「キリストの血による保護を取ること」についての光

ジェシー・ペン-ルイス

勝利者誌 一九二九年 十巻 十月号 掲載。

今年の「スワンウィック」集会で、「血の保護を取る」とは何を意味するのか?という質問がありました。小冊子「霊的危機」からのこの抜粋は、この句が示すキリストの成就された御業という事実を明確かつ知的に把握せずに、この表現の使用に信頼することの危険性を示しています。この主題についてのさらなる光は「十字架と血」という小冊子の中に与えられています(本の一覧を見よ)。

サタンとその使いどもの大きな狙いは常に、神のふりをして、神だけにささげられるべき礼拝を受けることです。心霊「現象」はみな、目的のための一つの手段にすぎません。すべての時代にわたってサタンが働いてきた究極的目標――それは彼の野望の頂点です――は、自ら「神の宮に座して、自分を神として公に示す」(二テサロニケ二・四)ことです。

ギリシャ語学者の指摘によると、原文では、英語で「宮(temple)」訳されている、異なる二つのギリシャ語があります。一つは、宮の建物と庭から成る外側の宮を意味します(ヨハネ二・十五~十六)。第二はナオス(naos)で、内側の宮、神の住まいです。この後者の言葉を、キリストはご自身の体の宮について使っておられます。またパウロは、キリストの肢体たちは神の宮であるというふうに使っています。とても意義深いことに、使徒が二テサロニケ二章で使っているのは、この「ナオス」という言葉です。これは、「罪の人」が自ら座そうと企てるこの「宮」は信者の体の「宮」であることを示しています――というのは、再生されていない人は決して「神の宮」とは言えないからです。主のパルーシア(再臨)直前の時は、ですから、彼の奥義的からだの肢体たちにとって、きわめて危険です。彼らに対してサタンは狡猾さのかぎりを尽くします。「神の宮」の中に入るために、彼は「力と、しるしと、不思議」のかぎりを尽くして、「自らを神として公に示し」ます。ですから、彼は信者を欺いて、彼を「神」と信じさせなければなりません。それ以外の方法では、サタンは信者に自分を礼拝するよう納得させられません……。

奥義的な「罪の人」(三節)として霊的に働いているサタンが、このように、神の真の子供であり、「神の宮」を構成している多くの人を欺いて、彼らから礼拝を受けるようになるときはじめて、受肉した「罪の人」(八節)――一人の人でもある反キリスト――が現れて、主の来臨の出現によって滅ぼされます(二テサロニケ二・八~十)。

今日の増大した危険のゆえに、また、「選民すら欺こうとする」悪魔の狙いに関してマタイ二四・二四で主が前もって示された警告のゆえに、神の子供はみな大いに「目を覚まして祈」らなければなりません。どんな種類の超自然的顕現でも、それに接触する人は、それが集会中であれ、個人の祈りのときに突然生じたものであれ、サタンに警戒する必要があります。サタンは光の天使として働いており、神だけにささげられるべき礼拝を得るために「自らを神として公に示」そうとします。「すべての霊を信じ」てはなりません。むしろ、悪しき者からのように見えるすべての霊だけでなく――神からのように見えるすべての霊についても「試」さなければなりません。

「その血(the Blood)」の意味

ここで、どうやって?という疑問が生じます。一ヨハネ四・一~四は、ある人を通して話している「霊」を試す方法について示しています。多くの人は、すべてのものやすべての人を「その血の下」に置けば十分に保護してもらえる、と思っています。しかし、そうではありません。「血」という言葉は、この言葉を使用する背景に在る何らかの霊的事実を信じる信仰を表明するものでないなら、他の言葉と何ら変わりません。「十字架」という言葉についても同じです。話す人が、カルバリの成就された御業から離れて、「血」や「十字架」の働きに信頼しているなら、両方とも無価値です。

「血」という言葉と「十字架」という言葉が表す霊的事実は、カルバリにおける私たちの主イエス・キリストの贖いの御業です。超自然的顕現の背後で働いているすべての悪霊から守られるのは、カルバリの十字架のあらゆる意義に信頼することによります。(例、一ペテロ二・二四、ローマ六・六、コロサイ二・十五)。多くの例を挙げることができます。次の例はその一つです。

ある信者が、きわめて大きな力で「顕現」が生じている集会に出席しました。その信者は、「主よ、私はここで起きていることから、キリストの贖いの十字架を通して来るもの以外、何も受け取りません」と絶えず祈っていました。来る日も来る日も、しばらくの期間行われたすべての集会で、この信者はこのように祈りました。そして、「神からの」ものなら何でも受けようと熱望していたにもかかわらず、「恍惚状態」も「異言」も彼女に臨まなかったのです!なぜでしょう

「その血」は「肉」を防がない

しかし、なぜ「血」への訴えは常に効果的とはかぎらないのでしょう?次の理由のためです。カルバリで流された「キリストの血」を聖霊は「肉」を「防ぐ」ために適用されることは決してないのです。肉は罪に定められてカルバリで十字架につけられました。その「血」が守ってくれるのは、旧創造はキリストと共に十字架につけられたという立場に信者が立っている時だけです。これにより「肉」――その上でサタンは働きます――は十字架上で活動を停止します。過去の経験として、ローマ六・六にしがみついても無駄です。必要な時にローマ六・六が効力を発揮するには、「自分は今十字架につけられていると認めます。そして私は十字架の基礎の上に立ち、神は注ぎの血を適用して私を清め、守ってくださると信じます……」という姿勢を取らなければなりません。つまり、「私はキリストの贖いのすべての意義の上に立ち、カルバリを通して自分に臨んだものではない、不可視の領域からのものをすべて拒否します」という姿勢を取らなければなりません。

「その血」は「魂の力」を打ち消さない

しかし、防がなければならないのは「超自然的」な事柄だけとはかぎりません。霊どもに対して扉を開く、他の力も働いていますそれらの力は霊の武器によって影響を受けません。顕現を生じさせるために多くの方法が使われていますが、たとえば、(1)心霊主義の降霊会で使われている方法や、(2)磁化器や催眠術による方法があります。神は法則の神であり、ご自身の法則を破ったりはされません。ですから、特定の法則によって生じた結果から「守って」はくださいません。これらの法則にしたがって、オカルト現象が、知らずにそれに従ってしまった多くの人に起きた、という事実は無視できません。他方、他の人々についても、悪鬼どもが神経系に入り込んで、神の最も熱心な子供たちの体の中にまで大混乱を生じさせてきたことがわかっています。

「私たちは(サタンの)計略に対して無知ではありません」と使徒パウロは言いました。心霊主義の発達によって今日増大している危機に鑑みて、責任を担っている働き人たちは、純真な信者たちが直面している危機に無知であってはなりません。今、「超自然的」結果を得るために諸々の方法が使われていますが、それらの方法はキリストの十字架の敵どもが使っている方法と区別がつきません。働き人たちは、すべての人の中に潜在的力があることを知らなければなりません。これらの方法を使うことによって、それらの力が引き出されているのです。それらの力を悪霊どもは、神の御業を偽造するために使うのに必要とします。それらの力は、逆に、信者における聖霊の真の働きのために、休眠状態に保たれなければなりません。