第二三章 クリスチャンの働き人へ

ガイオン夫人

人々の回心のために働いている人が、人々を祈りと内なるいのちに直ちに導いて、心で人々に接しようとするなら、無数の回心者が続々と起こされるでしょう。反対に、外側のことしか顧みないなら、ほとんど実を得られないにちがいありません。たとえば、外面的な実行のための無数の規則を弟子に負わせても、ほとんど実は得られないでしょう。魂はキリストに導かれなければなりません。魂がキリストに導かれるのは、心を主で満たされることによります。

牧者はこのように人々を導く必要があります。そうするなら、人々の生活は一変するでしょう。羊飼いは群れを見守る間、初代教会のクリスチャンたちが持っていたのと同じ霊を持つでしょう。農夫は土地を耕しながら、神との祝福された交わりを持つでしょう。工場労働者は、たとえ外なる人は仕事で疲れていても、内なる力によって新たにされるでしょう。あらゆる種類の悪がたちまち消え失せ、人々は霊のことを思うようになるでしょう。

おお、ひとたび神が心を獲得されるなら、すべてはたやすく是正されます!これこそ、神がなにものにもまして心を要求される理由です。この方法によってのみ、酩酊、冒涜、好色、敵意、盗みなどの、下層階級に蔓延している恐ろしい悪を根絶することができます。イエス・キリストは、あらゆる場所を平和に治めてくださるでしょう。そして、教会は徹底的に刷新されるでしょう。

内なる敬虔の衰退こそ、世に現れた様々な誤りの原因です。これは間違いありません。内なる祈りが再び確立されなければ、すべてがまたたくまに打ち倒されてしまうでしょう。信仰と祈りに欠けている魂だけが、誤りに陥ります。ですから、さまよっている兄弟たちと議論してはなりません。単純に信じて祈りに励むよう、彼らを教えなさい。そうするなら、彼らはたやすく神に導かれるでしょう。

おお、内なるいのちを無視することによって、なんと大きな計り知れない損失を人類は被っていることか!魂を顧みるよう委託を受けていながら、この宝を見いださず、この宝を自分の群れに与えなかった人々は、どう弁解するつもりでしょう!

「この道は危険です」とか、「単純な人々は霊の事柄を理解できません」などと言って弁解する人々もいます。しかし、実際はその逆であることを聖書の真理は告げています。「主は単純に歩む人々を愛される」(箴言十二章二二節、ウルガタ訳)。唯一の真の道であるイエス・キリストの中を歩むことに、いったいどんな危険があるのでしょう?自分を全く主に明け渡し、絶えず主を見つめ続け、主の恵みに全く信頼し、魂の力を尽くして主の純粋な愛に仕えることに、いったいどんな危険があるのでしょう?

「単純な人々は完全に至ることができない」などということは、断じてありません。むしろ、素直で、無垢で、謙遜で、単純な人々こそ、完全に至るよう格別に資格づけられているのです。また、彼らは議論することに慣れていないので、自分の意見に固執しません。たしかに、彼らは学びに欠けています。しかし、だからこそ、彼らは神の霊の教えに自由に従えるのです。反対に、自己の能力によって束縛され、盲目にされている人々は、しばしば、恵みの働きに大いに抵抗します。

「単純な者に、神はご自分の律法を理解する力を与えてくださいます」(詩篇一一九篇一三〇節、ウルガタ訳)。神は単純な者と交わることを愛しておられます。「主は単純な者を守られる。私がおとしめられたとき、主は私を救われた」(詩篇一一六篇六節、ウルガタ訳)。霊の父たちは、子供たちがキリストのもとに行く邪魔をしないよう、注意しなければなりません。キリストは使徒たちに言われました、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。天の王国は、このような者たちのものだからです」(マタイによる福音書十九章十四節)。主がこう命じられたのは、子供たちが主のところに来るのを使徒たちが邪魔しようとしたからです。

しばしば人は、心が病んでいる場合でも、外側の体を治療しようします。人類、特に下層階級の人々を改善することに失敗しているのは、私たちが外側から手をつけているからです。外側の領域でどんなに労苦しても、永続的な実は得られません。しかし、内なる生活への鍵を最初に与えるなら、人々の外側の生活は自然に容易に改まるでしょう。

さて、これはとても簡単です。自分の心のうちに神を探すこと、神を思うこと、神から離れてしまったら、すぐに神に戻ること、神を喜ばせたいという単一な願いをもって、すべてを行い、すべてを耐え忍ぶことを、人々に教えなさい。そうするなら、魂はあらゆる恵みの源に導かれ、そこで満足するでしょう。

ですから、魂を顧みている方々よ、あなたがたにお願いします。人々を直ちにこの道に導いてください。この道はイエス・キリストです。彼らのために血を流されたキリストご自身が、この道をあなたに勧めておられます。「エルサレムの心に語りかけなさい!」(イザヤ書四〇章二節、ウルガタ訳)。おお、あなたがた、主の恵みを分け与える人々、主の御言葉を宣べ伝える人々、主の典礼を司る人々よ!主の王国を確立しなさい!主の王国が確立されるには、主が心を治めなければなりません!なぜなら、主の主権に反対できるのは、ただ心だけだからです。主の主権が高く上げられるのは、心が主に服従することによります。「神の聖に栄光を帰せよ。そうすれば、主があなたの聖別となられる」(イザヤ書八章十三節、ウルガタ訳)。祈りについて特に教える教理問答書を編集しなさい。理論的な形式的祈りを教えてはいけません。なぜなら、単純な人々にそのような祈りはできないからです。知性の祈りではなく、心の祈りを教えなさい。人が考えた祈りではなく、神の霊の祈りを教えなさい。

ああ!仰々しい形式で祈ることを教える人々よ!あなたがたは人々を妨げています。神の子供たちは、あなたがたが教える、あまりにも洗練された言い回しのせいで、父祖たちの最高の遺産から引き離され、迷わされています。ですから、あなたがた、哀れな子供たちよ、あなたの天の御父のもとに行きなさい。あなた自身の言葉で御父に語りかけなさい。乱暴で粗野な言葉でもかまいません。御父にとっては、乱暴でも粗野でもありません!あなたは愛と畏敬の念に満たされるあまり、何を話せばいいかわからないかもしれません。あなたの言葉は混乱しているかもしれません。しかし、それでも大丈夫です。父は無味乾燥で不毛な長広舌よりも、たとえ洗練されてなくても心のこもった言葉の方を喜ばれます。単純な飾らない愛の感情は、どんな言葉や議論よりも、はるかに心に訴えます。

人々は形式や規則を守ることによって、愛なる神を愛そうとしています。そして、その愛のほとんどを失っています。おお、愛する技法を教えることは、全く不要です!愛さない人にとって、愛の言葉は粗野に聞こえます。しかし、愛する人にとっては、全く自然です。神を愛しなさい。これこそ、神を愛する方法を学ぶ最善の道です。しばしば、最も無知な人々が最も完全になります。なぜなら、彼らは真心をもって単純に進むからです。神の霊は私たちの手はずを必要とされません。主がよしとされるなら、主は羊飼いを預言者にすることもできます!祈りの宮から締め出されている人は一人もいません。主はだれでも祈りの宮に入れるよう、その門を広く開放しておられます。主は知恵に命じて、大通りで次のように叫ばせます。「単純な者はだれでも、ここに来なさい。理解力に欠けている者はだれでも、来なさい。わたしのパンを食べて、わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい」(箴言九章四、五節)。また、イエス・キリストは御父に感謝して言われました、「あなたは、これらのことを、賢い者や知恵ある者から隠して、幼子たちに現してくださいました」(マタイによる福音書十一章二五節)。