栄光の奥義

ジェシー・ペン-ルイス

「御子の内に全豊満を宿らせることを御父は喜ばれました。」(コロサイ一・十九)
「この奥義の栄光の豊かさ(中略)それはあなたたちの内におられるキリストです。」(コロサイ一・二七)

新約聖書で使われている奥義という言葉は、「長きにわたって隠されてきた聖なる秘密。隠されている間、人は決して伺い知ることのできないもの」という意味です。コロサイ人への手紙で使徒パウロが書き記しているこの奥義とは何でしょう?彼にはこの奥義を描写する言葉がないように見えます。しかし、この奥義は人の理解を超えた「栄光の豊かさ」で満ちています。

この奥義は彼が手紙を書く前の「代々の時代」にわたって隠されてきたが、時が満ちるに及んで、神はそれをご自身の聖徒たち――キリストの血により贖われ、神へと分かたれた者たち――に知らせることをよしとされたのである、と彼は私たちに告げます。

これほど長く隠されてきたこの奥義を啓示できるのはただ神ご自身だけでしたが、神の子どもたちが神から無代価で賜ったこれらの事柄を知ることができるよう聖霊が与えられました。さいわいな聖霊が遣わされて、この奥義を啓示されました。聖霊はこの奥義を知ることを真に願う人々にいつでもそれを啓示してくださいます(一コリント二・九、十)。

血によって買い取られた神の子どもたちは、この栄光の奥義を知る必要があります。これは実は、神から教わっているすべての者たちにとっては公然の奥義なのですが、真の信者たちの大多数に対して隠されています。彼らは来る日も来る日も「罪を犯しては悔い改める」悲しい浮き沈みの生活を送っています。しかし、彼らがこの「奥義」を知る時、彼らは常に勝利を収めるようになり、揺るぎない平和、深い満足と安息の中に導かれます!

しかし、この奥義とは何でしょう?それは二つの短い文章に要約できます――御子の内に全豊満!「あなたたちの内におられるキリスト(中略)栄光!」です(コロサイ一・十九、二七)。

これが意味するのはまさに、御父は私たちの必要に対するすべての備えを愛する御子の内に置かれたということです。光、愛、力、忍耐、喜び、平和はみな御子の内にあります――今日、「命と敬虔のために」(二ペテロ一・三)私たちが必要とするものはすべて御子の内にあります(コロサイ二・三、九、十)。

御子の内に神の豊かさがあります。私たちの内には――なにもありません!私たちの意志以外、私たちは神にささげるものをなにも持っていません。私たちが御子を私たちの救い主として喜んで受け入れること、次に、御子を王として喜んで受け入れて、私たちの心の王座に着いていただくこと。御父が願っておられること、私たちに求めておられることは、ただこれだけです。

「私を選び分け、恵みを通して私を召してくださった神は、私の内に御子を啓示することをよしとされました。」(ガラテヤ一・十五、十六)。

使徒パウロはこの奥義をガマリエルのもとでは学びませんでした。神ご自身がこの奥義を彼に啓示されるまで、それは彼に対して完全に封印されていました。その後、彼の目は開かれ、主がいかに彼を誕生の時から見守ってこられたのか、そして、いかに彼を奉仕のために選ばれたのかを見るようになりました。

私たちがこの栄光の奥義を知ることができるのも、この同じ方法しかありません。聖霊は生けるキリストを私たちの内に住んでいる方として啓示しなければなりません。それは最初、聖霊がキリストを私たちの救い主として啓示されたのと同じようにです。

さらに、私たちが自分の知性でこれを理解しようとしても、また、どういう仕組みでそうなるのかを解き明かそうとしても、私たちは決してこの奥義を知ることはできません!主イエスご自身が聖霊について言われました、「聖霊はわたしから受けて、それをあなたたちに示します」。しかし、永遠の御霊が啓示を与えることができるのは、私たちの知性が静まって、私たちが「理解しようと努めること」をやめる時、私たちが内省だけでなく彼を知ろうと切に求めることさえも放棄する時です。多くの人は復活の主を見つめる代わりに、経験を求めて自分の内側を見てしまいがちです。

私たちが自分の苦闘や努力をやめ、「私たちは喜んであなたに時間をささげます。私たちはあなたご自身の方法で御子を私たちに啓示していただきたいのです」と主に告げる時、突然、キリストが私たちの内に啓示されます――これは生ける輝かしい実際です。キリストが内に啓示されるのは太陽よりも明るい光によるかもしれませんし、あるいは、自分でも気づかないうちに、無意識のうちに啓示されるかもしれません。

その方法や時を告げることはできません。しかし、主イエスが内側で治めておられることを、私たちは聖霊の証しにより知ります。彼は弟子たちに言われました、「その日、わたしがわたしの父の中におり(中略)わたしがあなたたちの中にいることを、あなたたちは知るでしょう」(ヨハネ十四・二〇)。

明らかにされた奥義

「神は私の内に御子を啓示することをよしとされました。それは私が御子を宣べ伝えるためであり(中略)彼らは私の内におられる神に栄光を帰しました。」(ガラテヤ一・十五、十六、二四)

ユダヤの諸教会が使徒パウロに起きた出来事を聞き、彼がどのようにかつて滅ぼそうとしていた信仰を宣べ伝えたのかを聞いた時、「彼らは私の内におられる神に栄光を帰しました」と彼は言います。キリストの内住の結果は常にこうです!キリストが私たちの内に啓示される時、他の人々は神に栄光を帰します。神がご自身の宮とされた土の器に栄光を帰すのではありません。人々は「なんと素晴らしいクリスチャンだろう」とは言わず、「なんと素晴らしい神だろう」と言うのです。

さらに、キリストが私たちの内に啓示される時、私たちは言葉と生活でキリストを宣べ伝えずにはいられません。かつては自分の信じる事柄を知っているだけでしたが、今では、自分の信じる御方を知っています。キリストが私たちの内に啓示されて、私たちがこの栄光の奥義を学ぶ時、きっと私たちは「この奥義がばれてしまう!」と思うでしょう。「この奥義を告白してもいいでしょうか?」と尋ねる必要はあまりありません。なぜなら、他の人々はキリストが私たちを通して働いているのを見て、「どうすれば私たちもこの奥義を学べるのでしょう?」と私たちのもとに来て尋ねるようになるからです。

キリストが使徒パウロの内に啓示されたこと、そして他の人々にも明らかになったことについての記述の後、この素晴らしい奥義の強める力について記されています。使徒はこう書き記しています、「ペテロの内に効果的に働かれたこの同じ御方は、私の内でも力強かったのです」(ガラテヤ二・八、欽定訳)。

主はペンテコステの日にペテロの内に効果的に働かれたように、パウロの内にも効果的に働かれました。ペンテコステの日、ペテロは裁きの間にいた時の臆病な彼から、十字架につけられて復活した主を証しする恐れを知らない証し人へと変えられました。使徒パウロの内に住んでおられたこの復活のキリストは、パウロを通して力強く働き、「力あるしるしや不思議」をパウロによって行われました。キリストはパウロの内に働いて、「神の御旨のために願わせ、働かせた」のです。

ペテロの内に効果的に働かれた方は、私の内でも力強かったのです」と使徒は言いました。パウロはペンテコステの日に聖霊に満たされた人々の一人ではありませんでしたが、神はペテロ同様自分も力づけられることを、パウロは証明しました。ああ、この同じ主が万人の主であって、彼を呼び求めるすべての人に対して豊かであることを、聖霊が神の子供一人一人に示してくださいますように。血によって買い取られた神の子供はみな、今日、「パウロの内に効果的に働かれた方は、私の内でも力強いのです」と同じように言うことができるのです。

この奥義とその条件

「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられます。私が今生きているこの命を(中略)私は信仰の中で、神の御子の信仰の中で生きます。」(ガラテヤ二・二〇)

この節は、この奥義を知る秘訣を示しています!「キリストが私の内に生きておられます」に先立つ「私はキリストと共に十字架につけられました」という言葉に注目しましょう。

私たちの目が開かれてキリストの豊かさを見る時、キリストは私たちに、彼のかたちに同形化されて、この邪悪な世にあって彼が歩んだように歩む秘訣を示してくださいます。この秘訣とは、彼のようになろうと努めることではなく、イエスご自身が来て、その宮である私たちの内に住み、私たちを通してご自身の生活を生きることです。

神の子供である私たちが、キリストのように生きることに完全に失敗して、この努力をやめる時、それは大きな前進の一歩です!キリストのようになろうと私たちが努めることを、神は耐え忍ばなければなりませんでした。それは、神の聖なる御子の生活を模倣することは人間には不可能であることを私たちが見いだすためでした。

私たちが自分自身を救おうとしたり、自分を神にふさわしい者にしようとした時、懸命の努力にもかかわらず、私たちは自分が「一向によくならず、かえって悪くなる一方」であることを見いだしました。それと同じように、私たちの救いの問題が解決した後、私たちはまたもや同じことをしようとして、「今や自分の罪は赦されたのだから、主の助けにより主を喜ばせることができ、主のために働くことができる」と考えてしまいます。そこで再び私たちは試すことを許されるのですが、失敗して、ただ自分の無力さを悟ることになります。

「自分は神にささげる『賜物』を持っている」と漠然と思っていて、「神は古い命を聖化して、自分を改善してくださる」と期待している人が、私たちの間にもなんと多いことか!ある人がかつて言ったように、私たちが終わらされる道は長い道のりであり、「私の内には(中略)なにも良いものがありません」(ローマ七・十八)と心から真に喜んで言えるようになるにはとても長い時間が必要であるように思われます。サウル王のように私たちは自分の判断力を用いて、みすぼらしくて価値がないと思うものは喜んで滅ぼしますが、奉仕のために神にささげるのに「良い」と思うものは惜しんでしまうのです。

聖霊はしばしば痛ましい経験を通して、私たちは何者でもないこと、私たちの善ですら堕落していることを、私たちに教えなければなりません。なぜなら、私たちの古い命から出るものはみな、罪の呪いの下にあるからです。

神の御計画はこの古い命を改善することではなく、私たちがそれを死――十字架の死――に渡すことです。なぜなら、神の目から見て、古い命はキリストがカルバリで死なれた時、実際にキリストと共に十字架につけられたからです。「私」があってはなりません。キリストを喜ばせ、キリストのために働こうとする、外見上よく見える「私」でさえあってはなりません。「私」のあらゆる面に対して神は死の判決を下されました。私たちは神のこの判決を認めて受け入れなければなりません。そして、「私」のあらゆる面をすべてカルバリの十字架に渡さなければなりません。

私たちの目が開かれて、「キリストと共に十字架につけられて、その十字架に彼と共に釘づけられた」という自分の立場を見る時、そして、真の自己否定というこの十字架につけられた生活を生きる時、神の御霊は内側にキリストを啓示することによって証ししてくださいます。もはや、ぼんやりしたかすかな主ではなく、ある人が言ったように「内なる救い主!」です。その後、彼は私たちの肉体という土の家を通してご自身を現し、御父に栄光を帰すことができます。次に、彼はささげられた体を通して働くことができます。弱々しく断続的に働くのではなく、効果的に力強く働くことができます。もはや私たちによって妨げられることなく、私たちを通して御旨のまま祝福のうちに動かれます。そして、私たちは彼に全く従います。

生きているのはもはや私ではなくキリストです」――この秘訣により、栄光からかすかに豊満が現されることにもなります。

しかし、私たちは憶えておく必要がありますが、信者の内に住んでおられるキリストは信者の個性をなくすようなことはなさいません。使徒は、「キリストは(me)の内に生きておられます」と書き記しています。

この大文字の「私」(I)、主を追い出して辱めるこの「私」(I)は十字架につけられました。しかし、「私」(me)はまだ生きています!この「私」(me)は、心の内に住んでおられる優しく恵み深い王に直ちに絶対的に従わなければなりません。自己ではなくキリストが心の中で王座に着いておられます。キリストこそ私たちの存在の中心にあるこの新しい命の泉なのです。

他の人々のためのこの「奥義」

「私の小さな子供たちよ、キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをします。」(ガラテヤ四・十九)

「ああ、キリストが彼らの内に啓示され、彼らの内に完全に形造られますように」が、回心者たちに対する使徒パウロの切なる願いであり、この目標に向かってパウロは回心者たちのために産みの苦しみをしました。彼は聖霊が忍耐と優しさをもって彼らを古い地上の命から引き離しておられるのを見ている間、なんと目を覚まして祈り、彼らを養い顧み、励まして、彼らに警告したことでしょう。パウロは自分の内に力強く働くその「働き」にしたがって、彼らの間で労苦しました(コロサイ一・二九)。彼の前には常に一つの偉大な目的がありました。その目的とは、キリストが彼らの内に形造られること、そして、キリストが現れる日、彼ら全員をキリストにあって完全に成長した者としてささげることでした(コロサイ一・二八、二九を見よ)。

これが栄光の奥義であり、今や、その啓示を受ける条件に同意するすべての人に開かれています。贖われた人は土の器であり、その体は脆土なのですが、その古い「私」はキリストの十字架に釘づけられ、生けるキリストが内側に住んでおられます。見たところ、なにかが自分から出ていると考える十分な資格は、土の器にはありません。それは、すべての人がその土の器の中におられる神に栄光を帰すためです。土の器は神に全く明け渡されているので、神はそれを通して妨げられずに力強く働けます。その間、その土の器は毎瞬ただひたすら、内側で治めておられる神の御子に対する信仰によって生きます。

こうして、神のものである人は毎時、清める血の力の下で生活し、ますます深くキリストの死に同形化されます。「絶えずイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスの命が現されるためです。私たちはイエスのために絶えず死に渡されていますが、それはイエスの命もまた私たちの死ぬべき体に現されるためです」(二コリント四・十、十一)。

この「奥義」の永遠の力

この奥義への鍵はただ信仰だけです――神の御業を信じる信仰です。パウロはエペソ人に書き送りました、「こういうわけで、私は膝をかがめて御父に祈ります(中略)あなたたちが彼の霊を通して内なる人の中で力をもって強められますように。キリストが信仰を通してあなたたちの心の中に住んでくださいますように。(そして)あなたたちが満たされて神の全豊満に至りますように」(エペソ三・十四~十九)。

「神は天に宝を持っておられます、
だれもその富を勘定して、告げることはできません。
神には深遠な永遠の御旨があり、
御子キリストを大いに愛しておられます。
神はこの地上に宝を持っておられます、
ただ神だけがその値打ちをご存じです。
深遠な計り知れない御旨を、
キリストは地上の聖徒たちの内に啓示してくださいました。」