もっと効果的な武器の必要性?

明確なキリスト教の教えを求める訴え

メアリー・マクドゥーノフ

勝利者誌 一九二九年 十巻 四月号 掲載。「神の贖いの御計画」の著者による。

今日、根本主義と近代主義との間の戦いにより、多くの眠っていたクリスチャンは目を覚まし、戦いに積極的に参加するために武器を身に着けています。この事実にもかかわらず、根本主義は破壊的な近代主義の教えに対して勝利を勝ち取っていません。近代主義の教えが大いに嘱望されているのです。

聖書学校、訓練授業、福音活動、預言的会議、根本主義的大会が増えた一方で、依然として、私たちの若者のかなり高い割合が近代主義の教えの巧妙な誤謬によって支配されている事実は残ります。

根本的に正しい構造をしていて、その訴えが真に福音的である教えの弱点を私たちが見つけようとしているのは、批判的精神からではありません。そうではなく、もっと首尾よく今日の誤謬と戦える教えの方法を見つけようという誠実な試みなのです。

五十年前に良い結果を得られた諸々の方法は、私たちが生きている時代には十分ではないことを覚えておかなければなりません。新たな形の誤謬、新たな危険、新たな状況により、昔ながらの真理を提示する新たな方法が必要です。ですから、聖書を教える今日の方法のどこに欠け目があるのかを見いだそうと努めることにしましょう。

注意深く調べると、第一の失敗は、決定的真理の客観面を示すときの明確性と的確性の欠如であることがわかります。聖書教師らが、数学教師の明確さで、霊的真理を示すようになりさえすれば、私たちの若者は、私たちの総合大学や単科大学でさらされている、巧妙で致命的な誤謬に抵抗できるようになるでしょう。

宗教上の真理を教えるとき、私たちは一組の定理を用意しておく必要があります。それらの定理は明確に定義されており、知性に訴え、抗しがたい力で納得させるものでなければなりません。これを行うなら、聖霊は御業をなしてくださる、と私たちは聖霊に信頼することができます。聖霊はこれを適用して、その結果、明確に知覚された客観的現実を主観的現実にしてくださいます。

霊的真理の定義は数学的真理の定義よりも不正確であってはなりません。私たちの若者は、罪、悔い改め、再生、永遠の命を、直線、球、角度、立方体の定義を教わる時のような正確さで定義できなければなりません。

罪とは何か?

クリスチャンの大多数に問いかけてみさえするなら、客観的真理に関する知的理解の大きな欠如がわかります。一つの例として、罪の問題を取り上げることにしましょう。大多数のクリスチャンは、罪の性質に関して、かなり不適切な認識を持っています。罪とは悪い行いを特にすることである、と彼らは思っているようです。しかし、行動を生じさせる姿勢について彼らは見落としています。有名な宣教士訓練施設を卒業したある宣教士は、最初の休暇の間、姿勢と行動との間の区別に注目しました。その時まで、自分は単数形の罪sin)と複数形の罪(sins)の違いを見ていなかった、と彼女は告白しました。どうして、一ヨハネ三・四(改訂訳)「罪とは不法です」に見られるような、罪に関する霊感された定義を、私たちの若者に教えてはいけないことがあるでしょう。不法とは「神の権威に対して、意図的に熟慮して逆らうこと」であり、この姿勢の現われが複数形の罪sins)です。さらに、罪の起源は人の創造の数千年前であることを示すなら、私たちの若者は、「罪とは死すべき人の知性の思い込みである」という非合理的な教えによって欺かれることはないでしょう。

この明確さの欠如は聖書教師だけでなく福音伝道者にも言えます。私たちの福音伝道の方法は、悲しむべきことに、強固な客観的根拠の提示に欠けています。再生されていない人への訴えかけは、知性や意志に対するものというよりは、感情に対するものです。このように薄弱な客観的基礎に基づいて真理の主観的面が示されているため、その結果として多くの偽物の回心が生じている一方で、真に再生された人々は、正常な成長、罪と自己とサタンに対する経験的勝利のための十分な基礎を持っていません。キリストは何者か、彼を受け入れることは何を意味するのか、どうして彼の命が必要なのかを明確に示される前に、人々はキリストを受け入れるよう促されます。彼らは「主に従う」ように、「イエスのもとに来る」ように、「キリストの側に立つ」ように、「クリスチャンになる」ように、云々と求められます。福音の物語の上っ面しか示されていないのにです。思慮深い人々は、実際に嫌悪感を抱くほどではないにせよ不満足感を抱いて、決定的な真理のこのように貧弱な提示に対して背を向けています。そしてその結果、彼らは容易に現代の説教者の似非科学的教えの餌食になってしまいます。

私たちが認識する必要があるもう一つの弱点は、聖書の科学的正確性を示すことに私たちが失敗していることです。それにより、近代主義者は進化論という巧妙な毒を人々の心に注入する絶好の機会を得ています。クリスチャンの教師たちが、「聖書が科学を教えているとは期待してはならない」「聖書は科学の教科書ではない」と言うのを、私たちは何度聞いてきたことでしょう。

このような話の結果はきわめて悲惨です。それにより、神が書き記された御言葉――それだけがまさに科学の教科書です――の信用は貶められてきました。現代の科学の教科書は、新しい発見があるたびに改訂されますが、聖書はそれらの発見を数千年前に予想していたのであり、私たちの科学者たちは、神の創造の御業という偉大な宮の外庭に、のろのろと、骨を折って、近づきつつあるにすぎません。聖書の科学的記述を私たちが認識・解釈しそこなったせいで、生徒は不可知論者の大学教授の魅惑的な教えによって誤導されています。実に、大学に入るずっと前に、私たちの若者は聖書の記述を信用しないよう教わっているのです。そして、神が書き記された御言葉は、科学的見地から、時代遅れの本と見なされています。

多くの根本主義者は、創世記第一章の科学的記述を正確に解釈しそこなったせいで、有神論的進化の教えに地歩を譲っています。悔やまれることに、多くの聖書教師は、この章の二節は混沌とした原初の諸元素の塊を示しており、その中から神は創造されたのである、と理解しています。神の命令によって空間に送り出された原初の地球と損なわれた地球とを区別しそこなったせいで、大混乱が生じたのであり、聖書と科学との間の溝を広げるのに一役買ったのです。創世記一・二のロザハム訳は、この二節の最初の句は私たちの天体系が経過したきわめて恐るべき大変動を示していることを理解するのを助けてくれます。

この翻訳ではこうなっています、「さて、地は荒廃し、また不毛になり、そして暗闇がうなる深淵の面にあった」。バートリは彼の素晴らしい本、「創造の物語」の中で、この大混乱について記して、こう述べています。

「最初の創造と、二節の混沌についての記述との間に、宇宙的破局、世界の恐るべき大混乱が起きた。それによって、われわれの地球が粉々に砕かれただけでなく、われわれの太陽系も位置が変わって、地球と混ざり合い、そして、世界全体が異なる諸元素からなる混乱した塊、暗く、荒廃した、形なき混沌となったのである。」

他の科学者たちも同じような物語を私たちに告げます。聖書教師や神学者は、自分の顧みの下にある人々に、知る必要がある諸々の科学的事実を知らせるといいでしょう。神学の生徒は、原初の地球、損なわれた地球、再構成された地球、そしてまたノアの時代の大洪水の結果である地形学的大変化に関する真理を教わるなら、自分の聖書を投げ捨てたりしないでしょう。

調査を続けるなら、私たちの現在の教えの方法の根本的間違いは、私たちが福音を示すとき、生物学的原則を適用していないことであることがわかるでしょう。私たちの学校や大学の生徒たちは、生物学的路線に沿って注意深く訓練されています。彼らは生命の様々な水準を区別するよう導かれており、様々な生命の諸原則の顕現に精通しています。しかし、彼らが宗教的真理の教えを聞く時、彼らは創造された人の命神の非受造の命との違いを理解するようには導かれません。その結果、新生はその深い意義を奪われ、罪深い人類のための神の偉大な贖いの計画は矮小化されています。

人の創造された命と神の非受造の命とを明確に区別しそこなっているせいで、無数の誤った体系が生じ、多くのクリスチャンに大きな苦難をもたらした、と言ってもいいでしょう。

命の二つの水準

長年にわたる一定期間の調査により、ある事実が明らかになりました。その事実は、驚くほど少数のクリスチャンしか実際に知っていませんが、再生の瞬間に人の霊の中に入る命の性質に関するものです。命よりも経験がクリスチャンたちの前に示されており、その結果、永遠の命の性質に関して彼らの心中に多くの混乱が生じています。そのため、型への同形化はほとんど不可能になっています。この問題はさらにずっと深刻です。なぜなら、永遠の命の不変性を認識しそこなっているせいで、多くのクリスチャンは、自分はこの命を失ってしまったと考えて、心の平衡を失ったからです。他方、多くの人は心の中で汎神論的観念をもてあそんでおり、そのせいでキリストの贖いの御業の結果を認識・取得することを妨げられています。

近代主義者は私たちに言います、「キリストが来られたのは、人はみな神の子供であることを教えるためである」と。このような発言から次の事実がわかります。すなわち、近代主義者は、生命のより高度な水準と関係している生物学的原則を、すっかり放棄しているのです。生物学的に、神の子供は神の命を持たなければなりません。そして、この命を選んだ者だけが生物学的に神の子供です。近代主義者の理屈によると、「神はご自分のかたちに、ご自分の姿にしたがって、人を造り」「人の鼻に命の息を息吹き込まれた」ので、それによって、人は神の子供に構成されたそうです。生物学的に、このような理屈の誤りがわかります。神の命は創造されませんでしたが、人の命は創造されました。ですから、これは二つの異なる命の水準を示しています。神は人の中に人の命の原則を息吹き込まれましたが、人は、神の子供になるには、自分の選択する力を用いなければなりません。この選択する力を用いる必要性については、ヨハネ一・十二とガラテヤ三・二六に示されています。これらの節は生物学的原則を示しています。最初のアダムは、神の子供となるために、神の命を選ぶ必要がありました。創造によって彼が受けたのは、可能性としての子たる身分だけだったのです。

根本主義者は新生の必要性を認識していますが、近代主義者は認識していません。しかし、根本主義者が「キリストが来られたのは、失われた子たる身分を回復するためである」「神は最初の人の中にご自身の霊を息吹かれたのである」「人は罪を犯した時に神の命を失ったのである」「私たちは彼に従い続けるかぎりは神の子供である」と言うなら、それは非論理的ではないでしょうか?あらゆる方面で耳にするこうした発言から、生物学的観点からの教えの欠如がわかります。そしてその結果、人々は、アダムは神の子に創造されたこと、彼は罪を犯した時それを失ったが、キリストが来臨して失われたものを回復してくださったことを信じるように導かれています。神の贖いの御計画を、平均的クリスチャンが完全には理解していないのも驚くにはあたりません。このような発言をしている教師たちが、自分たちがいかに非論理的であるのかに気づいていないのは、驚くべきことです。もしアダムが神の子供に創造されていたなら、彼は自分の選択力をあのように用いていなかったでしょう。また、もし彼が神の子供だったなら、彼の霊の中には非受造の神の命があったにちがいなく、それゆえ彼は、罪を犯した時、彼の子たる身分を構成していた神の命のこの度量を失ったにちがいありません。あるいは、神の命は不変なので、神の命のこの火花は、彼の罪にもかかわらず、彼の人霊の中にとどまったにちがいありません。もし神の命が彼の霊の中にとどまっていたなら、彼には新生の必要はありません!さらに、私たちも、再生の時に私たちの霊に入る非受造の(永遠の)命を失うおそれがあることになりますし、義とされていても、はたして栄化されるかどうかは定かではないことになります!ああ、神は明確にこう宣言しておられるのに、多くの子供たちはなんと混乱していて、悲しげなのでしょう。「私がこれらのことを、神の御子を信じているあなたたちに書き送ったのは、神の御子の御名を信じているあなたたちが永遠の命を持っていることを、あなたたちが知るためです」(一ヨハネ五・十三)。

今日、私たちは聖書を教えることに失敗していることに短く触れたので、決定的真理を生物学的観点から、公理的明確さをもって、また、聖書の科学的記述にしかるべく注意を払いつつ、教えることによって実現された成功について述べることにしましょう。この方法が用いられる所はどこでも、(1)生命の起源について、(2)命の諸々の水準について、(3)贖いの真理の全体像について、(4)神の御言葉の決定的真理を適用される聖霊の御業について、明確に認識されるようになります。その結果、信者は土台づけられて安定するだけでなく、今日の誤った教えという課題を対処するために神に用いられるようになります。このような聖書の学びの方法を採らないかぎり、その価値はわかりません。このように教えるなら、強固なクリスチャン的性格が形成されるだけでなく、知的に未信者たちを追い詰めることにもなります。そして、知性をとらえるような形で決定的真理を示すことによってのみ、私たちは今日のいわゆる知性主義を首尾よく対処することができます。人々は、知的に選択して霊的に理解することができるようになる前に、知的に理解するよう導かれなければなりません。

多くの思慮深い人々は嫌悪感を抱いて非論理的な聖書の教えに背を向けていますが、生物学的観点から彼らに福音を示すなら、そのような嫌悪感は消え去るでしょう。そして、真理を理解した多くの人は、その力に降伏するでしょう。

結論として、今日の深刻な状態のゆえに、誤謬との戦いに役立つ武器はなんでも、どれでも握るよう、私たちは促されないでしょうか?私たちは喜んで、自分の錆びた火打ち石銃を最新のライフル銃と交換するでしょうか?