より出て来ている。かくて主は、「わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし」(ヨハネ十三・三四)と命じたもうたが、我ら果たして相愛しているであろうか。

ペテロはなかなか恐心であったが、彼が聖霊を受ける前は愛において完全でなく、「主よ、われ一切を捨て汝に従えり」とは言ったものの、実際は己を捨てていなかったので、いざというとき主を捨てて逃げた。我らもペテロのように自らを欺き、「身も魂も主に献げたい」と言いながら、日常の小さなことでもやはり己を顧みて人を顧みず、いざ十字架となると自らを安楽にするために主を離れ去ることがないであろうか。主の御用に金を出す場合もまた、我らの愛の実を試される時である(コリント後八・八)。

「愛は寛容にして慈悲あり、愛は妬まず、愛は誇らず、高ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おおよそ事包み、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり」(コリント前十三・四~七)。

我らは愛において完全であろうか。では我らはいかにして完全な愛を得ようか。聖霊はヨハネ第一書四・七~十一において示したもう。「愛は神より出ず」。「神はその生みたまえるひとり子を世に遣わし、我らをして彼によって生を得さしむ。ここにおいて神の愛われらに現れたり。我ら神を愛するに非ず。神われらを愛し、我らの罪のためにその子を遣わして挽回の祭とせり。これすなわち愛なり」。

おお、ひとり子をこの好悪暗黒な世に遣わし、彼を十字架に渡したもうた父の御苦痛を思え。神は我らを愛してこの無上の惨苦をも忍びたもうた。「愛する者よ、かくのごとく神われらを愛したまえば、我らもまた互いに相愛すべし」。なおヨハネ第一書三・十六を見ると、「主は我らのために命を捨てたまえり。これによりて愛ということを知りたり」。しかり、我らは神の愛を実際に味わい知った。これは人情の愛ではない。我らが謙遜と信仰をもって十字架に来る時、聖霊は神の愛を我らの心の隅々まで満たしたもう(ロマ五・五)。愛の火を受けるなら、すべての汚れは焼き尽くされ、我らの心は完全になるのである。

「汝の神エホバ、汝の心に割礼を施し、汝をして心を尽くし、精神を尽くして汝の神エホバを愛せしめたもうべし」(申命三〇・六)。だから誰でも主に来るならば完全になることができる。「私はとてもできない」と言う人は謙遜のようであるが、実は神の力を拒む者である。おお、心の曲っている者、冷ややかな者、欠けている者は来たりて受けよ。すでに愛の火を受けた者はなお愛の増し、かつ満たされんことを求めよ。これは主の聖旨である(テサロニケ前三・十二)。

なお我らは心を尽くして聖書を調べ、聖旨をわきまえ知り、時々刻々聖霊の声に聞き従い、かつ我が身の上に来たるあらゆる辛苦艱難を神の愛の御彫刻として、また栄光にあずかる階段として歓迎することである。これらはみな我らをしてキリストにあって完全ならしめるものである。