十字架の実である信仰

C. H. プリジオン

勝利者誌 一九一〇年 二巻 六月号 掲載。

「神を信じなさい」(ギリシャ語、「神の信仰を持ちなさい」)マルコ十一・二二。「……からし種一粒ほどの信仰」ルカ十七・六。

私たちはこの二つの御言葉を両方とも知っていましたが、最近初めて私はそれらを全体として知りました。聖書は自らの最高の注解書です。私たちの目が開かれるとき、その中に、御言葉と御言葉を比較することにより、必要な助けがすべて見いだされます。「神を信じなさい」は、ギリシャ語原文では、「神の信仰を持ちなさい」となっています。また、その本質がルカ十七・六「からし種一粒ほどの信仰を持ちなさい」に示されています。

ある日、イエスが通りかかると、遠くにいちじくの木が見えました――それには葉が茂っていました。いちじくの木については、葉の前に実がみのると言われており、みのった実はみのりはじめの実よりも大きいと言われています。しかし、このいちじくの木はそうではありませんでした。葉は茂っていたけれども、実はなかったからです。イエスはその木の所に行き、「もはやお前は二度と実をみのらせることはない」と言って、それを呪われました。翌日、彼の弟子たちはそのいちじくの木を通り過ぎて、それが根から干からびていることに気づきました。彼らは驚きました。それでイエスはご自分がそれを行った方法の秘訣を彼らに話されました。

イエスが私たちからとてもかけ離れているように思われる理由の一つは、私たちが信仰によって生きなければならないのと同じように、彼は信仰によって生きておられたことを私たちが理解していないことです。彼は彼らに、ある日、彼らが知ることを望むどんな霊的真理でも学べる方法を話されました。彼は、「だれでも彼のみこころを行おうとするなら、知るでしょう」(ヨハネ七・十七、改定訳)と言われました。彼の弟子たちがいちじくの木について驚いていると、イエスは彼らにそれがどのように萎れたのかを示されました。彼は彼らにご自分が使った方法を話されました。イエスは、「わたしがそれを行ったのは、神の信仰を持つことによってです」と言われました――次に彼は彼らに、「神の信仰を持ちなさい。まことに、わたしはあなたたちに言います。だれでもこの山に向かって、『取り去られて海に投げ込まれよ』と言い、心の中で疑わず、自分の言うことは成ると信じるなら、言うことは何でもかなえられます」と言われました。

ルカの文脈では、赦しについて述べられています。それは、「あなたの兄弟があなたに対して一日に七回罪を犯したとしても、もし彼が悔い改めるなら、赦してあげなさい」と述べています。弟子たちは、天然に全く反するそのようなことをどうすればできるのか、わかりませんでした。自分たちを一日に何回も傷つけた人を赦すことは、いちじくの木を萎れさせるのと同じくらい偉大な奇跡でした。彼らは「すみません、私を赦してください」と言い――あなたは彼らを赦します。その後、彼らは何度も同じことを行い、たとえ彼らが一日に四十九回あなたを傷つけたとしても、なおも悔い改めて赦しを求めるなら、あなたは彼らを赦さなければなりません。彼が弟子たちにこう話された時、彼らは「主よ、私たちの信仰を増してください」と言いました。そこで彼は彼らに言われました、「あなたたちにからし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『根こそぎにされて、海に植えられよ』と言っても、それはあなたたちに従います」。これはまさに、彼がルカによる福音書で述べておられるのと同じ類の信仰です。

マルコの節の文字どおりのギリシャ語は、「神の信仰を持ちなさい」です。あなた自身の信仰ではなく、神の信仰です。私たちの多くはこれを何年も知っていましたが、神の信仰がいったい何なのか理解していませんでした。ルカのこの節は、神の信仰についての注解です。神の信仰は一粒のからし種のようである、とそれは述べています。それは、「一粒のからし種のような信仰を持ちなさい」と述べているのですから、それを、「一粒のからし種が信仰を持っているように、信仰を持ちなさい」と読んではいけない理由が何かあるでしょうか?この方が遥かに多くの光をそれに投じるように思われます。この二つの御言葉が教える学課は全く同一であり、その主題は――「信仰の完成」です。一粒のからし種との比較により、神の信仰の過程の分析が可能になります。この信仰は――

1.神が隠された信仰です。からし種の取るに足りない粒の中に何かがあります。それは、人の目にはなおさら取るに足りないように見えますが、その中には何かが植え付けられており、隠されています。神の生命力がそこに隠されているのです。からし種の粒が空の物体と異なるのは、その中に生命原理が宿っている点です。一粒のからし種のように見えるものを木から彫り出せたとしても、そこにはある違いがあります。その違いとは、一方には命があるけれども他方にはないということです。

ですから、信仰は視覚ではありません。それは天然の目には識別不能です。解剖してもそれは見つけられず、それを損ないかねません。信仰がある証拠として感情や顕現を求めるのをやめなさい。そして、神に明け渡された心と命をもってそれを受け入れ、彼の御言葉に基づいて安息しなさい。

2.神が植え付けられた信仰。「神の信仰を持ちなさい」と述べるとき、その意味は、「神が植え付けられた信仰を持ちなさい、あなたの内側に神の命を持ちなさい」ということです。霊的には、神の信仰は神が植え付けられた信仰です。それを強いることはできません。それを内側に植え付けてもらわなければなりません。そうするなら、それは神の命から芽生えます。粒の中にある命が、種から受ける命から芽生えるように、神の信仰、神が植え付けられた信仰も、種から、その中に神の命がある神の御言葉から芽生えます。からし種と、からし種のような信仰、「神の信仰」を持つこととの間にある、類似点がわかるのではないでしょうか?

信仰は意志の力でも知識でもないこと、それは人からではなく神からであることを学ぶ時、人はそれを作り上げようとする努力をやめ、霊的に神の御言葉を受け入れて信じることにより、それを神の賜物として受け入れるようになります。「信仰は聞くことにより、聞くことは神の御言葉によります」。

3.神に服する信仰。からし種の粒の中には、どんな類の信仰があるのでしょう?母なる大地の力に喜んで服し、喜んで土の中に隠されてついには死ぬ信仰です。そうです、喜んで隠されてついには死ぬのです!しばらくのあいだ埋まったままですが、その後芽生えて成長し、高さ十、十五、二十フィートの木になります。このからし種の中に、この過程に服することのできる何か、死んでなおもよみがえることのできる何かがなければ、それは決して木を生じさせられなかったでしょう。神の信仰と一粒のからし種のこの信仰との間の類似点を、あなたは理解してくれると私たちは信じます。あなたはこの一粒のからし種なのです。愛する人よ、あなたの中には神が分与された信仰が植え付けられています。それはあなたの中にある小さな胚芽ですが、あなたが地に落ちる時、それは実をならせます。それは神が植え付けられた信仰だからです。それは神に服する信仰でもあります。地に落ちたからし種の粒のように、喜んで神に服して明け渡さなければなりません。私たちが述べているのは、自然界の諸々の力に服することについてです。これらの力は実際のところ、自然界に働く神の力です。からし種の粒が地に植えられて自然界の諸々の力に服するように、あなたも神の諸々の力に喜んで服さなければなりません。神の信仰が完成されるには、この類の働きがあなたの中になされなければなりません。第一に、神はその胚芽をあなたの中に置き、次に、あなたをご自身の諸々の力に服させます。このからし種はあなた自身であり、この種の中にある生命原理は、神があなたの中に植え付けられる初期の信仰です。

なぜ環境がこんなに困難なのだろう、とあなたは不思議に思うかもしれません。なぜ隠されなければならないのだろう、と不思議に思うかもしれません。なぜこのような困難を耐え忍ばなければならないのだろう、と不思議に思うかもしれません。それは、あなたは神の諸々の力に服さなければならないからです。これは、からし種がその力に服するのと同じです。神の力に服すること、彼の力に従うことは、なんと素晴らしいのでしょう。どうか神が信仰の従順を私たちに与えてくださいますように。

4.神に死に渡される信仰。からし種の粒の秘訣は、地に落ちて死ぬか、あるいは、一粒のままか、ということです。あなたは、地面の中にしばらく放置されていた穀粒を掘り返したことはあるでしょうか?第一に、それは湿気によって膨張し、さらに長く放置すると、その外側の殻にひびが生じて、死に始めます。その一部は腐敗した状態にあります。この過程が進行しているあいだ、その小さな生命の胚芽の中でも素晴らしい変化が起きています。それは腐敗する過程から力を引き出しつつあります。死の過程があなたの中ですべてなされないかぎり、あなたは決して芽生えて大木になれません。この信仰の生命原理は、神があなたの中に分与されたものであり、摂理と恵みにより、神の諸々の力に服さなければなりません。また、死が自然界の諸々の力を通して生じなければならないように、あなたも恵みの力により、また聖霊の力により、死ななければなりません。種を取って、それをミイラの手の中に置いても、それは成長しません。あるエジプトのミイラの手の中に、人々は一粒の麦を見つけました。それは数千年間そこにあったのです。しかし、密閉されていたので、麦は人々がそこに置いた時と同じくらい良好でした。人々がその麦粒を植えると、それは成長しました。地に落ちて死なないかぎり、それは決して増殖しなかったでしょう。その麦の中には、自らを殺すものが何もありませんでした。しかし、自然界の力や大地の力の中に、その上に働いてそれを死に至らせる力があって、作用していたのです。愛する人よ、私たちがしばしば話すこの死と命があなたの中に造り込まれるのは、あなた自身のどんな力にもよりません――それは聖霊の力によって成就されなければなりません――あなたを取り巻いている神の諸々の力があなたを死に渡します。どうして自分がいちじくの木に向かって「萎れよ」と言っても、それが起きなかったのだろう、とあなたは不思議に思っています。どうして自分があの赦さない霊に向かって「萎れよ」と言っても――そのままなのだろう、とあなたは不思議に思っています。「悔い改めよ」――それなのに悔い改めません。あなたが欲しているもの、私たちが欲しているもの、神の教会が欲しているものは、力です――生ける神の力です。この力はまず私たち自身の心の中に働きます。それは、自己の命がすべて十字架につけられて、神の命が現わされるためです。この秘訣が理解されていれば、力強いことがイエスの御名の中でなされていたでしょう。生ける神の教会はこの秘訣を失ってしまいました。イエス・キリストの十字架は少しも理解されていません。彼らの目は堅く閉ざされているため、死につつあるからし種の粒が私たちの中の神の働きに対応していることを見ることができません。「神の信仰を持ちなさい」――自分自身のものを放棄しなさい、そうすれば力強い働きがあなたによって、またあなたを通して成し遂げられるでしょう。

おそらく、あなたたちの中の何人かは神秘主義者タウラーの説教や、彼の生涯について読んだことがあるでしょう。この称号は非難の言葉として述べられることが時々ありますが、真のクリスチャンはみな神秘主義者です。とはいうものの、神秘主義者がみなクリスチャンとはかぎりません。あなたたちは神の霊の神秘的な内なる働きを信じています。これを信じているなら、あなたは神秘主義者です――この意味で私たちは神秘主義者です。私たちは麦粒における神秘的な神の働きを信じているように、心における神秘的な神の働きを信じています。種の内側に生命原理がありますが、それが実を結べるようになるには、まず何かが起きなければなりません。あなたには信仰がありますが、あなたが豊かな力に達するには、まず何かがあなたに起きなければなりません。「私は減少し、彼は増し加わらなければなりません」よりもまさったものがあります。それは、「私はキリストと共に十字架につけられています。にもかかわらず私が生きているのは、私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」ということです。

より深い命の中にあるほとんどのクリスチャン(ほとんどのクリスチャンと述べることにします)は、死の過程の中にあります。死ぬとは、「私がますます減少すること、私がますます減少すること」です――彼らは「全く」とは言わないものの、「私がますます減少し、キリストがますます増し加わりますように」と言い続けます。「私が全くなくなって、すべてはキリストになりますように」という境地に至る代わりにそう言い続けます。あるとき、一人の農民が告白するためにタウラーのところにやって来ました。しかし、農民がタウラーに告白する代わりに、タウラーが農民に告白しました。偉大な説教者は「私は満足していません」と言いました。農民は「満足できるようになるには、タウラーは死ななければなりません」と返答しました。数千の人が耳を傾けていたこの偉大な人は、静かな場所に退いて、この死を自分のうちに成し遂げてくださるよう神に求めました。約二年間そこにいた後、彼は出て来て、自分の会衆を集めました。大群衆が彼に耳を傾けるためにやって来ました。彼は素晴らしい説教者でした。彼は説教を始めました。しかし、彼は泣きくずれました。聴衆は、「タウラーはどうしてしまったのか?」「タウラーは以前のようには説教できなくなってしまった」「彼は今日しくじった」と言いながら散っていきました。次に彼が説教した時、ほんの一握りの人しか集まりませんでした――その人々は何かを垣間見た人々であり、彼は彼らに砕けた心で説教しました。しかし、神の力が下りました。彼の人生にまつわるこの出来事は数百年前のことですが、彼の説教は依然として神の深い事柄について語り続けています。彼はあの離れた隠れ場に行き、御霊の力によってヨハネ・タウラーを死に渡してくださるよう神に求めました。愛する人よ、あなたは喜んでキリストと共に十字架につけられて神に栄光を帰すことを、よくよく願っているでしょうか?

5.神を受け取る信仰。からし種は死にます。そして死ぬ時、別の過程が始まります。あの内なる胚芽が自然界の諸々の力や活力から飲み始めて、素晴らしい復活の変化を経過するのです。自然界から飲む時、それは高く伸びて、地面から一フィート、二フィート、三、四、五フィートの高さになります。東洋の国々では、からし種の木は二十フィートの高さにまで成長します。それは自然界からその栄養をすべて得ます。その健康と力を得ます。地から始まって実をみのらせるものをすべて得ます。

あなたには他のだれかよりも力があるかもしれませんが、その唯一の理由はあなたが神からさらに多く受け取るためです。あの小さなからし種は死にました。それは何もできませんでした――しかし、あの小さな胚芽は自然界の栄養を母なる大地から受け取り始めました。あなたが自分の自己の終焉に至った後――そこではあなたは何もできず、あるのは信仰だけです――よみがえりと新しい命が臨みます。種が死んだ時、それは生かされました。それで、四方から力を飲めるようになりました。からし種の粒が自然界の力、命、栄養を飲むように――私はイエス・キリストの中にあります。キリストと共に十字架につけられているとき、私は彼の命を飲みます。この信仰は神に植え付けられた信仰です――からし種の中の命と同じです。神に服する信仰です――からし種が自然界の諸々の力に服するように、それは神の諸々の力に服します。神に死に渡される信仰です――からし種が実をみのらせ始める前に、自然界の諸々の力がそれを死に渡すのと同じです。そして神を受け取る信仰です――神から力と栄養を受け取ります。

6.神が完成してくださる信仰。私たちはそれを「神の信仰」と名付けてきましたが、実際には、神がそれを完成されないかぎり、それは神の信仰ではありません。からし種の粒は死んで、その後、現れて具現化されなければなりません。完成されるには、まず実体がなければなりません。もしあなたが体から分離された霊にすぎなかったなら、あなたは人として完全ではなかったでしょう。ですから、完全な人であるには、あなたは体を持たなければなりません。あなたに思想があってもそれを表現しないなら、その思想は完全ではありません。言葉によって具現化されなければなりません。それと同じように、あなたが内側に持っている信仰は、それが完成されるためには、芽生えて具現化されなければなりません。

「神を信じなさい。まことに、わたしはあなたたちに言います。だれでもこの山に向かって、『取り去られて海に投げ込まれよ』と言い(御言葉は、だれでも信じる者は、と述べているでしょうか?――いいえ、『だれでも言う者は』と述べています)、心の中で疑わず、自分の言うことは成ると信じるなら、言うことは何でもかなえられます」。

多くのクリスチャンは心の奥底に信仰を持っていますが、あえてそれを告白しようとしません。一粒のからし種のような信仰があるなら、あなたは山に向かって「取り去られよ」とえるでしょうし、桑の木に向かって「萎れよ」とえるでしょう。困難という山は、それが体・魂・霊のどこにあったとしても、すべて移るでしょう。

「一粒のからし種のように信仰を持ちなさい」。これは小さな信仰を意味しません。ほとんどのクリスチャンはそのような信仰を持っていますが、それは秘訣ではありません――秘訣は、喜んで明け渡して死ぬ信仰を持つことです。死んだ後に受け取る信仰を持つことです。これは、命じて、桑の木に向かって「萎れよ」と言うと、そうなる地点に達する信仰です。