勝利者誌 一九四二年 二三巻 四月号 掲載
この経綸の終結の時代における霊的戦いは、祈りの戦いに似ているかもしれません。それに関して、現在の世界大戦には類似点が多々あります。
徐々に、しかし、確実に、諸国民は次の事実を理解するようになりました。すなわち、征服と隷属を狙う残忍で強力な暴君に抵抗して勝利しなければならない、という事実です。敵の存在と狙いを認識することにより、人々の用意は整いつつあります。究極的勝利を目指しつつ、防衛手段が講じられ、攻撃的な戦争計画が立てられています。
同じようにクリスチャンたちも、悪意ある強力な敵が神の民を抑圧・征服しようとしていることに、徐々に気づきつつあります。サタンのことを筆舌に尽くしがたい苦しみを人類に与える人格的存在と見なすことを嫌がっていた多くの人々が、今や、彼の存在とその使者どもの活動を痛感しつつあります。しかし、彼に首尾よく抵抗するよう整えられているクリスチャンは比較的少数であり、彼らでも彼に打ち勝つにはほど遠いのです。この失敗は、敵の狙いを彼らが認識していないという事実によります。クリスチャンたちはこの戦いの性質を理解していません。彼らは自分たちの痛ましい試練と、世々にわたってクリスチャンたちが個人生活の中で経験してきた誘惑とを、混同しています。現在の霊的戦いは終わりの時に特有のものであることを、彼らは理解していません。今や、人の時代は終わりに近づきつつあり、新しい時代が私たちの主イエス・キリストによってもたらされようとしているのです。
敵はあてもなく戦っているのではないことを思い出す必要があります。彼には明確な狙いがあります。賢明に、根気強く、敵に抵抗するには、そして、最終的に敵に打ち勝つには、この狙いが何かを知らなければなりません。この狙いを理解しそこなっているのは、次のことを私たちが明確に認識してこなかった事実によるのかもしれません。すなわち、(1)私たちの生まれつきの先天的地位、(2)非常に広範に及ぶ罪の諸々の結果、(3)キリスト・イエスにある私たちの新しい地位、です。
エデンの園に戻ると、そこで主なる神は新しく創造された夫婦に――主権(dominion)――を与えられました。人は王として、もしくは、支族の皇子として創造され、慈悲深く統治するための権威を着せられました。ただしそれは、人が創造主に拠り頼み続けるならばのことでした。子たる身分のための備えもなされました。アダムは神の非受造(永遠)の命のための器官である霊を持つよう創造されました。また、彼はこの命を選ぶ力も与えられました。これによって彼は、真に生物学的な意味で、神の子供になれるはずでした。神の子供となって、永遠の御子なる神の命を持ち、神から賜った主権を彼に拠り頼みつつ行使することにより、私たちの始祖は、サタンが地上に拠点を得るのを阻止することができたはずでした。ああ、彼らは神の命を選びませんでした。アダムとエバは神の命を得ませんでした。それゆえ、サタンが私たちの始祖を支配することに成功したのです。また、彼らを通して、全人類を支配することに成功したのです。
彼らが罪を犯した時、彼らは創造された人としての義しさだけでなく、主権をも失いました。こうして、サタンの奴隷となりました。この時から、サタンは自分のことを人類の支配者、「この世の神」と見なすようになりました。他方、人類は、自分自身の努力に頼っているかぎり、聖なる神から永遠に切り離されたままでしょう。このように人類が神に対して完全に失われたために、新しいアダム、すなわち代表人たる方が、この世に遣わされなければなりませんでした。それゆえ、ご自身の時に神は、一人のユダヤ人の処女の物質的器官の中に、新しい人の生命原理を創造されました。そして、新しい代表人たる方――最後のアダム――が世に到来して、ご自身の内側で非受造(永遠)の神の命と罪なき人の命とを結合されたのです。
カルバリで複数形の罪、単数形の罪、罪の諸々の結果、罪に対する刑罰が、私たちの主イエス・キリストの上に科せられました。人類の罪の問題はそこで永遠に決着がつきました。キリストは「すべての人のために死(神からの分離)を味」わわれました。それは、彼の罪なき勝利の命を選ぶ者はだれでも、神の子供になれるようになるためでした。これは、解消不能な神との出生関係を意味します。また人の代表として、キリストはサタンに勝利して、彼が横取りした人類の支配者としての地位から彼を追放されました(ヨハネ十二・三一、コロサイ二・十五、へブル二・十四、十五を見よ)。
彼の命を現わす力
キリストは、最後のアダムとして、神の贖いの素晴らしい計画を 完全に執行されました。彼は、人類のすべての構成員が神の子供そして栄化された子になれるようにしてくださいました。人がなすべきことはただ、キリストが自分のためにしてくださったことを取得して、彼の栄光のためにそれを現わすことだけです。言い換えると、クリスチャンがなすべきことはただ、キリストにご自身の命を生きてもらって、自分の霊・魂・体――自分の三部分全体――の力になっていただくことだけです。これが昇天前の彼の最後の御言葉の中に示されています、「聖霊があなたたちの上に臨む時、あなたたちは力を受けます。そして、あなたたちはわたしの証し人となります」。ペンテコステの日に、聖霊が「キリストの別人格」として注がれて、この経綸全体にわたって、一人一人の神の子供の命・力となられました。こうして、各々のクリスチャンはキリストの証し人になれるようになったのです。これは次のことを意味します。私たちは自分の生活の中で、罪、自己、サタン、死(病は死の始まりです)に対する勝利を再現しなければならないのです。他方、携え上げはこの勝利の信仰生活の結果です。
サタンは知っているのです、贖われた人類の一団が、最後の敵である死に打ち勝って携え上げられる時、自分は空中にある自分の場所から追放され、地に投げ落とされて、縛られることになることを。これを彼は恐れています。これに対して彼は戦います。これこそ現在、彼が激怒している理由です。人類史の中に、このような戦いはこれまでありませんでした。しかしこれは、神の真の民が勝利する結果になる戦いです。黙示録十二・十一にはこうあります、「彼らは小羊の血と、彼らの証しの言葉によって、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで自分の命を愛さなかった」。
今、次のことがわかります。上へと招く召しに応じる用意をするには、「栄光の中におられる人」と自分は一体化されていることを知ること、そして、毎瞬、彼の内住の命に拠り頼むことが必要なのです。
サタンは、キリストが自分を打ち負かしたことを知っています。というのは、敗北した時、彼は「公然とさらしもの」(コロサイ二・十五)にされたからです。しかし彼は、キリストの勝利には自分の地位を変える力がある、と認めることを拒みます。自分は人類の支配者である、と見なし続けます。そして、このような手段により、自分の敗北について人類を無知な状態に保つことに成功しており、依然として人類を支配しています。私たちは、主の命を絶えず現わすことにより、自分が勝利の主と一体化されていることを実証しなければなりません。これが私たちの戦いの原因なのです。
クリスチャンが自分に打ち勝つのを妨げようとするサタンの働きの方法を、私たちは理解する必要があります。私たちの主イエス・キリストの贖いの御業に関する諸々の事実について、クリスチャンたちを無知な状態に保つために、彼はあらゆる方法を試みるだろうことを、私たちは知らなければなりません。彼は策略を巡らせて、彼らを逸らして狂信に陥らせようとします。恐怖心や不安心を煽ろうとします。落胆させようとします。彼らの体を弱めようとします。自分に許されていることを何でもしようとします。それは、クリスチャンたちが、キリストの勝利の命によりキリストと一体化されていることを理解して体現するのを妨げるためです。しかし、彼は失敗する定めにあります。なぜなら、聖霊は小さな群れを備えつつあるからです。彼らは主が勝利されたように勝利して、主と共に主の御座に座します。
私たちは私たちの戦いを祈りの戦いとして述べていますが、これはまさにそのとおりです。しかし、祈りは一つの姿勢であることを、私たちは理解する必要があります。時として、この姿勢を声に出して表明することもありますが、絶えず聖霊の祈りが私たちの人の霊を通してなされています(ローマ八・二六)。「キリストが私の内に生きておられる」ことの深い意味を私たちは知る必要があります。彼が私たちの霊の中で祈っておられるのです。彼が私たちの精神力を強めてくださっているのです。彼が彼の愛と彼の忍耐を私たちの内で現わしてくださっているのです。彼が私たちの体を生かしてくださっているのです。彼が、私たちの意志を強めて敵に抵抗させることによって、敵の力をすべて征服しておられるのです。私たちは彼にこうしてもらわなければなりません。彼は私たちに代わってこれを行うのではなく、ピリピ二・十三にしたがって、私たちにあってこれを行われるのです。
この世界大戦では、軍事作戦が成功した結果、敵の弾薬や武器は破壊されました。同じように、私たちの大敵は、私たちの唯一の武器である「御霊の剣」(それは、神が語られたことです)を私たちから奪おうとします。神の約束はどれも攻撃を受けます。明け渡している神の子供が約束をかなえてもらおうとするとき、その約束が示す真理を、サタンはことさらに否定するようなことはしません。御言葉の意味について、その実際的適用に関して、巧妙に疑義を呈します。「約束に基づいて行動したら、やりすぎてしまうだろう」と私たちに信じ込ませようとします。「お前たちは狂信的になるおそれがある」とほのめかします。この戦いに積極的に関わっている神の子供はみな、敵の反対によって引き起こされる苦難を知っています。敵は、神の子供が神の約束を真に信じて、それに基づいて行動するのを妨げます。次のことを思い出す時、なんと安心することでしょう。神の約束の上に立つことを選ぶとき、私たちは私たちの主の信仰にあずかることができるのです。これにより、私たちはそれを行って、彼に栄光を帰せるようになります。
また、国々の民は苦難を通して次のことを学びました。すなわち、共に立って、団結して戦線を維持しなければならない、ということです。霊の戦いにおいて、クリスチャンたちは同じ教訓を学びつつあります。個々の戦士が敵の特別な標的にされてきました。そして、敵の攻撃によって多くの被害を受けてきました。なぜなら、ほとんど一人ぼっちだったからです。今や、一丸となって取り組む必要性に彼らは気づいています。そして、霊の中で引き寄せられて集まりつつあります。これにより、いっそう大きな勝利が表されることになるでしょう。多くの祈りの戦士たちはこう信じています、聖霊が勝利者の群れの構成員たちを結び合わされる時、キリストの勝利の力が著しく現わされるだろう、と。まことに私たちはこれを願います。そのために祈ります。言葉では表現できないほど願っています、どうかキリストがご自身の勝利者たちによって、ご自身の魂の苦しみの結果をご覧になりますように、と。この勝利者たちは、昨今の波乱に満ちた時代に、彼の証し人になることを選んだ人々です。現経綸の始まりは、目に見えないものの顕現によって特徴づけられていましたが、キリストの栄光をその民の生活によって表しました。この経綸の終わりにあたって、彼の霊のからだの肢体たちにおいて、また、彼らを通して、彼の命がますます大きく現わされてしかるべきではないでしょうか?私たちの内にある彼の造り変えの力による漸進的な御業により、いずれ、私たちのこれまでの理解を超えた、彼の命のいっそう大きな現れ――私たちの栄化の前味わい――があってしかるべきではないでしょうか?
彼は今日、ご自身のシメオンたちやアンナたちを持っておられる、と私たちは信じます。また、彼らの内側にある彼の命により、彼らの霊・魂・体は主の来臨の時に責められる所のないものにされつつある、と私たちは信じます。さしあたって、敵の攻撃はみな、自分たちの主の勝利の力を表す機会である、と彼らは見なします。
この戦いのさなかにある一人一人の戦士に言いましょう、「主の中で、また、彼の力強い大能の中で力づけられなさい」。「自分自身を聖別しなさい。明日、主があなたたちの間で不思議なことを行われるからです」。