「勝利者」誌 一九二七年 第八巻 一月号掲載。「信仰生活」誌 一八九七年 一月二八日号より。
注記:大いに感謝しつつ、一八九七年にエバン・H・ホプキンスがケズイックで与えた以下の(かなり縮約された)メッセージを紙面に掲載します。ホプキンス氏はケズイック運動の「神学者」としてあまねく認知されています。編集者はクリスチャン生活の形成期に彼の牧会の下で過ごした十二年間を神に感謝しています。彼を通して編集者は、真理のバランスを――示されているとおりに――注意深く忠実に保ちつつ、聖書を扱うことの大切さを学んだのです。
古い命が終結させられないかぎり、新しい命を勝利のうちに生きることはできません。古い命は終わらされなければなりません。古い命にこだわるなら、信者の平安と有用性は損なわれます。
古い命を征服しようとする人々もいます。彼らはそれに抵抗し、それに対して戦い、それに打ち勝つ力を神に祈り求めます。なぜなら彼らは、これは十分な霊的力の問題にすぎない、と見なしているからです。神から十分な霊的力を得られさえすれば、古い命を征服して支配できる、というのです。そこで彼らは祈り、苦闘し、望みます……。
他の人々は古い命を飼い慣らそうとします。そこで彼らは祈り、霊的訓練の下に服します。彼らは古い命を抑え、制圧し、変えようとします。それは、地上であまり問題を抱えないようにするためです。彼らはとてもせわしくこれに取り組みます……。古い命を新しい命とごちゃまぜにして、自分の立場が何かわかっていません。それは鍛錬、文化、訓練の問題であって、いずれ古い命の問題はたいしたものではなくなるだろう、と思っています。それは終結させられていません。
(また、他の人々は言います)「この問題は全く絶望的だと諦めました。私は古い命を征服できませんし、それを飼い慣らすこともできません」。では、あなたはどうしているのでしょう?「私はそれを無視しています。私は命の面で生活しなければなりません。命さえあれば結構です。そうすれば聖霊のバプテスマを受けられます」。さて、これは良いものを場違いな所に置くことのように私には思われます。古い命は終結させられなければなりません。神は私たちに、何がなされねばならないのか、つまり、彼が古い命をどうしなければならないのか、はっきりと告げておられます。古い命を終結させられる道はただ一つだけであり、それは死による、という事実は依然として残ります。それを征服しようとすることや、飼い慣らそうとすることや、無視することによるのではなく、死によるのです……。
次に、別の問題が生じます。古い命をどのように死に渡すのでしょうか?それをどのように殺すのでしょうか?今晩、あなたはそのような状況にあるでしょうか?自分自身を十字架につけ、自分自身を死に渡そうとしているのでしょうか?……古い命は死によってのみ終結させられる、と神の御言葉は述べています。しかし、どんな死によってでしょう?……
古い命を終結させられるのは、ただキリストの死の力だけです。数年前、聖なる命は一つしかない、というこの単純な思想から私は素晴らしい助けを受けました。主イエス・キリストは、この地上におられた時、完全に聖なる生活を送られました。そこに私たちは、神に全く栄光を帰す理想の人を見ます。聖さの何たるかを知りたければ、彼を見なさい。「そうです」とあなたは言います。「しかし、私は聖くなりたいのです」。救い主は死んで復活し、神の右に昇って、今や聖霊により信じる人々と一つです。そして今や、彼の内にあったのとまさに同じ命が彼らを通して流れます。「わたしはぶどうの木であり、あなたたちはその枝々です」。彼は「わたしはぶどうの木です。あなたたちは同じぶどう園の別のぶどうの木々であって、わたしの命と同様の命、似た命によって成長しています」とは言われませんでした。そうではなく、このぶどうの木には一つの聖なる命だけがあって、根の中にある命と同じ命が枝々の中にもあるのです。そして、この同じ命の目的は、肢体たちを通して神に栄光を帰すことです。肢体たちは地上でイエス・キリストのパースンにあって神に栄光を帰します。聖なる命は一つだけです!ですから、単純な模倣ではなく……合一と現れの問題なのです。
次の点は、聖なる死は一つしかない、ということです。この死以外の、世にある死はみな、その中に罪の痕跡があります。罪なき死、キリストの死以外のどんな死にも力はありません。古い命を終結させる力を見いだすことを、あなたは望んでいるでしょうか?……さて、キリストの死はあなたにとっていかなるものでしょう?まず第一に、あなたは信者としてこう言うでしょう、「それは人の咎を贖うものです。私の諸々の罪を彼は担ってくださいました。私の不法を彼は担ってくださいました。私の諸々の罪を彼は、十字架上で死なれた時、除き去ってくださいました。十字架で私は赦しを見いだしました。十字架で私は初めて理解したのです、もはや罪に定められることはないことを。十字架に御霊は私を連れて行って、私にこれを教えてくださったのです」。
しかし、キリストの死はあなたにとって、それ以上にどんな意味があるのでしょう?キリストの死はあなたの古い命を終結させました。主イエスは何を担われたのでしょう?あなたの諸々の罪です。そうです、そしてあなた自身もです――回心していないあなた、昔の人、古い人もです――あなたをキリストは、十字架上で死なれた時、担われました。そこで死んだのです。そこで偉大な取引がなされたのであり、そこでこの死による赦しが獲得されたのであり、そこであなたのあの古い命からの死による解放が成し遂げられたのです。それは古い天然の命を終結させたのです。
しかし、この同じ思想に関してさらなる段階があります。すなわち、私たちにはキリストの死が毎瞬必要であり、この死の力が絶えず必要なのです。あなたは言うでしょう、「それは一度きりなのですか?」と。彼は神の目に一度だけ死なれました。そして、あなたも神の目にキリストと共に一度だけ死にました。しかし、その死の力・有効性を絶えず取得して適用される必要があります。それは絶えず解放されるためです――「その致死力を常に身に帯び」ることについて私たちは述べてきましたが、その致死力は「主イエスの」致死力です――これを十字架の本質と呼んでもよろしいでしょうか?それは死せるキリストではなく、「致死力」です。彼が罪のために・罪に対して死なれた時、それが彼の中に働きました。絶えずこれを魂に適用される必要があります――彼の死の中に降りて行って、彼の死に同形化されるのです。今やそれは難しくありません。今や古い命に対して苦闘したり戦ったりする必要はありません、それを飼い慣らしたり征服したりする必要はありません。それを無視する必要はありません。あなたは解放を要求することができます。なぜなら、あの死とそれとの絶えざるあなたの一体化によって、それはあなたのために買い取られており、獲得されているからです。
何がこれに続くのでしょう?命が自然に生じます。「それはイエスの命もまた私たちの体に現わされるためです」。イエスが自分の内に生きてくださるよう助ける必要はありません。彼は今、あなたの内におられます。しかし、彼の命の現れを妨げているものがあなたの中にあります。あなたはクリスチャンですが、新しい命の現れを妨げるものが時々生じます。しかし、古い命が終結させられる時、直ちに新しい命が現わされます。
どのような手段で信者はこれを経験できるのでしょう?信仰によって認めることによってです……これにより私たちは、古い命から分離する力としてのこの死の効力を実際に受け取るのです。
信仰には、その根拠となる事実が必要です。思い込みは事実の代わりに幻想を抱きかねません。これが信仰と思い込みの違いです。信仰には、その根拠となる神聖な事実が必要です。思い込みにはそのような事実はありませんし、神の保証もありません。神は御言葉により私たちに信ずべき諸々の事実を啓示してくださいます。今、私たちはこの事実を欲しています。私たちは古い命が終結させられなければならない地点に達しました。それを終結させるのはキリストの死です。
それでは、信仰はどこに事実を探せばいいのでしょう?その事実はキリストにあります。信仰の根拠となる事実を決して自分自身の内に探してはなりません。これを原則とすることができます。すなわち、この信仰には基礎として事実が必要であり、その事実は常にキリストにある、ということです。しかし、神はこの死を十字架上のキリストの中に置いておられます。そして、あなたは千八百年前に起きたこの事実に拠り頼まなければなりません。自分はキリストと共に死んだ、と認めなければなりません。
これは一体化の問題です。心の一体化です。これが第一の点です。罪に対して死なれた時のキリストと同じ心でありなさい。罪のために死なれただけでなく、罪に対して死なれた方の心にあずかりなさい。「同じ心構えで自分自身を武装しなさい」(一ペテロ四・一)。キリストの観点に立って、その観点から罪を見なさい……罪に対して死んでいるという観点です。私たちはキリストと一体化されて、彼と共に死にました。そこで古い命は終わったのです。
しかし、心情の一体化すなわち感情の一体化もあります。これは、信者とキリストは同化しなければならないことを意味します。
長年にわたって主の晩餐が私にとってどのようなものだったのか、今あなたに話してもいいでしょうか?一時期、ぶどう酒を飲む時、自分は命を飲んでいる、と私は思っていました。しかし、裂かれたパンは裂かれた体を意味し、注ぎ出されたぶどう酒は流された血を意味することを見た時、自分は彼の死――彼の死であって、彼の命ではありません――を示していたのであることを見たのです。そして、それは前に引用した麗しい御言葉を別の観点から見たものにほかならないことを見たのです――すなわち、「致死力を身に帯びる」という御言葉です。この死を受け入れてそれを食し、この死の中に下って行って、この死に同形化されるのです。彼の死を飲みなさい、彼の死を食しなさい。これこそが、私たちのあらゆる問題の源である古い命を終結させるものなのです。その時、あなたの内におられる生けるキリストが、あなたの内で成長し、あなたを支配し、あなたの内にあって御力を行使してくださいます……。
次に何が続くのでしょう?思いの一体化、感情の一体化、行動の一体化です。「自分自身をささげなさい」。神にささげるべきものとは何でしょう?古い命でしょうか?違います。しかし、とても多くの人が古い命をささげているように私には思われます。それは終結させられるべきです。彼の死によるキリストとの一体化にもたらされないかぎり、新しい命をささげる用意は整いません。私たちの多くは、古い命から真に断ち切られる前に、命を神にささげようとしています。十字架の絶えざる適用だけが古い命を断ち切ることができます。キリストの死に別れを告げることはできません。私たちの内側には、古い命か新しい命かを追い求めるようにさせるものがあります。それゆえ、彼の死の力が私たちの存在のまさに中心に絶えず必要です――それは絶え間ない泉であり、毎瞬絶えず適用されます――これにより私たちは古い命から解放されるのです。
その時、私たちは「死者の中から生かされた者として」自由に自分を神にささげられます。この死にあずかりなさい。どんな死でしょう?キリストの死です。常にこの事実を信仰の根拠としなさい。その事実の中心はキリストであって、あなたの経験ではありません。事実、信仰、経験です。このように認めることによって経験が生じるでしょうが、それらを正しい順番で並べなさい。これが唯一の道です。キリストの死に、十字架に、あの死とのあなたの一体化――思いの一体化、心情の一体化、行動の一体化――に拠り頼みなさい。そうするとき、命の新しさの中を歩むことができるのです。