世には私の文章を何とかいふ人があるとのこと。曾て或る宗教雑誌は私を嘲笑していうた、「藤井さん、徒らに美辞麗句をつらねて人をごまかさうとしても駄目ですよ云々」と。失敬きはまる言分である。
併し世間や敵などが何と言はうと、それは先方の勝手である。私は別に問題にはしない。ただ聞き流しにできないのは、友人たちの言である。
或る友人は或るとき壇上に私を紹介して言うた、「藤井君の福音は文学的であつて美はしい」と。他の友人は誌上に私の著書を紹介して言うた、「その特徴は真理の詩人的洞察と表現とにある」と。最も近き友人は私にむかつて屡々いふ、「君は言葉の人だ」と。いづれも私の心から尊敬し信頼する友人たちの言であるから、私としては考へてみないわけに往かない。
勿論それは悉く悪い意味を以て言はれたのではない。併し善かれ悪しかれ、私のいふ言又は書く文章に、何か普通以上の「あや」があるといふ批評は、私の到底免れ得ないところであるらしい。
私は「言葉の人」なのか。かくいふ友の如きは一度は「巧言令色」といふ語句をさへ使って、私の厳しい抗議に遇ひ、ともかくも取消はしたが、私の腹の虫はまだ十分に納まってゐない。
友人たちの批判によつてみても、私は舌だけ、或は私のもつペンだけが天国へ往くのであって、私自身は棄てられる虞れがある。
或はさうかも知れない。併しそれは私の知らない事だ。私にとつては、自分の言や自分の文章などといふものはない。私はただ語れといはれたことを語り、書けと命ぜられた事を書いてゐるに過ぎない。責任は彼が背負ってくれるであらう。私はとにかく嘘だけは言つてゐないつもりだ。もし真実の言なら、誰から何といはれても私は構はない。敵でも味方でも親友でも仕方がない。
主よ、どうぞ此事についても亦私の荷物をすつかりあなたの御手に投げだす事を御許し下さい。アーメン
「旧約と新約」第一〇九号 一九二九年七月