彼の魂の苦しみ

メアリー・マクドゥーノフ

勝利者誌 一九四六年 二七巻 十月号 掲載

彼はひどく悩み、大いに悲しんで、彼らに言われた、「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりです………。」(マルコ十四・三三~三四)

奇妙な言葉です、これをイエスが述べられるとは!これは何を意味するのでしょう?「わたしの魂はひどく悲しく、死ぬばかりです」。三人の弟子がこの言葉を耳にしましたが、その意味を理解しそこないました。彼らは彼の苦難にあずかれませんでした。イエスはゲッセマネで独りぼっちです。

ルカ二二・四一、「彼は、彼らから石を投げて届くほどの所に退き、ひざまずいて祈り、こう言われた、『父よ、みこころでしたら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの意のままではなく、あなたのみこころが行われますように』。イエスは苦しんで、ますます切に祈られた。大きな血の汗が地にしたたり落ちた」。

彼が御父に取り去ってくださるよう求めた「この杯」とは何だったのでしょう?目前の十字架刑にしりごみされたのでしょうか?確かにちがいます。なぜなら彼は弟子たちに、彼は罪のためのささげ物――世の罪のためにほふられる神の小羊――として十字架につけられて殺される、と告げておられたからです。かりに彼が十字架からしりごみされたのだとすると、剣や炎を喜んで迎えた殉教者たちよりも勇気がなかったことになります。では、自分から取り去ってください、と彼が祈られたこの杯は何だったのでしょう?

この血の汗は私たちに次のことを告げます。すなわち、彼の苦難はとても苦しかったので、彼の心臓はこの激しい圧迫の下で破られつつあったのです。それが意味するところを彼はご存じでした。では、ゲッセマネで死ぬことがありませんように、と彼は祈られたのでしょうか?ゲッセマネの園で死ぬことを恐れて、その杯が取り去られるよう祈られたのでしょうか?いいえ、彼は自分がカルバリの十字架上で死ぬことをご存じでした。それ以外の場所で死ぬことはありえませんでした。では、この杯とは何だったのでしょう?

イエスの人性は、霊・魂・体の三部分からなるという点で、人類を構成する一人ひとりの人と似ていました。霊は神意識の座であり、魂は自己意識の座であり、体は感覚意識の座です。魂は感情の座であり、精神的に私たちの感情は私たちの霊と体の力に影響を及ぼします。

イザヤ五三・十~十二には、この罪を担う方の魂について三回言及されていることがわかります。「あなたが彼の魂をのためのささげ物とされる時」。「彼は自分のの苦しみを見る」。「彼は死に至るまで自分のを注ぎ出した」。

ゲッセマネの園で、大昔に述べられたこれらの言葉が成就されました。魂のこの苦しみの原因がこの章の六節に示されています、「主は、私たちすべての者の罪科を彼に負わされた」。

すでに述べたように、「死とは、周囲との交流の途絶」です。人類は罪のせいで神に対して死にました。そして、この死をイエスは今や、身代わりになって経験しなければなりません。人類の罪という大きな山が、彼の御父の御顔を遮ろうとしていました。「わたしはあなたのみこころを喜んで行います」と言われた方は、今や、神のみこころに対する反発――これが罪人の特徴です――を感知されました。今や、感情は神のみこころに対して無反応です。この魂の苦しみにより、彼の霊は曇らされ、彼の体に死がもたらされました。それでも彼は、「父よ、あなたのみこころが行われますように」と祈ることができました。そして、この祈りはかなえられました。しかし、この杯が取り去られますように、という彼の祈りがなぜかなえられなかったのか、私たちは今や理解できます。というのは、彼は私たちの杯から飲んで、すべての人のために死を味わっておられたからです(へブル二・九)。神の贖いの計画が執行されつつあったのであり、それは完全に成就されなければなりませんでした。

御使いが天から遣わされて彼を力づけた、と記されています。そして、彼は地面から立ち上がって、逮捕、不当な裁判、冷酷な嘲り、鞭、十字架を耐え忍ばれました。

彼の魂の中で苦しみが増し加わっている間、神は遥か遠くにおられるように思われました。彼は「父よ」と言うことができましたが、今や、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか?」という罪深い人類の叫びをあげることしかできません。十字架にかかった殉教者?ちがいます。十字架の上にいたのは、聖なる神から分離された罪深い人類だったのです。これは罪人に対する刑罰であり、それを神の神性は担うことができませんでした。イエスの罪なき人性がこの刑罰を担ったのであり、神・人として、その下から脱出することができたのです。しかし、もし彼が人間の父親の子だったなら、この死に彼は巻き込まれて、復活していなかったでしょう。そして、神は決して「多くの子を栄光に導いて」おられなかったでしょう。

少しして、「成就した」という大きな勝利の叫び声が、十字架上の方の口から発せられました。彼は「すべての人のために死を味わ」われました。そして、神の贖いの計画は完全に執行されました。霊の暗闇は今や過ぎ去り、今や、「父よ、わたしのをあなたの御手に委ねます」(ルカ二三・四六)と言うことができます。贖いの御業が成就されるまで差し止められていた肉体の死が、今や体に臨みます。

十字架刑による死は、ゆっくりした時間のかかるものなので、ユダヤ人はピラトから、十字架上の三人の死を早める許可を受けました。兵士たちが来て「一人目ともう一人の足を折った(中略)しかし、イエスの所に来て見ると、すでに死んでいたので、彼の足は折らなかった。しかし、兵士たちの一人が槍で彼の脇腹を突いたところ、そこから血と水が流れ出た」。ここに彼の死因に関する検死結果が示されています。血清と凝血塊が分離していたことは、磔の前に心臓が破裂していたことを明らかに示しています。何がこのような状態を引き起こしたのでしょう?サタンの支配下にある人類の罪を担うことによって引き起こされた致命的苦しみです。これ――聖なる神からの恐るべき分離――に私たちは値したのです。

その後、体は十字架から取り降ろされて墓に安置されました。彼の所にやって来た人々を優しくご覧になった両目は、死んで閉ざされています。らい病人や盲人に触れた両手、幼子たちを祝福してその頭の上に置かれた両手は、血の気がなく、冷たくなっています。「わたしは復活であり、命です」と語られた口は、閉ざされて沈黙しています。

ナザレのイエスが三十三年間その中で生活された肉体は死にました。しかし、彼の内なる命は永遠であり、死ぬことはありえません。それゆえ、三日目に、神の永遠の霊が命の失せた体の中に入って、その体の細胞はすべて神の非受造の(永遠の)命で満たされました。彼の体は今や栄化されました。もはや肉や血の体の制約下にはなく、自然法則のあらゆる制約から自由です。彼の魂と霊の無限の能力にふさわしい幕屋です。もはや重力によって地に縛り付けられておらず、彼が昇って行って、雲がその姿を視界から隠すのを、人々は目にしました(使徒一・九)。このようにイエスがサタンに属する敵地を通って昇って行かれたことは、サタンに対する彼の完全な勝利の証拠です。

最初のアダムは選択力を誤用することにより、知らず知らずのうちに、人類をサタンの支配下に渡してしまいました。そしてこの横奪者の君は、それ以降、自分を人類の支配者、「この世の神」と見なしてきました。

ご自身の贖いの御業について熟考することにより、イエスはサタンが支配権を維持することに完全に失敗することを予見されました。自分がサタンとすべての敵を完全に打ち負かすことをご存じでした。ですから、彼は確信をもって、「今、この世の君は追い出されます。そしてわたしは、地から上げられるなら、すべての人をわたしの所に引き寄せます」(ヨハネ十二・三一、三二)と宣言することができました。キリストが高く上げられたことは、横奪者が投げ落とされたことを意味しました。イエス・キリストは、サタンとその軍勢を征服されました。それは、十字架によって彼が彼らに勝利して、彼らを「公然とさらしもの」にされた時のことでした。

空中と星々の天を通って、イエスは勝利のうちに高く昇られました。ガリラヤ人――カルバリの人――は今や「栄光の人」です。そして、彼の栄化された人性は、神の子供たちもいずれそうなることを約束するものであり、その保証なのです。

注:この記事はM.E.マクドゥーノフ夫人の新しい小冊子からの抜粋です。その小冊子は、学びのための時間をあまり取れない人でも簡単に読めるような形で、彼女の著書「神の贖いの御計画」の中から、伝道者や教師のための題材を提供することを目的としています。英国版は「贖いの物語」という表題で出版されており、詳細は書籍一覧に記されています。アメリカの読者は著者(Mrs. M. E. McDonough, 106, Sewall Avenue, Brookline 46, Mass., U.S.A.)から直接入手することができます。彼女はそれをアメリカで、「神が行えなかったこと――神がなさったこと」という表題で出版されました。