キリストの裁きの御座

ジェシー・ペン-ルイス

勝利者誌 一九二七年 八巻 一月号 掲載

「なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの御座の前に現れなければならないからです。それは善であれ悪であれ、めいめいが体で行った事柄を受けるためです……。」(二コリント五・十)

この節の文脈からわかるように、使徒がここで述べているのは信者についてだけであり、報いの観点から信者の「働き」が検査されることについて述べています。スコフィールドは彼の注釈の中で、聖書は七つの「裁き」について述べている、と指摘しています――すなわち、(1)キリストの十字架における、信者の罪に対する裁き(ヨハネ五・二四、ローマ五・九、ローマ八・一、二コリント五・二一、ガラテヤ三・十三、へブル九・二六~二八、へブル十・十、十四~十七、一ペテロ二・二四、一ペテロ三・十八)。これにより私たちは、キリストの血によって除き去られた罪に対して裁かれることは決してありません。(2)信者による自分自身に対する裁き(一コリント十一・三一)。(3)信者の働きに対する裁き(二コリント五・十)。(4)キリスト再臨時の、生き残っている諸国民に対する裁き(マタイ二五・三二~四六)。(5)キリスト再臨時の、イスラエルに対する裁き(エゼキエル二〇・三七)。(6)キリストの千年間の地上統治後の、天使たちに対する裁き(ユダ六)。(7)千年王国後の、邪悪な死者に対する裁き(黙示録二〇・十一~十五)。

第一の裁きは、神の子供に関するかぎり、終わっています。信者による自分自身に対する裁きは、めいめいが日々大いになさなければなりません。次に残っているのは信者の「働き」に対する裁きであり、目下のところこれが私たちの懸案事項です。というのは、上へと召す召しを私たちが耳にして、昇って空中で主と会う瞬間、自分が彼の裁きの御座に召喚されていることに気づくからです。そこで私たちの「働き」はすべて検査され、報いを受けます。そして、地上に対する彼の千年間の統治のときに彼と共に統治するための地位の割り当てを受けます。

この裁きの御座の前に現れることについて、聖書には多くのことが記されています。その様々な節を一緒にするなら、「報い」と「地位」の多様性を垣間見て、自分の前途に関するかなり明確な観念を得ることができます。

信者の生活――これについて信者は裁きの御座で申し開きをすることになります――のいくつかの面を短く見ることにしましょう。

1.一般的な広い意味における「働き」(一コリント三・十二~十五)。

ここで、あらゆる種類の「働き」が火によって試される、と述べられています。もしそれが火に耐えるなら、信者は報いを受けます。もしそれが「木、草、刈り株」であることが判明するなら、それは燃え尽きます。信者は損失――自分のすべての働きに対する報いの損失――を被りますが、自分自身は「救われ」ます。この表現は人の「働き」と人の救いをまぎれもなく区別しています。働きは報われます(あるいは、場合によっては報われないかもしれません)が、救いは無代価の賜物であり、行いによらず(エペソ二・八、九)、キリストの死によります。

2.「タラント」つまり個人的能力(マタイ二五・十四~二三)。

このタラントのたとえ話は、裁きの御座の前における信者の絵図を、明確に私たちに示します。「タラント」の意味に対する鍵は、十五節の「能力」という言葉にあります。「タラント」は各々の僕に「能力にしたがって」与えられました。主人は各々の中にどんな能力が眠っているのか知っており、その「能力」の大きさに応じてタラントを預けたのです。清算の時に、各自が自分の「能力」をどう使ったのかが明らかになります。三つの事例が示されています。三人中二人は、それで「商売」することによって、つまり、あらゆる能力と機会を活用して、自分に委ねられたものを増やすことによって、自分の「タラント」を二倍にしました。三人目の人は全く「なにもしません」でした。彼には「能力」がありましたが、それを用いようとしませんでした。おそらく、自分に能力があるとは信じていなかったのかもしれません。「私の主人は私に無理なことを期待している」と彼は考えました。それで、彼はなにもしようとしませんでした。主人から期待されていることをすべて行うのは無理だったからです。

このたとえ話は、今、裁きの御座の前夜にある私たちに対する、含蓄に富んだ教訓に満ちています。しかし、今はそれを十分に見ることはできません。さしあたって重要な論点は、私たちは奮い立って「商売」しなければならない、ということです。地上における放浪の最後の瞬間まで自分の「能力」を使って、機会を最大限活用しなければなりません。

ローマ十二・六、七、八は、この「賜物」あるいはタラントの短い一覧表と、それらで「商売」する方法、それらを行使する方法を与えています。「しかし、どの『賜物』が自分に委ねられているのか、どうすればわかるのでしょう?」と尋ねる人もいるでしょう。神の子供よ、あなたの道にあるすべての「義務」を、あなたの「能力」を最大限活用して行う以外に道はありません。そうするときはじめて、自覚していない「能力」が明らかになります。これは、「あなたはわずかなものに忠実だった……」という主人の称賛から明らかです。したがって、これが永遠に「商売」する道です。

3.「執事職」もしくは信任(マタイ二四・四四~五一)

ここでは、信任された信者が示されています。しかるべき時に信者は、この立場に伴う義務をどう果たしたのかについて申し開きをしなければなりません。この「僕」は自分の主人の一家の上に立てられました。それは「定められた時に人々に食物を与えるため」でした。霊的に、これは、神の教会を養う任務を受けた人々にあてはまる、と一般的に言われています。しかし、これはもっと文字どおりに受け取ってもかまわないにちがいありません。信者の「一家」をの一家とも呼べるかもしれません。そして、このような一家の上に立てられた「管理人」つまり頭の立場は、それについて申し開きをすべきものなのかもしれません。

しかし、ああ、ああ、「霊的」であることを願う人々の多くは、「管理」と、「一家」のために「食物」を与えることを、「世俗の務め」と見なしています。その務めを彼らは嫌がっており、それから解放されることを願っています。彼らが次のことを理解しさえするなら、このような状況はなんと一変することでしょう。すなわち、自分たちがそのような立場にあることは、主人が自分たちに執事職、つまり、信用を委ねてくださったこと、そして、それについて申し開きをしなければならないということなのです。「主の来臨にどう備えればいいのでしょう」と、そのような人は言うかもしれません。「家事にかかりっきりで、『降臨』集会に欠席する必要がありますし、他の集会のための時間もほとんど見当たりません」。ああ、神の子供よ、聞きなさい、「主人が来た時、そのように行っているのを見られる僕は幸いである」。

使徒パウロは、福音を宣べ伝える執事としての責任を、はっきりと自覚していました。彼は言いました、「私はそうせずにはいられないからです(中略)もし私がこれを自分の意志で行なうなら、褒賞を受けます。ところが、もし自分の意志でないとしても、私には執事職が委ねられているのです」(一コリント九・十六、十七)。この「褒賞」は、執事職の務め――その執事職がどんなものであれ――を喜んで果たしたことに対して与えられます。「福音の宣べ伝え」にせよ「一家」を養うことにせよ――神のみこころでは両者の間になんの違いもありません。

4.私たちが接触する「」(ヘブル十三・十七)

これについてはとても短く暗示されているだけですが、はっきりしています。「彼らはあなたたちの魂を見守っています」とパウロは述べています。「彼らは申し開きをしなければならないからです」。これは、この「一家」の僕たちの魂のことであり、商人たちが取り扱った魂のことであり、信者が接触するすべての人の魂のことです。信者は「魂を見守」らなければなりません。注意してください、信者の行動により、人々はキリストにますます引き寄せられているでしょうか、それとも、ますます遠ざけられているでしょうか。時期に適う言葉を与えるよう注意してください。聖霊が内側で働いておられる人々を見守るよう注意してください。地上のあらゆる務めのただ中で注意してください。そうするなら、裁きの御座で、悲しみではなく喜びをもって「申し開きをする」ことができます。

5.世話するよう私たちに委ねられた「群れ」(一ペテロ五・二~四)

「群れを養いなさい」とペテロは言いました。「強いられてではなく、自ら進んで、神にしたがって監督しなさい。汚れた利得のためではなく(中略)権力を振るうのではなく(中略)むしろ模範となりなさい……」。そうすることへの褒賞が四節に述べられていますが、これは、「群れ」を監督するよう委ねられた人は裁きの御座で申し開きをしなければならないことを示しています。委任に関するこの御言葉を説明する必要はありません。独特な教訓を伝えています。「会衆」や聖書の授業を担当している人はみな、この御言葉の光に照らして、今、自分自身を裁かなければなりません。それは「主に裁かれ」ないためです(一コリント十一・三一)。

今は、黙示録二、三章の七つの教会への手紙について述べることはできません。これらの手紙は、裁きの御座における信者について、洪水のような光を投じます。また、個人的に勝利する問題や、どんな環境や状況の中でも勝利する人々に与えられる様々な褒賞について、七つの教会への手紙の中で描写されています。ガボットが指摘しているように、これらの手紙では、信者は「勝利しているか、打ち負かされているか」のいずれかです。「征服者か、被征服者か」「勝利者か、敗北者か」のいずれかです。勝利への召しは個人的であり、褒賞も個人的です。

裁きの御座における褒賞

では、「褒賞」が何なのか、そして、それらが与えられる条件について、見ることにしましょう。

1.火に耐える「働き」(一コリント三・十二~十五)。

褒賞が何なのか、ここには明示されていません。なぜなら、それは火に耐えた「働き」のかさと重さに見合うものでなければならないことは明らかだからです。

2.忠実に活用された「タラント」つまり能力(マタイ二五・十四~二三)。

「あなたはわずかな事柄に忠実だった」と主人は言いました。「私はあなたに多くの事柄を管理させよう」。地上のこの「僕」は、主の千年間の統治のとき「支配者」になります。なぜなら、彼は自分の能力を「倍に」増やしたからです。これは、その範囲や結果はささやかなわずかなものにすぎないと、他の人々には疑いなく思われた事柄に忠実だったことによりました。地上の奉仕によって、霊的性格と、千年間の統治のための賜物が発達したのです。

3.忠実に果たされた「執事職」(マタイ二四・四七)

この執事は「物品」を扱う地的立場を委ねられました――「しかるべき時に食物」を一家に与えるために必要な物品です。相応の褒賞が与えられます。地上で忠実だった「僕」は、千年王国で主のすべての「物品」に対する「支配者とされ」ます。ここでもまた、地上の奉仕により千年期の奉仕のための能力が発達します。

4.主のために勝ち取られた「魂」(ヘブル十三・十七)

魂を勝ち取ったことへの褒賞は、ダニエル十二・三と一テサロニケ二・十九に見いだされます。「多くの人を義に導く人々は、星々のように(輝いて)永遠に至ります」。「彼の来臨の時、私たちの望み、喜び、歓喜の冠は何でしょうか?それは、あなたたちではないでしょうか?」。

5.忠実に世話して養った「群れ」(一ペテロ五・二~四)

「自ら進んで」行った奉仕が、この事例では特に強調されています。同じように、金銭問題における動機の純粋さ、生活の慎ましさ、そして模範を示すことについても強調されています。「そうすれば、牧者の長が現れる時」とペテロは記しました。「あなたたちは栄光のを受けます」。

千年期の地位

また、裁きの御座で千年王国における地位も割り当てられます。以下のような地位について述べられています――

1.王の右と左の地位(マタイ二〇・二〇~二七)。

これらは備えられた人々のためのものである、と主は言われました。その条件は明らかに、キリストの杯を飲むことと、彼のバプテスマでバプテスマされることです(二三節)。

2.町に対する支配権(ルカ十六・十六~十九)。

この支配権は明らかに、地上の奉仕で獲得された能力の結果でした。というのは、ミナのたとえ話に関連してこれが述べられているからです。自分のミナを十ミナに増やした人はの町に対する支配権を与えられ、自分の一ミナをミナにした人は五つの町を与えられました。千年王国における地位はこの今の世の私たちによって決まることを示す、これ以上に明快な記述はありえません。

3.諸国民に対する権威(黙示録二・二六~二八)。

諸国民に対する「権威」を持つことは、十のを支配することよりも、広大な領域の話です。その違いは、地域的な領域と宇宙的な領域の違いです。さらなる光を求めて、これらすべての節の文脈を注意深く読む必要があります。今この時、広大な展望と、すべての諸国民に対する広い心を整えることができます。偏狭で狭量な性格や心をすべて取り除くことができます。全世界に対するキリストの愛と展望にあずかることができます。今この時も、彼の確固たる義の律法を理解することができます。それは、鉄の杖を曲げることができないように、私たちが屈して妥協したり間違いを犯すことがないためです。

4.キリストの宇宙的王座にあずかること(黙示録三・二一)

「勝利を得る者を、わたしと共にわたしの王座に着かせよう……」。「第七の御使いがラッパを吹いた。すると、天に大声があって言った、『世の王国は、私たちの主とそのキリストの王国となった。彼は永遠にわたって支配される』」(黙示録十一・十五)。統治する主のこの宇宙的王座(単数形)は、黙示録二〇・四に述べられている、ヨハネが千年王国の幻で見た時の、支配する聖徒たちの王座(複数形)よりも優っているように思われます。「彼らは生きて、千年の間キリストと共に統治した」(四、六節)。彼らは地上を支配するために彼の政府を形成します。そこでは、使徒たちも別の「王座(複数形)」に着いて「イスラエルの十二部族を裁きます」(マタイ十九・二八)。

他の地位についても、他にたくさん垣間見ることができますが、それらについて十分に述べることは紙面の都合上できません。サルデスの教会の状態の中で勝利した人たちに対して、彼らは千年間の統治期間中、王と親密な交わりを持ち、「白い衣を着て彼と共に歩む」(黙示録三・四)と約束されています。復活した主と話したエマオ途上の弟子たちのように、彼と話し合うのです。他方、他の人々は神の宮の「柱」――その意味が何にせよ――とされます(黙示録三・十二)。

個人的勝利

この主題についてもっとたくさん述べることもできます。たとえば、千年間の統治、支配する聖徒たちの昇進、王国の設立と王国を統治するための法律の制定についてです。しかし、それらのことはみな、さしあたって私たちの目的の範疇外です。私たちの目的は、主の再来を待ち望んでいる人はみな、今の自分の機会を勤勉に活用して、自分の生活のあらゆる点で個人的勝利を心掛けるべきことを示すことです。

主の来臨を共に見張っている仲間たちよ、一コリント九・二四~二七に示されているパウロの模範によくよく注意を払おうではありませんか。そして、を従わせて、「あらゆることで節制」しようではありませんか。それは、「退けられて」、最後まで勝利のうちに耐え忍んでいれば得られていたであろう賞を失わないためです。私たちの命である「彼の中に住んで」(一ヨハネ二・二八)いようではありませんか。それは、彼の来臨の時、恥じ入ることのないためです。あるいは文字どおりには、「恥のうちに彼の御前から退けられる」ことのないためです――すなわち、救われはしても、火をくぐってきたかのように救われることのないためです。