キリストにある私たちの嗣業

F. J. ヒューゲル

勝利者誌 一九四七年 二八巻 十月号 掲載

パウロは一コリント一・九で、私たちは御子、すなわち、私たちの主イエス・キリストの交わりに召されたのである、と私たちに告げています。ギリシャ語では交わりという言葉は「コイノニア(koinonia)」であり、一方から他方に流れる共通の経験を意味します。この思想は、御子の経験が私たちの経験にならなければならない、ということです。私たちはキリストの中に根差して、彼の経験にあずからなければなりません。

パウロは福音のこの面を他のだれよりも理解していたように思われます。彼の数々の手紙は、この輝かしい達成、「代々にわたって隠されてきたけれども、今や聖徒たちに現わされた」この卓越した奥義で浸透されています。彼の宣教の働き、宣べ伝え、素晴らしい手紙、まさに彼の命は、みなこの中心を巡っており、この中心から発していました。彼にとって生きることはキリストでした。彼は「この奥義の栄光の豊富」を表現するのに適切な言葉を見つけられませんでした。この奥義とは「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」でした(コロサイ一・二七)。

神は、御子の経験にあずかるよう私たちを召されました。彼の教えを受け入れること、彼が世を救うために死なれたことを信じること、彼は人生を導き通してくださると信頼すること、彼は試みの時に来て解放してくださると期待することだけのためではありません。違います!これはみなそうではあるのですが、目標には遠く及びません。私たちはキリストと一つでなければなりません。彼は私たちの内にご自身の経験を複製しなければなりません。

クリスチャン生活は、たんにイエスが定められた模範に従おうと努めることではありません。その方面の努力はみな、絶望に至ります。イエスの模倣をしようとしてもどうにもなりません。いくら模倣しても、中国人をヒンドゥー人にはできませんし、フランス人をホッテントット族にはできません。アダムの子の側でいくら模倣しても、天から下って来られたこのユニークな神の御子に真に似た者にはなれません。牛を馬に、猫を犬にはできないように不可能です。私たちとキリストとの間にあるこの本質的相違を、そのような方法で橋渡しすることはできません。ローマ七章を読んで、この路線でのパウロの努力がどのように絶望と苦悩の叫びという結果になったのかを見てください、「ああ、私はなんと惨めな人でしょう!誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?」(ローマ七・二四)。

私たちの唯一の希望は、キリストと共有している命にあずかることです。言葉なる方が私たち一人一人の内に受肉しなければなりません。「肉体において現わされた神」(一テモテ三・十六)という敬虔の奥義と並んで、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ一・二七)という奥義を、それに劣らず大事にしなければなりません。

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しかし、キリストとのこの合一は十字架に導きます。イエスの人性は十字架につけられた人性です。彼にあって、人生の行程は大逆転します。私たちはもともと高ぶっています。どれほど恥じるべきでも、どれほど屈辱的な環境でも、私たちは依然として高ぶっているのです。高ぶりが私たちの血中を流れています。高ぶりが私たちのすべての心拍の中にあります。私たちは自分の想像上の謙遜さを誇っています。自己が王となっています。これがあらゆる痛み、恥、罪、地上の争いの根幹です。私たちの中心は自己です――神ではありません。

イエスは人の姿を取られました――実際に人となられましたー―それには一つの大きな目的がありました。すなわち、人の高ぶりに終止符を打って、人を神の完全な模範にしたがって形造ることです。その模範の基礎は謙遜です。そのかなめ石は神への従順です。ですから、十字架です。イエスと共なる十字架こそ、その中に命を投じるべき鋳型です。十字架がベツレヘムの馬小屋で明示されました。小羊は世の基が据えられる前から十字架につけられていました。イエスは確かな足取りで十字架に赴かれました。十字架上でのみ、彼の諸々の目的は達成可能でした。それ以外のどんな方法で、神を中心とする人類を造り上げられるでしょう?それ以外のどんな方法で、人類のために揺るぎない謙遜という基礎を据えられるでしょう?それ以外のどんな方法で、人の構成中に従順という偉大な言葉を書き込めるでしょう?十字架は人の在りようにことごとく限りなく反するものであり、神の創造の働き――それにより、神のエコノミーにおいて人がなるべきものがすべて表されて明るみに出されます――です。キリストは十字架につけられた人類を十字架上で生み出されました。

キリストがカルバリで成し遂げられたことが、私たちの中に造り込まれなければなりません。それ以外の方法で私たちはどうやって救われ得るでしょう?神の王国における永遠の命は、カルバリで経験される無限に深い謙遜さに根差さなければなりません。私は御子の経験にあずかるよう神に召されました。これらの経験を御子がされたのは、私の代表者としてでした。それらの経験は、人なる方から離れてはなんの意義もありません。人なる方がそれらの経験と関係しています。第二のアダムが、人類の盟主として、十字架に行かれました。それは、人類をその過程の下に服させるためでした。

人がひとたびカルバリの深い意義を見る時、「私はキリストと共に十字架につけられています」が、その人の生活の自然な表現となります。自分はキリストを通して罪に対して死に、神に対して生きていると認めること(ローマ六・十一)は、聖パウロの神学に適う、たんなる信仰の機械的働きではありません。それは、私が次のことをひとたび理解するとき、私の存在の法則に適う、生き生きとしたものになります。すなわち、私を支配すべきものは、私が最初のアダムから受けた命ではないのです。むしろ、私の存在を支配すべきものは、十字架につけられた第二のアダムにある私の相続財産なのです。

「ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」(二コリント五・十四)。

これはパウロ神学の特徴であるだけではありません。これは宇宙的な偉業なのです。これが人の高ぶりを対処する神の方法です。これはその全き目的の観点から見た十字架です。キリストの経験にあずかるよう、神は私たちを召されました。また、人の子なる方を信じる私たちの信仰により、私たちはキリストの経験にあずかるように導かれます。

これが人の罪深い性質に関する天の判決です。いくら矯正、除去、修養、改革、訓練しても、どうにもなりません。このらい病はとても深刻です。人は死んで、新創造としてよみがえらされなければなりません。これがまさにキリストにあってその人に起きることです。キリストが十字架に行かれた時、彼は人をご自身と共に連れて行かれました。共に十字架につけられるために私たちをカルバリに連れて行かない信仰は、足の萎えた身代わりのようなものであり、決して神の御子を満足させられません。それは贖いの高嶺へと導く信仰ではありません。

私たちは自分の体に主イエスの死を担わなければなりません。それは、生ける水の川々が私たちの存在の最も深い部分から流れ出るようになるためです(二コリント四・十)。麦粒は地に落ちて死ななければなりません、さもないと、私たちは一粒のままであり、多くの実を結べません(ヨハネ十二・二七)。イエスに従って、彼の諸原則を人生の多様な環境に適用しようとするだけでは不十分です。罪に対するキリストの死が自分のものとなるように、私たちはキリストご自身の中に包まれなければなりません(ローマ六・十一)。贖い主が木の上で私たちの罪をその身に負って提供してくださった赦しを受け入れるだけでは不十分です。キリストの小羊のような性質が私たちの中に造り込まれなければなりません(ピリピ三・十)。自分の中心に絶えず戻って、カルバリで生み出される霊の力をますます深く受け入れる必要があります。私たちが恵みの中で成長するにつれて、「自己の命」をキリストの十字架につける必要性がますます多くなっていきますし、ますます深まっていきます(ガラテヤ五・二四)。十字架につけられたキリストとの私たちの一体化は、ローマ六章に記されているように、法理的には真実ですが、信仰の働きによって握って、日毎に生き生きとした経験に転じなければなりません。まさに私たちが吸い込む空気を肺がとらえるのと同じです。今日、肉の命が大いに掻き立てられており、悪しき者の力によって煽られて白熱しています。いわゆるカルバリのラジウムと同化して、自分はキリストを通して罪に対して死に、神に対して生きている、と認めることを学んだ人たちだけが、勝利者として立つことができます。

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「しかし、あわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに(中略)私たちをキリストと共に生かし(中略)私たちを共によみがえらせてくださいました」(エペソ二・四~五)。信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さは、キリストの復活の力に劣りません。なぜなら、信者の内に働く力は、神がキリストを死者の中からよみがえらせた時に彼の中に働かせた力である、と御言葉は私たちに告げているからです(エペソ一・二〇)。「自分は弱く、今日、世人の生活を明らかに支配している圧倒的な悪の軍勢によって打ち負かされている」と、あなたは感じているでしょうか?どうか神があなたの理解力の目を開いてくださり、あなたの召しの望みがいかなるものか、聖徒たちの中にあるあなたの嗣業の栄光の富がいかなるものか、あなたが知ることができますように(エペソ一・十八)。クリスチャン生活はつぎはぎ細工ではありません。キリストが据えられた諸原則を古い命の中に織り込もうとすることは、あまりにも愚かすぎて泣くに泣けません。キリストが据えられた諸原則は、新しい命に固有のものなのです。「私は神に召されました」とパウロは述べています。「それは、人となることによってご自身を私と一体化してくださった御子・キリストが、死者からのご自身の復活に私をあずからせるためです」。キリストがよみがえられたのは、不死を証明するためだけだったのでしょうか?断じて違います!彼が人の子としてよみがえられたのは、贖われた人類の盟主であるご自身にあって、諸々の罪の中で死んでいる罪人が豊かな命の中によみがえるためでした。なぜなら、私たちは良い働きのためにキリスト・イエスにあって創造された神の傑作だからです(エペソ二・十)。

しかし、キリストとの私たちの一体化は復活を超えて進みます。すでに見たように、人の子なる方は、もといた高い所に昇られました。彼は栄化された人体を伴っておられました。その人体から十字架の傷跡が消えることは決してありません。彼は栄化された人として昇天されました。彼の仲介者としての贖いの御業が満開に達するのは、代表者として彼が、栄化された人類をご自身と共に神の御座に連れて行って、こうして、堕落した人を神格の中に合併される時のことです。

昇天において、主なるキリストはすべての主権、権力、力、支配、今の世だけでなく来たるべき世においても唱えられるあらゆる名よりも高くされました。そしてその時、万物は彼の足の下に置かれました。私たちの霊に関して、この昇天の卓越した力を握ることを学ぶときはじめて、私たちはこの世を支配しているサタンの階級組織よりも高く昇って、あらゆる支配、権力、これらの悪鬼的勢力の力を私たちの足の下にできるようになります。

使徒パウロがいかにクリスチャンをキリストと同一視しているのかに注目するのは素晴らしいことです。パウロにとって、信者の運命は主イエスの運命と融合しているのです。贖い主が(受肉し、十字架につけられ、復活し、昇天した)神・人として経験されたことはみな、彼が人類と全く一体化するためであり、贖われた人類の盟主としての彼の代表的性格のためでしたが、それらはみな、信仰によって彼に結合されるすべての人の内に複製されなければなりません。この一体化は、これから成就されることになるキリストの贖いの御業のあの局面でも有効です。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの再臨によって、世の歴史は一大最後を迎えますが、それに私たちは贖い主の奥義的からだの肢体として参加します。「私たちの命であるキリストが現れる時、私たちも彼と共に栄光のうちに現れます」とパウロはこれを簡潔に述べています。ヨハネもこの同じ真理を特徴的な仕方で表明しています、「愛する者たちよ、今や、私たちは神の子です。私たちがどのようになるかは、まだ明らかにされていません。彼が現れるなら、私たちは彼に似ることを知っています。なぜなら、私たちはありのままの彼を見るからです」(一ヨハネ三・二)。