第九章 忍耐

セス・C・リース

Pilgrim Holiness Advocate 誌 二十一巻―― 一九四一年十一月十三日 ―― 四十六号

「忍耐を完全に働かせなさい。それはあなたたちが完全になって、欠けたものがなにもなくなるためです。」(ヤコブ一・四)

この節は、クリスチャンの性格を完成させる恵みとして、忍耐をとても高い地位に置いている。忍耐はここでは、天の芸術家の最後の仕上げの一手と見なされている。この恵みが完成する時、われわれは欠けたものがなにもない完全な全き者になる。忍耐は輝かしい性質ではない。忍耐には耳目を引く示威的な壮観さがなにもない。忍耐は大衆の皮相的な関心を引かないし、この世の称賛を勝ち取ることもない。しかし、人生で最も価値ある力の多くは、ビロードの足で静かに動き回っている。いつの日か、この静かな力はこの御言葉が示す卓越性にふさわしいことを、われわれは間違いなく理解するだろう。

前世紀のマガフィー読本は、亀に競争を挑んだ野ウサギの話を述べている。野ウサギは飛び跳ねてスタートを切り、たちまち見えなくなった。しかし、過信しすぎて相手を見くびり、競争に負けた。亀は真っ直ぐ進み続けて、最後には競争に勝った。このように、忍耐は常に競争に勝利する。忍耐の恵みほど多くの人々に欠けているクリスチャン的恵みが他にあるのかどうか、私には疑問である。

忍耐という言葉は苦難を意味する語根から派生した。それは常に、試練に耐えることと関係している。われわれは苦しむ世界の中に生きている。火の粉が空を舞うように、われわれは必ず問題に遭遇するよう生まれついている。われわれが抱えている最も大きな必要の一つは忍耐する力である。ある人々は生まれつき他の人よりもこれを遥かに多く持ち合わせているが、この御言葉が述べている忍耐は生まれつきのものではなく神聖なものである。忍耐は恥をものともせずに十字架を耐え忍ばれた方の精神である。この御方は迫害され苦しめられても、口を開かなかった。この種の忍耐は艱難という学校で学ぶものである。

私はある女性の話を読んだ。その女性はもっと忍耐強くなれるよう祈って欲しいと牧師に求めた。牧師はひざまずいて、彼女の試練や苦しみが増すよう祈った。牧師がこう祈り続けると、とうとう彼女はすっかり恐ろしくなり、それ以上耐えられなくなって、「やめてください、やめてください、このような裁きを私の頭上に呼び下すのは」と叫んだ。牧師は答えた、「もっと忍耐強くなれるよう祈ることを私に所望されたのではなかったでしょうか。ご存じのように、艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出し、希望は失望に終わることはありません」。

次にわかるのは次のことである。神の御手から直接臨んだ十字架や苦しみを耐え忍ぶことの方が、仲間から虐待される時に耐え忍んで辛抱強くしていることよりも遥かに容易なのである。しかし、「彼は罵られても罵り返さず、苦しんでも脅さなかった」。聖霊が与えられる目的は、恵みが増し加わることである。この恵みのためにパウロは祈った、「その輝かしい力にしたがって、あなたたちがあらゆる力をもって強められ、喜びに満ちた忍耐と辛抱強さを持つようになりますように」。

これはとても高い水準だが、高すぎはしない。忍耐だけでなく、辛抱強さも必要である。辛抱強さだけでなく、喜びに満ちた辛抱強さが必要である。この忍耐は憎しみに対して愛を、呪いに対して祝福を与える。われわれを悪し様にけなし虐待する者たちの益だけを求める。このような水準の性格は、カルバリのキリストとキリストの学校にのみ見いだされる。

また、忍耐は神の約束の成就を待つのに必要であり、待つことによって得られる。アブラハムについて、「忍耐強く耐え忍んだ後、約束のものを得た」と述べられている。遅延は神の王国の法則の一つであることは明らかなように思われる。これは私の頭を困惑させ、私の心と忍耐を厳しく試みる。「農夫は地の尊い実りを待ち望み、そのために忍耐します」。「あなたたちも忍耐しなさい。主の来臨は近いからです」。アブラハムが自分の嗣業をどれくらい待ったか、あなたは知っているか。初代教会はペンテコステをどれくらい待ったか?花嫁は自分の主をどれくらい待ち続けてきたか?ドルボー夫人がアンディーの回心をどれくらい待ったか、あなたは知っているか?最終的に、四十年後、彼女の祈りはかなえられた。そして、アンディーは五万人以上の人をイエスに導いたのである。一万人の母親たちが祈りがかなえられるのをどれくらい待ってきたことか!「遅延」の法則は信仰の試みだが、忍耐を育むのである。

神は少なくとも祈りを三種類に区別された。第一は、「求めよ、そうすれば与えられる」。第二は、「探せ、そうすれば見いだす」。第三は、「叩け、そうすれば開かれる」である。この土地では今日、祈りに関する皮相的な考えが広まっている。それによると、恵みの御座は一口の食べ物を掴んでさっさと駆け去る昼食売り場のようなものである。「男は常に祈るべきであって、気落ちしてはならない」。「主を待ち望む者は新たな力を得る」。預言者エリヤが霊的戦いの苦しみで何度も屈んだ時、自然の力は全能の祈りに屈して、小さな雲が空に現れた。人々が絶え間なく祈り続けている間、天使が来てペテロのために牢獄の扉を開いた。

楽器による振動を繰り返し与えると、橋の堅固な土台が砕けて崩落することが知られている。それと同じように、聖霊の力に満たされた信仰の祈りの絶え間ない波動は悪の厚い壁を崩して、信仰の祈りに約束されている力強い出来事を生じさせることが知られている。中継局が電話の呼び出しに応えるような迅速な応答がなければ待っても仕方がない、と考えている人もいるようである。それで彼らは受話器を置いてしまうのである。神は常に最初の呼び出しに応じてくれるとはかぎらない。多くの時、富の授与には諸々の条件がある。ヨブ記二八章で主は、最上の最も価値あるものを得る過程の絵図として、鉱業の過程を用いておられる。箴言では、知恵を得る過程を用いて、最上のものを得る方法をわれわれに教えてくださっている。金、鉄、石炭、真珠を得る過程では、時間が重要な要素である。時間、出費、痛み、労苦は、待つことと並んで商売の一部である。だから、待つ者のところに多くのものが集まるのである。

この世の事業は粘り強いが、あまりにも多くの時、われわれは霊的事柄でこの粘り強さに欠けている。総合石油会社は一つの穴を掘るのに二十万ドル費やしても、石油が一バレルも得られないことがある。すると、三百フィートか四百フィート場所を移して、別の穴を掘る。もしわれわれが勝利の祈りの中で十分な時間を費やしていれば、その答えは地上の産業がかつて獲得した最も輝かしい成果を無限に上回る価値があっただろう。神が与えてくださる多くのものは、急いで与えるにはあまりにも偉大すぎるのである。神の手順の多くは周到である。

自然の力のいくつかはなんとゆっくり進むことか!木では、樹液からつぼみ、花、実が生じる。種から、葉、穂、十分に実った穀粒が生じる。地は混沌とした廃墟と暗闇の巨塊であり、「御霊が水の面を覆っていた」と述べられている。母鳥がゆっくりと自分の巣を抱くように、命の御霊はこの状況を覆っておられた。すると、秩序と命が暗闇と死の光景を変え始めたのである。

多くの事例でもまさにそうである。御霊はある頑なな人の暗い心を長いあいだ覆われる。これが癒しが遅れるいくつかの事例の理由かもしれない。つまり、忍耐を育むためである。御霊は今、あなたの弱った病の体を覆っておられるのかもしれない。そうだとすると、いつの日か命が生じるのである。われわれの霊的性格を高めるには訓練が必要である。どうやって訓練を受けるのか?安逸や安楽によってではなく、長引く試練を耐え忍ぶことによってである。海岸のこれらの美しい小石を丸い滑らかなものにするのにどれくらい時間がかかったのか、あなたは知っているか?何世代もかかったのであり、何百万回も繰り返し転がされたのである。かつて、これらの小石には尖った角があった。自然界のなんらかの激変で崖から引き剥がされたからである。

「どんな状況でも満足することを私は学んできた」と使徒は言った。一度に全部学んだのではなく、「学んできた」のである。「満ち足りること、飢えを忍ぶこと、富むことや欠乏を忍ぶことを私は教わった」。精錬業者は、るつぼが熱を放って輝いている間、その前に座り続ける。溶けた金の表面に自分の顔が映るようになるまでである。われわれは忍耐して待つだろうか?神の学校以外のどの学校でも、われわれは磨き上げられることを覚悟する。霊的性格を磨き上げることには、とまどいや実習がつきものである。

チャルマース博士は死にかけている不信心者を二十四回呼んだが、二十四回玄関で素っ気なく断られた。しかし、二十五回目の時、扉が開いて、その瀕死の人は「二十四回断られても立ち続けるほど、私の魂を気遣ってくれる人にお会いしたい」と言った。

何年も前のことだが、運河の工事で、きわめて硬い造りの花崗岩の岩層を貫通する必要が生じた。作業員たちは最終的に「やめて」しまった。岩がとても硬くて、それにぜんぜん傷をつけられなかったからである。給料が上がっても、翌週、彼らはまたもや「やめて」しまった。給料が倍になっても、なすすべのない所で働くことを作業員たちは断固として拒絶した。新しい人たちが雇われたが、二、三日後、監督は偉大な技術者であるブリンレー氏のところに行って、「ブリンレーさん、これは無駄です。あなたは自分の金を浪費しているのです」と言った。ブリンレー氏は言った、「その岩を叩くと転がりますか?」。監督は答えた、「いいえ」。ブリンレー氏は言った、「あなたがその岩を叩くと動きますか?」。監督は答えた、「いいえ」。「その岩を叩くと埃が立ちますか?」。監督は言った、「はい、わずかな埃が出ます」。ブリンレー氏は言った、「叩き続けなさい」。勝利はこの忍耐強い粘り強さの所産だったのである。