「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」

F. B. マイヤー

勝利者誌 一九一〇年 二巻 十月号 掲載。ランドリンドッド大会でのメッセージ。講演者による校正はなされていません。

大会で最も楽しいのは、互いに交わす会話です。私がこの午後交わした会話は、私が自分の知性であなたたちに話そうとしていたテーマをすっかり吹き飛ばしてしまったので、私の心を満たしている思いをいくつかあなたたちに伝えずにはいられません。

愛する兄弟が私に話してくれた章を開いていただきたいと思います。常に深遠な章である、使徒行伝の十九章です。それを自分の前に開いておいていただけないでしょうか?私はこの物語を手短に話すことにします。それによって一歩ずつ、主題に迫ることにします。私が願うのは、この主題が神の力によってあなたたちの心に臨むことです。

パウロの三回目の宣教旅行のときのことです。彼は突然、高地から大都市のエペソへと下って行きました。その廃墟を歩いたのが、私にはまるで昨日のことのように思われます。

御霊に満たされたこの人がした最初のことは、小さな教会を構成していた十二人に、彼らが聖霊を受けたかどうかを尋ねることでした。もしパウロが今晩私が立っている所に立っていたなら、この大会に向かって彼が述べる第一のことは、「あなたたちは力を賦与してくださる聖霊を受けましたか?」という問いでしょう。

私たちは再生のときに神の霊を受けるかもしれませんが、再生のときに神の霊を受けることで、聖霊の強力な務めを使い尽くしたわけでは全くありません。聖なる方の油塗りを受けないかぎり、徹底的に無力なままなのです。

そこで彼は彼らに、あなたたちは高き所から力を受けましたか、と尋ねました。この問いを、私はこの場所にいるすべての男性や女性に尋ねたいと思います。あなたは聖霊の油塗りの力をこれまで経験したことがあるでしょうか?

力には四つの異なる水準があります――最も低いのが物理的力、その上が知的力、その上が道徳的力、そしてそれらすべての上にあるのが霊の力です。霊の水準上を動く時だけ、人は神と共なる力、汚れた霊どもに対する力を得ることができます。

今日、あまりにも多くの奉仕者たち、あまりにも多くのクリスチャンの働き人たちが、知的水準や道徳的水準に基づいて生きることで満足しています。そのため、彼らの働きはサタンの強力な要塞に触れることができません。

ですから、すべてのクリスチャンの働き人に対する第一の問いは、どの水準に基づいてあなたは働いているのですか、どの水準に基づいてあなたは生きているのですか、どの水準に基づいてあなたは話しているのですか?ということです。というのは、もしあなたが霊の水準より劣る水準に基づいて話しているなら、あなたの人生はほとんど失敗するだろうからです。

使徒の周りに集まったこの十二人は、彼によって、イエス・キリストを通して御霊を受けるよう導かれました。この御霊は、キリストのバプテスマの時に彼の上に、ペンテコステの時に教会の上に、コルネリオの家で異邦人たちの上に降ったのと同じ御霊でした。「御霊が最初の時と同じように」。これを語り尽くすのは不可能です。御霊がペンテコステの時のように、最初の時のように、この十二人の上に降り、革命を起こしました。もし神の霊がこの大会の上に臨まれるなら、彼は世界中で革命を起こされるでしょう。

神の力の働きによって大きな議論が巻き起こりましたが、使徒は賢明にもこう感じていました。すなわち、議論や口論が生じるのが、真理を知りたいという願いによってではなく、それを否定したいという願いによってである時、時間を費やしてもしかたがない、と。それで、彼は離れ去りました。

「彼は離れ去った」。人々が自分について大騒ぎし、噂し、話題にしている時、いったい人に何ができるでしょう?こんなに多くの人々が話していては――使徒といえどもどうにもなりません。大量の噂話、雑談、疑問に終止符を打たなければなりません。さもないと、神の霊はあまり多くの良い御業を決して行ってくださいません。あなたは神の御前に静まって、人々を裁いたり、笑いものにしたり、石を投げたり、他人の問題を当人よりも自分の方がよくわかっているかのようなふりをしたりしてはなりません。静まって、神に機会を与えなさい。そうするなら、小アジアのほとんど全体が神の霊によって一掃されたように、神の力が噴出するでしょう。

神の霊が十二人の上に臨んだ時、この人々は実際に御霊に満たされて、ただ神のためだけに立ったので、十二人からなる小さな核でも、広大な多くの人が住むこの州全体が揺り動かされて激変するほどでした。アジア中が神の御言葉を聞いたのです。

まさにこの時、聖霊降臨が悪霊どもを刺激したとしても驚くにはあたらないのではないでしょうか?聖霊が強力な力で人々の上に降られるときは、世界中どこでも、常に悪霊どもが立ち上がってそれに抵抗します。どういうわけか、あなたたちの中には悪魔についてあまり知らない人々がいます。それは、あなたたちが聖霊についてあまり知らないからです。悪魔は全く存在しない、とあなたたちは思い始めました。どういうわけか、悪魔はあなたを煩わせる必要がありません。あなたは彼を傷つけません。しかし、あなたが聖霊の力によって生き始めるようになろうものなら、地獄がこぞってあなたを止めようとします。ですから、悪霊どもが力を増しつつ自分自身と自分自身の存在を表し始めても驚くにはあたりません。

悪霊どもはずっといたのですが、目を覚ましていなかったのだと思います。まさに窓にいる多くの「キンバエ」と同じです。日が昇るとブンブン飛び始めます。同じように、この人々と他の人々の中にあるまさに神の臨在と力が、この悪霊どもの側に強烈な反対を引き起こしたのです。この悪霊どもをパウロはイエス・キリストの御名の中で対処しました。

パウロが話すと、悪霊どもは屈服せざるをえないことを知りました。馬や犬が主人が来るとわかるように、悪鬼どもは真に霊的な人が来るとわかります。

パウロは悪霊ども――彼らによって人々の体と思いと魂は苦しめられ取り憑かれていました――を対処することに大成功を収めました。それで、悪鬼どもを実際に払うことによって、あるいは、そう見せかけることによって生計を立てている人々は、自分の商売が危ないと感じました。そして、自分たちの悪鬼払いが失敗すると、彼らは次にイエスの御名を使うことを決意して、「パウロが宣べ伝えているイエスの御名によっておまえに命じる」と言いました。

彼ら自身はイエスを知りませんでした。彼らにはキリストについての直接的知識はありませんでした。しかし、彼らは「パウロが宣べ伝えている」イエスの御名によって悪鬼払いをすることで、パウロの力を表すことを期待しました。悪鬼どもは実にまともなことを言いました。あまりにもまともでもっともなので、それが今日私の心の中に鳴り響いています。それがこの群衆のすべての男女の心の中にも鳴り響くよう私は望んでいます。その言葉は、「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」という言葉です。「おまえたち新参者よ、おまえたちのことはこれまで聞いたこともないし、気にもかけない。おまえたちはいったい何者だ?」。

さて、悪鬼が――この取り憑いた人の口を通して語って――「イエスについては知っている、イエスについては知っている」と言ったのです。この悪霊がイエスについて事前にどんなことを知っていたのか私にはわかりませんが、マルコ一章に戻ることはできます。それによると、イエスが会堂で安息日の朝に悪霊を追い払われた時、その霊は「私はあなたが何者か知っています、神の聖者です」と言いました。

三十年間、その悪鬼の霊はキリストを観察してきました。その霊が以前の存在状態のときにキリストを知っていたのかどうか、私たちにはわかりません。しかし、三十年間キリストをじっと観察してきた結果、その悪霊は彼が真に聖であることを知りました。悪鬼からの大いなる証しです。(そのとおりです。)この悪霊が同様の証しをすることができる人はこの天幕の中には一人もいないと思います。

この同じ章の後半によると、イエスはその同じ安息日の晩に悪鬼どもを追い出して、「彼らに語ることを禁じ」られました。「悪鬼どもは彼を知っていたから」です。まるで、悪霊どもが自分たちの知っていることを洗いざらい話すことを――悪霊どもはそうしたかったのですが――彼は願われなかったかのようです。

事実はこうです。サタンがヨブ記の中で「ヨブについて検討した」ように――「あなたはわたしの僕ヨブについて検討したか?」――悪霊どもは常に私たちのことを検討しているのです。彼らは常に私たちの寸法を測っており、常に私たちのすべての会話について、私たちの敬虔さがいかなるものかを評価しています。悪鬼どもは私たちのことを自由奔放に話題にして、「あの人がこれこれのことをするのを見たぞ。あいつはわれわれのいい餌食だ」と言っていると思います。

彼らはイエスについて検討しました。誘惑の山での彼について検討しました。そして、彼らの大指導者がキリストと交渉している間、おそらく数万の霊どもがイエスがどうするのかを見ようと待っていたかもしれません。サタンが彼を肉の欲をもって誘惑した時、イエスは石をパンに変えることを拒まれました。サタンが彼を目の欲をもって誘惑した時、イエスはこの世の光景に誘惑されることを拒まれました。サタンが彼を生活の虚栄をもって誘惑した時、イエスは虚栄を求めて宮の翼から身を投げ落とすことを拒まれました。悪鬼どもはみな、日が暮れると家に行って、「こんなことは一度も見たことがない」と言いました。

彼らは変貌の山の上の彼を見ました。そこで再び永遠の扉が彼の前に開かれました。彼が天に足を踏み入れていたとしても、何ら非難されなかったでしょう。なぜなら、彼は罪のない人であり、したがって、死ぬことのない人だったからです。彼らは注目しました――イエスは栄光の中に入ることもできました。というのは、「喜びの代わりに」(あなたたちのウェールズ語の聖書ではそうなっており、それはギリシャ語に忠実です)「ご自分の前に置かれた喜びの代わりに、彼は恥を忍」ばれたからです――今や彼はカルバリへの道を取られました。彼らは彼を見ました。そして、彼は決してひるまないこと、魅惑・魅了されてご自分の主目的から離れようとはしないことを、彼らは思い知りました。

ゲッセマネの園は、悪霊どもによって、無数の悪霊どもによって、すっかり暗くなりかけました。彼らは暗闇の時に、暗闇の力の中で集まりましたが、それは「この世の君」がキリストとの最後の究極的戦い・決闘をするのを見るためでした。

彼らは、誘惑の山でサタンがどのように彼を逸らせようとするのかを見ました。サタンは彼を魅惑・魅了して彼に力を使わせることによって、彼を逸らそうとしました。今や彼らは見ます、サタンが彼の前に将来の木と苦悩と恥を掲げるのを。しかし彼らは、イエスがひるまないのを見ました。彼らは彼が、「父よ、わたしのこころではなく、あなたのみこころがなされますように」と言われるのを聞きます。彼らは互いに、「これですべておしまいだ。われわれは彼に何もできない」と言いました。

十字架上で彼が死なれるのを彼らは見ました。その時、彼は虜を虜として引いて行き、彼らを公にさらし者にされました。彼らは、ハデスと墓と死とサタンが昇天するキリストの戦車につながれるのを見ました。キリストは虜を虜として引いて行き、御父のもとに、ホームに行かれました。その時、彼らは知りました。彼が勝利の、輝かしい救い主であることを知ったのです。(ハレルヤ。)この悪鬼が「イエスについては知っている。彼が神の御子であることはわかっている」と言ったのも不思議ではありません。

さて、次に、この悪鬼は続けて、「パウロについてもわかっている」と言いました。悪鬼はパウロをとてもよく知っていました。パウロが「とても立派な人」だった頃の彼を、悪鬼どもが彼には何でも好きなことをできると考えていた頃の彼を、自分たちの働きをしていた頃の彼を、この悪鬼は知っていました。悪鬼どもは仰天して立ち尽くしました。なんと、ダマスコへの途上、栄光のインマヌエルがパウロを地に打ち倒すと、突然パウロは活発で従順な僕になったのです。

彼らはパウロを知っていました。少年期と成年期の彼を知っていました。回心のときの彼を知っていました。彼らはあなたや私を見ているのと同じように、彼をたびたび見ていました。彼を測り、知っていたのです。

たとえば彼らは、パウロが自分自身の力で彼らに対して戦い、繰り返し打ち負かされる経験を通ったことを知っていました。というのは、少年たちが紐で互いに捕まえあうように、彼らが彼を捕まえるたびに、彼は逃げていたからです。毎回、彼は気を取り直して、「もう二度とこんなことはするまい」と言いました。また、彼らは彼が、「私は自分の欲する善を行わず、自分が欲しない悪を行っています」とうめくのを聞きました。彼らは笑って、「奴をやっつけてやったぞ。奴はクリスチャンだが、奴を引っかけてやろう。どうすればいいかはわかっているから」と言いました。しかし彼らは、ある日、パウロがキリストの手を握るのを見ました。「私に勝利を与えてくださる神に感謝します」と述べたパウロの人生の瞬間を見ました。「私を力づけてくださるキリストを通して、私は何でもできます」(ハレルヤ)。そして、彼がこう述べて、また、「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死の法則から私を解放しました」(ハレルヤ、アーメン)と言うのを聞きました。パウロがこう述べるのを聞いた時、彼らは言いました、「もし奴がこのまま進み続けたら、われわれにはもはやあまり成算はない。もはや奴を引っかけられない」。「パウロについてもわかっている」。

さて、次に、彼らは祈る彼を見ました。ここに来る前、私は自分の新約聖書に再度目を通しました。そして、自分の祈りの生活について述べていない、パウロの手紙を一つだけ見つけました。ほとんどどの手紙でも、彼は御父に向かって膝をかがめることについて述べていると思います。

パウロは彼の筆でなした以上のことを、ひざまずいてなしました。私たちが口論によってなす以上のことを、パウロは祈りによってなしました。パウロはひざまずいて働きをしました。この世界におけるパウロの力は、実際に彼の祈りによって決まっていました。そうです、悪鬼どもはパウロが祈るのを見ました。彼が祈るのを聞くたびに、彼らは彼と太陽の間に割り込んで雲を生じさせたので、パウロは祈り抜くために自分のすべての時間を費やさざるをえなかったと思います。ああ、パウロが決して反対を受け入れようとしないのを彼らは見ました。圧迫されればされるほど、ますます彼は跳ね返りました。そして、辛抱強く祈る時、彼は勝利を得るまで決してやめませんでした。

この悪鬼は言いました、「パウロなら知っている。奴が祈るのを聞いたことがある。あんなふうに人が祈るのは聞いたことがない。奴が自分をつかまえることはわかっていた。自分には何の成算もない」。

この悪鬼どもは、パウロが神や人に対してとがめのない良心を持つ生活を送って実践していることも知っていました。毎晩、床に就く前に、パウロが自分のハンモックの横に座って、その日を振り返り、誘惑の病原菌が自分の血中に入り込んでいないかどうかを調べているのを、彼らは知っていました。悪魔を知っている人ならだれでも、悪魔は決して一度に私たちに襲いかかったりはしないことを知っています。悪魔はたいてい、一つの小さな病原菌を私たちの思いや心の中に入れて、その三日後に誘惑を臨ませます。キリストの血という殺菌剤をそれに適用しなければ、悪魔はその三日後にあなたをやっつけてしまいます。悪鬼どもは、パウロが自分たちの罠に立ち向かうのを見ました。

悪霊どもが一つの小さな思い――ある男性やある女性が読む離婚法廷からの一つの小さな汚らわしい抜粋――を入れる理由がわかります。その思いは心の中で増殖し、わずか三日後あるいは七日後に、その男性やその女性は何らかの汚れた行動や思いの中に陥ってしまうのです。

この悪鬼どもは言いました、「パウロがわれわれの罠に立ち向かっていることはわかっている。というのは、奴は毎晩、神と人の前にとがめのない良心を持とうと励んでいるからだ。奴には勘案すべきことがほとんどない」。現金を支払うとき、勘案する項目を少なくしておけば、最も手際よく清算できます。悪鬼はパウロがそうであることを知っていたので、彼が自分に「出て行け」と命じた時、その人から出て行ったのです。

あの七人がその人に取り組み始めた時は、そうではありませんでした。彼は彼らの方を向いて、「おまえたちちっぽけな小人ども、おまえたちリリパット人よ、おまえたちはいったい何者だ?おまえたちはいったい何者だ?おまえたちのことなんか知らないし、前に聞いたことも一度もない。おまえたちの名は地獄では一度も話題になったことがない。このエペソとやらの小さな土地の外では、だれもおまえたちやおまえたちのことなど知らない」。

そうです、今日、この問いが私に対して向けられているのです、「下界の地獄でF.B.マイヤーについて知っている者が誰かいるのか?」。悪魔どもは私たちについて知っているでしょうか?私たちのことを恐れているでしょうか?私たちによって怯えているでしょうか?それとも、私たちの方を向いているでしょうか?

ギリシャ語によると、この悪霊をこの人から追い出そうとした人が二人いました。すると、その霊は言いました、「おまえたちのことは知らない。おまえたちのために出て行くつもりはないし、その予定もない。パウロを連れて来るなら、出て行こう。だが、おまえたちのために出て行くつもりはない。おまえたちはいったい何者だ?」。

そして、悪霊はそうしただけでなく(ギリシャ語はとても強烈な言葉です)「彼らを支配し」ました。つまり、一匹の霊が二人の人を支配したのです。この一匹の霊は二人の人だけでなく、スケワの七人の息子全員を支配することができました。私が何を言わんとしているのか、すぐにわかるでしょう。これは山の麓の出来事を彷彿とさせないでしょうか。イエス・キリストが変貌の山から降りて来られた時、彼は人々の一団が使徒たちと議論しているのをご覧になりました。そこには悪鬼に憑かれた子がいて、その父親はイエスのもとに駆け寄って来て、「私の息子をあなたの弟子たちのところに連れて来たのですが、彼らには追い出せませんでした」と言いました。イエスは、「ああ、信仰の小さな者よ」と言われました。彼は悪鬼を追い出して、「これは祈りと断食によらなければ追い出せない」と言われました。

男性の方々、女性の方々、これが大事な点です。注目すべきことに聖書全体にわたって、この世界の悪の多くは悪霊どもの活動のせいだとされています。彼らがこの暗い世の暗闇を支配しています。この悪霊どもはみな私たちの周りにおり、社会の中に、私たち自身の家庭生活の中に、あの飲んだくれの息子の中に、汚れた霊に取り憑かれているように思われるあの少女の中に、この若者たち――彼らはまるで魅了されているかのように、神から離れ去り、鈍感で、頑なで、無関心になっています――の中にいます。「不従順な子らの中に働いている霊」。

ああ、私たちはどこにいるのでしょう?どうか神が回心者たちを諸教会に送ってくださいますように、そして、この恐るべき衰退を止めてくださいますように、と私たちは祈ってきました。しかし、依然として人々は私たちの諸教会から去りつつあり、会衆席は空っぽです。私たちの教会員名簿に加えられる人は全くいないか、ほとんどいません。私たちの諸教会はある種の乾腐病にかかっていて、祈ってもそれを防げません。何が問題なのでしょう?なんと、悪魔が私たちを恐れておらず、怯えてもいないからなのです。私たちが日曜日に説教する時や、路傍を訪れる時、あるいは、日曜学校の授業を受ける時、悪魔は言います、「おまえたちのことは知らない。おまえたちにわが火薬と弾薬を使う価値はない。おまえたちは自分の働きを続けるがよい。おまえたちを止めるために地獄を騒がせるつもりはない」。

ルターがヴォルムスに行って、彼らが彼を止めようとした時、彼は、「たとえヴォルムスに天井瓦のように多くの悪魔どもがいたとしても、私は進み続ける」と言いました。しかし、私たちを止める悪魔どもをそれほど多く持ったことは、私たちには一度もありません。私たちはそれに値しません。私たちには何の力もありません。なんと、悪魔は教会を支配し、この世を支配しているのに、私たちはみな無力なのです。悪魔は笑って言います、「おまえたちはいったい何者だ?」と。

私はあなたたちだけに話しているのではありません。自分自身に、そして、すべての牧者に話しています。牧者たちよ、一匹の悪魔が私たちの中の二人を支配できるとは、私たちはいったい何をしているのでしょう?何が私たちの問題なのでしょう?講演の大会をやめてでも、自己吟味と祈りの大会を開くようになる時が来るとは思わないでしょうか?全教会を四つの海の間から集めて、神を待ち望ませることができれば、私たちは神との関係を正すことができ、悪魔がそれを知るようになるほど正すことができる、とあなたは思わないでしょうか?その時、地獄の力は砕かれるでしょう。

私は近頃はじめてこれを理解するようになりました。私たちの主は「悪鬼どもの君によって悪魔どもや悪鬼どもを追い出しているのだ」と人々が述べたことが記されている御言葉について考えることによってです。主はきわめて注目すべきことを言われました、「強い人を縛らないかぎり、どうして強い人の家の中に入ることができるでしょう。そうしてはじめて、その持ち物を奪い取るのです」。

さて、私たち牧者の多くは、パブや、様々な種類の罪や、邪悪な男女でいっぱいの町に下って行きますが、私たちは無力です。強い人を縛っていないので、その家を奪い取れないのです。私たちは自分自身の心の中にいる強い人を縛ってきませんでした。自分自身の生活の中にいる強い人を縛ってきませんでした。悪の力を支配することがどういうことか、私たちは知りません。強い人の意のままに虜にされている人々を、私たちはどうやって救い出せるのでしょう?

これが私に押し迫っているようにあなたにも押し迫っているかどうか、私にはわかりません。しかし、引き下がってこう言わなければならないように私には思われます、「神よ、私を助けてください、私は自分自身の生活の中でサタンに対して勝利を得たいのです。サタンから彼の拠って立つ要塞をすべて取り返したいのです。神の恵みに大いに満たされて、悪魔が私を狙えないようになりたいのです」。ある黒人は、「悪魔が私の所にやって来たら、奴を奴の主人に所に案内してやろう」と言いました。

そして次に、私たちは祈りに立ち返らなければならないように思われます。ああ、神よ、私たちが祈っていないことをお赦しください。(アーメン。)ああ、友人たちよ、「アーメン」と言うこと、この素晴らしい人々が祈りの中で私たちを導いてくれる時に奮い立つことは容易です。しかし、私たちがどれほど祈らない連中か、神はご存じです。このような状況なのも不思議ではありません。もし私がきつい話をしてしまったなら、どうか神が私を赦してくださいますように。私は悪魔を縛る秘訣を学ぶことを望んでいます。そして、少なくとも最後の数年の間、私の名が地獄で恐れられることを望みます。