エバン・ロバーツとの会話から得られた

霊的格言

エバン・ロバーツ

勝利者誌 一九二〇年 第七巻 一月号 掲載

奇跡は人を回心させません。キリストに養われた五千人は肉体的には満足しましたが、霊的には変化しませんでした。携挙の奇跡はこの世を回心させません。

私たちは傷を癒す油だけでなく、傷をつける棒も歓迎すべきです。

あなたが投げ込まれた炉と、そこでもあなたと一緒にいてくださる神の御子の姿を、神に感謝しなさい。

金から不純物を取り除くよりも、金貨から泥を洗い流す方が簡単です。

神にとって、あなたに楽しいことを与える方が、苦しいことを与えるよりも負担が少ないのです。ですから、神があなたに与える苦難に対して、あなたは神を二倍讃えるべきです。

感謝の心を養いましょう。暗闇から生じた光、苦しみから生じた聖さ、弱さから生じた強さを神に感謝しましょう。あなたが通った試練は、永遠にあなたを益するものなのです。

あなたの中の神聖な性質は神の御言葉を渇望します。その著者と神聖なあらゆるものを求めて叫びます。信者が聖書よりも他の本を好んで読むなら、何かが間違っています。ヨシュアは昼も夜も「黙想」しました。永遠に王と共に生きることを望むなら、 王の家のすべてのおきてを今学ぶべきです。

あなたを救うのは「光」ではなく神ご自身です。

人を回心させるのは律法に対する恐れや、神に対する恐れではなく、新創造における神の直接的行為です。

背中を撫でても犬は変わりません。犬を落ち着かせることはできても、犬の性質は変えられません。

堕落した人にも「善」はありますが、天で通用する「善」はありません。悪の性質には美徳と悪徳があります。各人は、どんな[天然的な]「善」が自分を支配しているのかを知るべきです。そうすれば、悪の性質の「善」を無効にし、[キリストを通して]神の性質を保持することができます。人はまず「天然的な善」に固執した後に、天然的な悪に落ち込むものなのです。

クリスチャンであることは、英雄になりたいと願う何人にとっても素晴らしい機会です。

すべてのクリスチャンは、十字架上で死ぬ前にゲッセマネを経験しなければなりません。人々を救うのはゲッセマネの人たちなのです。

十字架は恥で、冠は栄光で覆われています。

天にたどり着いたとき、私たちはすべての人の真の姿を見るでしょう。勇敢な言葉を語った者たちや、勇敢な行いをした者たちを。

報いの問題で重要なのは、量ではなく質です。干し草の山を火にくぐらせて、どれだけ残るか見てみなさい。

だれもが天で自分の本当の社会的地位を得ることになります。

天には位階があります。上位、同等、下位というように。最高位を目指すのはかまいませんが、それを得られるかどうかわかるまでは、最低の地位に留まる方がよいでしょう。後に下げられるよりは、前に呼ばれるほうがよいからです。

信仰によって天的な地位につくとき、その第一の結果として、あなたの人生全体が裁きの下に置かれることになるでしょう。

何であれ世間と違うことをすれば、世間はあなたを狂人だと思います。世間はバプテスマのヨハネをそう見なしました。なぜなら、彼は三つの点、つまり、家・食べ物・服装という点で世間と異なっていたからです。

キリストは死ぬ前に闇の勢力を征服されました。彼が十字架にかけられたとき、闇の勢力は打ち払われました。肉体的な苦しみのただ中で、彼は遣わされた使命を果たされたのです。

十二歳のときキリストは博士たちと共におられましたが、三十三歳のとき十字架上で強盗たちと共におられました。

天の御使いたちは皆、十字架上で起きた偉大な勝利を見ることができましたが、キリストご自身は死の苦しみの中にあり、それを「楽しむ」ことはできませんでした。