十字架の福音

R. B. ジョーンズ

勝利者誌 一九一〇年 二巻 八月号 掲載。メッセージの短い注記。講演者による校正はされていません。

1.新生

「あなたたちは新しく生まれなければなりません。」ヨハネ三・七。

「これは初歩的な真理であって、私たちはそこから先に進んでいるのである」とだれも思わないでください。私たちは基礎に立ち返る必要があります。基礎に立ち返ることによって、他の真理がいっそう明らかになるのです。

宮の外庭で、人々は供え物の小羊や鳩を売って、商売をしていました。たしかに、遠くから来ている人にとって、そこで買えるとどれほど便利だったことでしょう!そのとき、主イエス・キリストがやって来られました。彼は心を痛めて、御父の家の聖なる敷地から出て行くよう彼らに命じられました。彼らは立ち去りました。これは素晴らしいです。ガリラヤからの見知らぬ若者に命じられたので、彼らは出て行ったのです。彼には大祭司やローマの代理人から受けた権威はありませんでした。彼の信用証明は彼の額にありました。その信用証明は聖さでした。

それで、人々は噂話をし、群衆は騒ぎました。諸々の階級の人々までもが興奮して、一人の人が尋ねるためにやって来ました。彼は学者として、大きな敬意を込めて「ラビ」と言い、神の王国に関する「進んだ教え」を求めました。私たちの主の返答は何だったでしょう?事実上、返答は、「天的知識のアルファベットを教わるには、あなたは新たに生まれなければなりません」というものでした。ニコデモは上級クラスに入れなかったどころか、まだ学校にも入っていなかったのです。彼は再生される必要がありました。この出来事の記録のゆえに、私たちはどれほど感謝しなければならないことでしょう。ニコデモはスラムから拾われた「クズ」ではありません。彼は道徳的な人です。模範的生活を送っています。それどころか、宗教指導者、支配者です。しかし、キリストは彼に、「あなたは再生されなければなりません」と言われます。

「なんと」とあなたは言うでしょう、「このような人々にも再生が必要なのですか?」。キリストの御言葉が真実なら、その答えはしかりです。道徳的であるという事実は、内なる命をなんら証明するものではありません。彼が来られたのは、私たちに道徳的模範を与え、外側の習慣や行いを取り扱うためだけでなく、内なる命を取り扱うためでもありました。「それは私たちが命を持ち、それをさらに豊かに持つためです」。

いわゆるキリスト教の奉仕の多くは、キリストの働きの道筋に沿って進んでいません。主イエスの御旨は、今日のキリスト教の教会が目的としているところと一致していません。彼は来て、内なる徹底的変化を強調されました。私たちは症状を取り扱っていますが、彼は病を取り扱われます!私たちは枝を取り扱っていますが、彼は根を取り扱われます!私たちは習慣を取り扱っていますが、彼は性質を取り扱われます!私たちは外側を取り扱っていますが、彼は心を取り扱われます!

人がやって来て神の純粋な光の中に立つ時、その人は、自分の習慣を清めようとしてくれたけれども、自分を新生経験に導くことに失敗した人々に感謝することはないでしょう。人の内なる命を変えずにその習慣を改めることは、大きな間違いです。反逆と拒絶のせいで、キリストを知る知識の中に導けない人々は、どういう人々でしょう?「落ち込んで」いる人々でしょうか?いいえ、彼らは「外側は清い」人々です。彼らは汚れた霊は去ったけれども、再生されることなく道徳的な状態に残された人々です。次にどうなるでしょう?汚れた霊が戻って来て、その家が掃除され、飾り付けられており、空になっているのを見いだします。「そこで行って、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て、そこに入って住み着きます。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」(マタイ十二・四五)。ここに一人の飲んだくれがいます。彼は何年ものあいだ飲酒の常習的虜です。パブには行くまいと決意するのですが、決意してもどうにもなりません。依然として出かけてしまい、悪習から逃れることを諦めてしまいます。とうとう、ある日、彼は断固として、「もう一滴も飲むまい」と言います。自分でも驚いたことに、彼は実際にパブを通り過ぎます。隣人たちも驚きます。彼は不法の中で駄目になる、と予想していたからです。見てみると、彼が救われている兆候はどこにもありません。次に何が起きるでしょう?汚れた霊は彼の中から出て行きました。彼の意志は自由です。しかしその後、汚れた霊が戻って来て、家が「掃除され、飾り付けられて」いるのを見つけて、「自分よりも悪い他の七つの霊」と共にそこに入ります。自己満足、高ぶりといった霊どもが彼を束縛の中に捕らえます。彼は依然として再生されていないだけでなく、霊どもによって支配されています。そのため、彼をへりくだらせて神に導くことが、初めよりもさらに困難になります。

最高のものを目指しましょう。それ以下のものを目指す働きがたくさんあります。この世を教育、啓蒙、道徳化できたとしても、依然として悪魔の手の中にあります。キリストは新しい命をもたらすことを目指されました。あなたはそれを得たでしょうか?新しく生まれたでしょうか?古い性質は罪に定められたでしょうか?さて、十字架について話すことにします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」。しかし、これと、「あなたたちは新しく生まれなければなりません」とは、どんな関係にあるのでしょう?まあ、皮相的な点についてだけ述べると、二つの「なりません」でつながっていると言えます。人の子とニコデモの両者とも、そうでなければなりません。なぜ彼は上げられなければならないのでしょう?私は新しく生まれなければならないからです。新創造が現実のものとなるには、その前に旧創造は十字架につけられなければなりません。そして、十字架に上げられた人の子において、旧創造は十字架につけられました。神は、キリスト・イエスにある新創造を創造するために、「舞台を清め」られます。「あなたたちは新しく生まれなければなりません」。哲学的説明はされていませんが、明らかな必要をまさに述べています。クリスチャンが聖さを求めたり、あるいは、明け渡された生活を送ることを願うときはいつでも、古い命を放棄してキリスト・イエスにある新し命を取るというこの問題に直面することによって、助けを受けます。

喜ばしいことに、神はこの働きをするよう私たちに求めておられません。事の性質上、それは不可能です。私がキリストの「中へと信じ込む」ときはじめて、私は「新創造」になります。「私はキリストと共に十字架につけられています」と新たに言うつもりがあなたにはあるでしょうか?経験を積んだ働き人かどうかを決して気にしてはなりません。再びこの立場を取って、「それでも私は生きています。ですが、私ではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」という使徒の言葉と共に進み続けようではありませんか。

2.「彼と共に十字架につけられた」

「私たちは次のことを知っています。私たちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪に仕えることがないためです。」ヨハネ三・七。

ローマ人への手紙で、パウロは一度も会ったことのない人々に向かって話しています。私たちは神の案配に感謝しなければなりません。この神の案配により、彼らに福音を伝えたことのない使徒が彼らに書き送って、その記録が私たちのために保存されているのです。最初の八つの章でパウロは、彼が至る所で宣べ伝えた福音の骨子を私たちに示します。私たちはそれをよく学んだ方がいいでしょう。なぜなら、他に福音はないからです――それは私たちの主イエス・キリストの十字架の福音です。

福音をパウロに教えたのは昇天された主でした。ガラテヤ一・十一、十二からこれがはっきりとわかります。そこでパウロは、「私によって宣べ伝えられた福音は、人によるものではありません。なぜなら、私はそれを、人から受けたのでもなく教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって受けたからです」と保証しています。それでは、人々が「パウロの福音」と言っているのはどういうことでしょう?もしパウロ自身の神学を意味しているのだとすると、彼らは使徒と全く矛盾しています。彼はそれをキリストから受けたのであり、それには主の権威があるのです。パウロは、自分がキリストの諸々の奥義の執事であることだけを誇りました。

パウロによって示されたこの福音の中心はキリストの十字架でした。すべての真理がこの中心から輝きました。唯一の主題は、「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。今日、この真理を「新たな」形で述べよ、と叫ばれています。だめです、真理を「新たな」形にするなら、それは真理ではなくなってしまいます。なぜなら、十字架がなければ福音はありえないからです。十字架の傍らには、福音の計画に属するものがたくさんあります。しかし、福音の計画に付随する道徳的真理を、ただそれだけしか宣べ伝えないなら、福音に全く欠けたものになりかねません。模範だけでは福音を理解できません。私たちは、私たちの主の麗しい生涯を宣べ伝え、彼のあわれみに満ちた行いの模範を指し示して、それに従うように命じられています。主を賛美します、彼は完全な御方でした。それでも、こう言いましょう。福音は、十字架以外のキリストの生活ですらないのです。

みじめな罪人に、「あの素晴らしい生活を見なさい」と言ってもしかたありません。そんなことは哀れな人への侮辱にほかなりません。「心を尽くして、魂を尽くして、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という理想はすでにありました。それなのに、到達できなかった模範よりもさらに素晴らしい模範を、福音は私たちに与えるだけなのでしょうか?いいえ、そうではなく、神は御子を遣わして、御子が私たちの罪を負うようにされたのです。そして、あの十字架から、私たちを贖う力が生じたのです。ここに力があります。私たちが欲しているのは、登るべき山を見るよう私たちに命じる人ではなく、私たちを上に運んでくれる人です。十字架を措いて贖いはないことを、パウロは熟知していました。

六章十一節は、「私たちの主イエス・キリストを通して、あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていると認めなさい」と私たちに命じます。私たちはこれが意味するところと、パウロが二コリント五・十四節で述べている、「ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」という言葉が意味するところを、完全に受け入れているでしょうか?ここには身代わりがあるだけでなく、一体化もあります。私たちは彼にあって死にました――これは何を意味するのでしょう?まさに次のことです。すなわち、イエス・キリストの十字架上での死により、最初のアダムに属する人類は終わったのです。主は堕落した状態にある私たちを十字架に連れて行って、御業を成就されました。というのは、十字架は新創造を旧創造から効果的に分離するからです。罪は対処されたというこの基礎に至ることが必要です。罪を知らない方が私たちのために罪とされました。なぜでしょう?私たちは罪の塊だったからです。私たちは罪人であるだけでなく、罪でもあります。主イエス・キリストにある時だけ、「古い人」は実際に排除されます。彼にあるときだけ、私たちは罪に対して死にます。この真理を理解するとき、私たちはかつてしたことのない経験をします。主は私に、私はもはや「古い人」ではないと言う権利を与えてくださいます。悪魔は依然として「古い人」の立場を私に取らせようとしますが、「いいえ、それは昔の話にすぎません」と私は返答します。このような昔ながらの示唆があるかもしれませんが、新しい人として私はそれらの示唆を拒否します。私の勝利はキリストにあります。私は使徒と共に、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません」と言います。神は御子の死に満足されました。御子の死を通して私たちは罪から解放されており、「キリストが私たちを解放してくださった自由の中で」解放されています。神の子供よ、この自由の中に入りなさい、そこであなたは以前の罪定めから解放されます――「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。「あなたたちも、自分は罪に対して確かに死んでいると認めなさい」。この素晴らしい贖いの機会があることを喜びなさい。そして、「主よ、あなたの御子の死によって、古いものはすべて除き去られたことを認めます」と言って、この完全な解放を得なさい。

3.神に対して生きる

「同じように、私たちの主イエス・キリストを通して、あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていると認めなさい。」ローマ六・十一。

このように「認める」ことができるのは再生された人だけです。罪の中で死んでいる人は、自分は罪に対して死んでいると認めることができません。まず、主イエス・キリストを通して死から命へと移らなければなりません。「私はそうしようとしてきましたが、効果がありません」と言う人がいるかもしれません。なぜ失敗したのでしょう?この問題を注意深く調べれば、二つの点について認める代わりに一つの点しか認めていなかったことが、おそらくわかるでしょう。というのは、自分は罪に対して死んでいると認めるべきことは確かなのですが、他方、自分は「神に対して生きて」いると認めることも同じように急を要するからです。そうしない人々は必然的に片寄ってしまい、必ず失敗することになります。彼らが考えるのは神のことではなく、罪のことばかりです。彼らは「罪に集中」しますが、私たちにとって信仰の真の中心は罪ではなく神です。私たちにとってこの真理にはどんな内容があるのでしょうか?とりわけ以下の内容があります――

(1)自分は罪に対して死んでいるが、神に対して生きていると認めることは、罪を憎み神を愛することを意味します。私たちが憎しみのかぎりを尽くして憎むべき三つのものは――サタン、この世、罪です――というのは、罪に対する憎しみは神に対する愛の消極面であり、もし私たちに後者がなければ、前者もないからです。罪は多くの巧妙な形で入り込みますが、私たちがそれに気づくのは神に対して生きているときだけです。神の曇りなきビジョンの中に立つとき、罪はなんと恐ろしく見えることでしょう。しかし、彼から遠く離れているとき、私たちは誘惑するものをまざまざと見て、「これはあまり悪いようには見えません。確かに、罪を犯さずにこれを大いにすることができます」と心に思ってしまいます。しかし、言い訳のためにこう考えざるをえない時、私たちは神から遠く離れています。一方、私たちが神の光の中に住んでいるとき、それは私たちと私たちの御父の御顔とを隔てる雲であることがわかります。ほとんどの人々が罪と呼ばないこうしたものこそ、私たちを最も悩ますものなのです。

(2)自分は罪に対して死んでいるが、神に対して生きていると認めることは、彼に大いに関心を持つことです。安全策は、罪の偽りの支配を無視することです。それを征服済みの敵と思いなさい。自分は「きっと時々打ち負かされてしまう」と思ってはなりません。いいえ、それは罪の「こけおどし」にすぎません。罪の力は打ち砕かれています。悪魔は誘惑しますが、キリストは罪の力を滅ぼしてくださいました。それは私たちに忠誠を要求しますが、私たちは「私たちは自由です」と返答します。「ですから、あなたたちの死すべき体を罪に支配させて、それに従ってはなりません」。「否」と言いなさい。というのは、「罪はあなたたちを支配することはない」からです。なぜなら、「あなたたちは律法の下にではなく、恵みの下にある」からです。

(3)自分は神に対して生きていると認めることは、罪の使用には適していないけれども、主だけが自由に使えるということです。罪がこの手足を使うことはもはやありません。この頭が計画を立てることはなく、この舌が邪悪なことを話すこともありません。なぜなら、今後は神のための道具になるからです。体、魂、霊のどの能力も、彼に与えずにいることはありません。むしろ、天使たちやセラフィムと共に彼の臨在の中に立って、私は「あなたは私に何をさせようとしておられるのでしょう」という姿勢を取ります。私は明け渡し、彼は供給してくださいます。自分は神に対して生きていると私たちが認めるとき――彼は「キリスト・イエスにより、彼の栄光の富にしたがって」――「私たちの必要をすべて供給して」くださいます。