一九〇六年(明治三九年)

中田重治

不親切なる伝道者

現今の求道者の多数は、昔の時とは求道の精神において大いに違っている。彼らは心底から慰安を求めている。しかるに伝道者の多数はいまなお目がさめず、注文外れのことばかり宣べている。自分もよく合点しない不消化物を平気な顔で講壇から説いている。幾年も教会に通ったけれども、いまだに分からないと嘆いている人が多数である。かかるものは彼ら伝道者が毎日曜日かかげるところの説教題を見てもわかる。いまは聖霊に満たされた純福音宣伝者の立つべき時である。(二月三日)

純教会

世には教会と名のついた色々の団体がある。儀式一方のお寺風の教会、忠君愛国一点ばりの国家的教会、社会改良風俗矯正専門の世俗的教会、何でもよしというクラブ的教会、その他不消化物卸し売りの教会、または神学界のくず物売りのものもあり、寄席風のものもあり、いずれも五人ないし百人の聴衆相手に何かやっている。彼らはキリストのからだなる真教会であるかと思うならば失望するけれども、その中にはらまれている男の子、すなわち生まれてのち宝座のもとに上げられ、またキリストと共に鉄の杖をもて万国の民をつかさどらんとする純教会(黙示録一二章)を思えば、喜んで彼らの中にも証しすることができるのである。われらの理想とする教会は、キリストを中心とせる「しみなくしわなく、すべてかくのごときたぐいなく、聖にして傷なき栄えなる教会」である。(二月一〇日)