第三章 自己の力と失敗

ジェシー・ペン-ルイス

モーセは自分の兄弟たちを顧みる心を起こしました。
そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばいました。
(使徒行伝七・二三~二四)

モーセは決断を下しました。これは直ちに、彼を主の御用にふさわしい尊い器としたでしょうか?いいえ、まだです!神に明け渡すことや、十字架の道を選ぶことがすべてではありません。私たちは決断するとき葛藤を経験しました。そして決断した今、素晴らしい平安が私たちの心を満たしています。それゆえ、もはや必要な働きは済んだように見えるかもしれません。しかし実は、それは私たちの訓練のほんの始まりにしかすぎないのです。神は、真に明け渡された人の意志の中央に、ご自身の御座を据えられます。そして、この御座からご自身の深遠な御旨を成し遂げられます。

モーセは自分自身をまだ知りませんでした!この世のあらゆる知恵による教育や、言葉や行いにおける力は、神の御手の中で有用な僕となるのに十分な備えではありません。

ああ!聖霊の時代に生きる私たちが、モーセよりも知らないとは!エジプトの知恵に頼り、雄弁術や肉の力に頼る時、私たちは依然として、まるで私たちの戦いの武器が肉的なものであるかのように振る舞っているのです。そして、モーセと同じように、先に進んで行って自分の悲しい過ちを知るのです。

モーセは、将来の進路をはっきりと選択するよう迫られた時、人生の重大な内的転機を迎えました。そしてその転機に続いて、神の主権の下である事件が起きました。その事件はモーセを、彼が放棄することを決意した生活から解放しました。

私たちが神と一致するとき、常にこのようです。神の内側の取り扱いは、神の外側の働きと協力して、神の御旨を遂行します。もし、神が私たちを深く取り扱い、内側で十字架の道を選ぶよう私たちを導かれるなら、私たちは間もなく、おそらく突然に、私たちの心の選択が事実となる状況の中に置かれるでしょう。それはおそらく、私たち自身の何らかの行い、何らかの失敗や間違いによってでしょう。突然、すべてが変わります。

モーセは自分の兄弟たちを顧みる心を起こしました」。ステパノはこのようにあっさりと、重大な結果を招いた一歩について述べています。最初、それは単なる考えにすぎませんでしたが、次に行動となり、予期せぬ結果を招きました。

モーセは自分の同胞のところへ出て行き、その苦役を見た」(出エジプト記二・十一)。彼はそれまで見ていなかったのでしょうか?彼は、自分が彼らの民族出身であることを、知っていたにちがいありません。パロの娘の子としてエジプトのあらゆる楽しみにあずかっていた長い年月の間、彼は神の民とその苦役を忘れていたのでしょうか?あるいは、覚えていたけれども、そのような考えを払いのけていたのでしょうか?今彼が下した、彼らと運命を共にしようという決断は、一時の思いつきではありえませんでした。それはおそらく、神の御前で深く心を探られた結果だったのでしょう。彼は、罪のない多くの赤ん坊が川に流された時、神が自分のいのちを救い出してくださったことを知っていました。

モーセは同胞たちの苦役を見て、心をかき立てられました。ステパノの言葉から察するに、彼はすでに、自分がイスラエルの解放者となるべきことを知っていたようです。ですから、同胞たちに会いに出かけて、その一人が虐待されているのを見た時、彼はその人をかばって、エジプト人を打ち殺しました。ああ、モーセ、モーセよ、そのようなやり方はエジプトの方法であって、神の方法ではありません。

この出来事は、神の御子を守るために剣を抜いたペテロを思い起こさせます[1]。御子が命じられさえすれば、御使いの軍勢が彼を守ったでしょう。同じことが、今日神のために戦っている非常に多くの人々にもあてはまります。彼らは剣を抜いて、間違っていると思うものをすべて打ちます。しかし彼らは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」という主の御言葉や[1]、「もしわたしの国がこの世のものだったなら、わたしの僕たちが戦っていたでしょう」[2]という主の御言葉を忘れています。主の僕たちが戦うことは、彼らが十字架の道と主の精神を忘れやすいことを示します。

もしも、モーセがエジプト人を一人一人打つことで解放が実現されるのだとしたら、イスラエル人は決して解放されなかったでしょう。神はそれよりも遙かに良い方法を持っておられました。私たちの視野は、なんと小さく、なんと狭いのでしょう!もし、私たちが自分自身を神にささげ、神とその御旨を知ることをまず第一に求めるなら、神は私たちを用いて偉大なことを成されるでしょう。

神の御旨はモーセの手でイスラエルを救うことでした。しかしそれは、モーセの方法によってではありませんでした。モーセ本人が最大の問題でした。この気性の激しい男をとぎすまされた矢にするには、時間と辛抱強い訓練が必要でしょう。

神はまず、モーセを失敗によって教えなければなりませんでした。モーセは、神が彼らを解放しようとしておられることを、同胞たちが理解するだろうと想像していました。彼らは、その方法が神によるものだったなら、おそらく理解していたでしょう。しかし、その方法は神の方法ではありませんでした。どうして神がそれを良しとされるでしょう!

私たちは、助けたい人々から拒絶される時、驚きます。私たちは、神が私たちを召されたこと、そして神が私たちの手によって人々を解放すると告げられたことを知っています。私たちは、主との密かな交わりと、主が私たちに語られた御言葉で心を満たされて、出て行きます。そして、神が私たちを通して働いておられることを、他の人々が理解するだろうと想像します。しかしながら、働いているのは全く神ではないのです!私たちが骨折ることを許されたのは神ですが、それはただ、私たちが失敗して自分自身を知るためでした。

出エジプト記の記録は私たちに告げます。「(モーセは)あたりを見回して……そのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した」(出エジプト記二・十二)。この行いは「神にふさわしく」ありませんでした。神は、ご自身の働きをこのようになさることはありません。また、ご自身の子どもたちに、彼らの高い天的な召しにふさわしくないことを行うよう要求されることもありません。神がイスラエルをエジプトから連れ出された時、それは伸ばされた御腕と輝かしい御力によりました。それゆえ、エジプト人たちは頭を下げて、「出て行ってくれ」と頼んだのです。

それをする前、あるいはした後で、「あたりを見回す」必要があるようなことに、神の御名を賦与しないようにしましょう。主の吟味の光に耐えられない、神の御名による金儲けに注意しましょう。魂を獲得しようとすることですら、注意する必要があります。

モーセは確かに、全く正しかったわけではないことを、意識していたにちがいありません!その晩、休むために床についた時、「イスラエルは、このような方法では決して解放されないだろう」という思いが、彼の心によぎらなかったでしょうか?そのように私たちもまた、私たちのあらゆる「防護や報復」にもかかわらず、人々が依然として罪とこの世に束縛されており、彼らを解放しようとする自分たちのちっぽけな努力は、あたかも一匙のスプーンで海の水を汲み出そうとするようなものであることに、気づき始めているのではないでしょうか?それを自覚して、ほとんど「押し潰されている」人々もいます。彼らは言います、「それでは、抑圧されている人々の重荷を見ても、私たちはな何もするべきではないのでしょうか?」。神の御名にあって言いますが、そのとおりです。神から離れて働くのではなく、神と共に働くために、まず神と一つになりましょう。

神とモーセは、イスラエルをエジプトから連れ出すことができます。しかし、モーセ一人では無理です!

「次の日、また外に出てみると、なんと、二人のヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪い方に『なぜ自分の仲間を打つのか』と言った。するとその男は、『誰があなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか』と言った。そこでモーセは恐れた」(出エジプト記二・十三~十四)。この言葉の矢の一つが神の御手によって放たれて、致命傷を与えました!助けようとしている人々から、こんなにはっきりと本当のことを言われるのは、つらいことです。苦しいかもしれませんが、もし他の人々の痛烈な批判を受け入れるなら、私たちは自分の生活を主に明け渡せるでしょう。主は私たちの生活を整えて、非難の余地の無いものにすることができます。自分の殻に閉じこもって、自分以外の見解をすべて注意深く避ける人は、広い地平線を神と共に「頂上から見渡す」ことは決してないでしょう。

モーセの行いは、彼が助けたいと願っていた人々の目に、このように映っていたのです!もしモーセが自分の行いを正当化していたなら、この言葉は荒っぽく彼を目ざめさせたでしょう。自分の同胞を打ったことをモーセに非難された人は、自分の行いとモーセの行いを区別できませんでした!一方は確かに、普通のけんかでした。他方は、抑圧された人々を解放するという、崇高な理想でした。その無知なヘブル人は、異なる事柄を区別できませんでした。

いいえ、いいえ、神の子どもよ。あなたのあの行いは崇高な理想によって成されたのかもしれませんが、それを見ていた他の人々は、あなたの行いの中に、この世の精神や肉的な精神を感じ取ったのです。私たちは、私たちの善をけなされないようにするべきです。私たちは、悪の外観を避け、すべての人の目に誉れある事柄を思うよう、命じられています。

同胞と仲直りしようとした時、モーセは「誰があなたを私たちのさばきつかさにしたのか?」という言葉を浴びせられました。なんという大失敗でしょう!私たちの失敗と荒っぽい目ざめのゆえに、神に感謝しましょう。自分に幻想を抱いて生きるよりは、今、失敗して目をさます方が、遙かに良いのです。裁きの座で目をさましても手遅れです。真理を持てないなら、私たちは裁きの座で損失を被らなければなりません。

その矢は急所を突きました。モーセは恐れて逃亡しました。彼はミデヤンの地に逃げて、放浪者、寄留者となりました。彼は決断を下して、自分の自由意志で十字架の道を取ること――苦難、損失、そしりを受けること――を決意しました。今や、たった二日の内に、しかも自分の愚かさのせいで、彼の宮殿生活は終わりを告げました。彼は異国の地で放浪者、独り身、寄留者となりました。

モーセの歴史のこの期間に相当する経験が、私たちにもあります。しかし、ああ、私たちは数年間、神の働きの中で自分の無力さを学んできました。私たちは、助けたい人々から受け入れてもらえないことを知りながらも、そうしてきました。「誰があなたを私たちの上に立てたのか?」と言われることも、少なからずあります。人々を責めるのはやめましょう(なぜなら、私たちはしばしばそうしがちだからです)。むしろ、私たちの失敗の原因を知るために、神の光を求めましょう。そうするなら、神は私たちを御用にふさわしい尊い器としてくださいます。


訳者による注

[1] マタイ二六・四七~五六
[2] ヨハネ十八・三六