第九講 血に白くせられたる衣

第七章九節以下(十一月十日)

藤井武

我々はすでに第六章の研究によって、世の終わりにいかなる事変が起きるべきかを学んだ。すなわち国際戦争あり、階級闘争あり、飢饉来襲し、疫癘えきれい跋扈ばっこすると云うごとき世俗的災禍の来たるのみならず、殉教者の数満つるまでの迫害すなわち宗教的禍害わざわいがあり、加うるに天動地変と共に大いなる宇宙的審判の起きるべきを学んだのである。ついで第七章の前半においては、第七封印の解かれるに先だちキリスト者は「ける神のいん」をもっていんせられるのをた、それは地にて起きるべきことであった。

さてヨハネの幻はこのたび天上の光景に移る。第六封印と第七封印との間における一つの美しきエピソード的場面である。

大群旅がたむろしている、もろもろの国・やから・民・国語の中より選ばれたる人々である。白雲と見まごう皓々こうこうたる大集団は緑葉をもって綾なされている。彼らは御座みくらこひつじとの前に立ちならび、大声に呼号している。それに応じて御使いの大唱和が御座みくら及び長老たちと四つの活物いきものとの周囲まわりより起こる。聖なる讃美は高く聖座みくらに昇り遠く無涯に響く。

これをてヨハネの胸ぞこ深くいんせられしものは何であったか。大調和、大平和、いまだかつて目に見しことなく、耳に聞きしことなき驚くべき調和平和である。これらの人々からは一切の不自然、疎隔、蟠屈はんくつなどが撤去されている。驚異すべきことでなくて何であろう。翻っておもう、現実の社会はどうであるか。そこにいかなる平和と調和があるか。僅少の人が集ってさえ、すでに不調和菌が発生しているではないか。嫉妬あり、憎悪あり、欺瞞あり、叛逆あり、奸策あり、闘争がある。何と醜悪なところであるのか。這般しゃはんの太平洋平和会議においてすら、多くもなき諸国の代表が集って角つきあわせをやり、それはまず成功をもって終われりと報ぜられているに過ぎない。現世の調和平和のごとき、およそこの類いである。

ヨハネるに、彼らはいずれも真白き衣をまとうている。純白は純潔の容姿であり、勝利の表徴である。彼らはまた一人一人が手に手に棕櫚しゅろの葉をかざしている。これまさに凱旋の旗幟きしである、各人がその戦いに勝って凱旋したのである。彼らの面貌はおごそかなる歓びに満ちている。この荘厳なる光景を目撃したるヨハネは、何ごとをか言わんと欲した。長老の一人が彼の心を察して言いでた、

この白き衣を着たるはいかなる者にして何処いづこより来たりしか

と。己れの問いを問うてくれた彼に、ヨハネは言った「それを聴きたいのです、あなたはそれを知っておられる」。長老答えていう。

彼らは大いなる患難より出できたり、
羔の血に己が衣を洗いて白くしたるものなり
。(七の一四)

この一言こそはキリスト者の何たるかを道破して遺憾なき不滅の語である。これはただ涙と血とをもって知るべきものである、全生涯をもってわがものとすべきものである。真理に生きんとする者に悩みは必然の糧である。「義しき者は患難なやみ多し」である。いかなる人が真に生きたと云うか、ただなやめる人のみが真に生きたのである。何に触れた人が本当に生きたのか、永遠の実在性は何処に感ぜられるのか、ただなやみの中にのみ永遠の実在は感ぜられる。しからざる一切のものは煙に等しい。なやみは避くべきでない、ごまかさるべきでない。安価なる現世的手段によってこれを癒さんとする者はわざわいなるかな、しかせんとする者はいまだ本当のなやみをなやんでいないのである。なやみのために自尽じじんする者は、自尽そのことの非にも拘わらず、なおはるかに虚偽者、ごまかし者にまさる。

天上のこの大集団には、真剣な戦いをなしてなやみを糧としなかった者は一人もいない。ここは閑人の楽土ではなく、戦士の天国である。見よ、勝利者の眼眸ひとみの輝きは雨後の虹霓こうげいのごとくであるを。しからば彼らはいかにしてその目ざましき戦いを戦うことが出来たのか、いかにして天国に来たり聖座みくらのもとにはべるをゆるされたのか。羔の血によってである。彼らが内外の戦いに真面目に戦いて、多くの傷を負いつつも癒され、敗れつつも勝ったのは、ただ主の十字架によってである。彼らもまた同じ罪人である、否彼らは光に接していよいよ己が罪の罪たることを知ったものである。彼らはただ羔の血によって潔められることよりほかに、潔くなる道を知らなかった。そうでなければ彼等もまた罪の中に亡びてしまうよりほか、行くべきところはなかったのである。彼ら必然ほろぶべきものが羔の愛によって救われたのである。羔の救いを信ずることのみが彼らのすべてであった。彼らはこの十字架の恩寵に涙を流して感謝して来た、従った、戦った、そして信仰の中に一度死んだものである。

この十字架の恩恵が新しき生命でないならば、むしろキリスト者たることをやめるがよい。羔の血のみが我らの衣を白くする、みじめな我々の努力の一切の戦敗をおどろくべき勝利にかえて下さるのは、彼の十字架である。十字架を知らんとする人は、ただひとりにて、敢えて十字架に往くことあるのみ。パウロしかり、アウガスチンしかり、ルーテルしかり、バンヤンしかりであった。彼らはこの羔の血に跳び込んで白き義を衣せられ、新しく立った。すべてのキリスト者はかくのごとくである。

彼ら大集団の中には迫害をこうむりて殺されし人もあり、人の知らざるところにて犠牲の羊とせられ曠野に果てし人もあり、受くべからざる責を負い罵られて失せたるもあり、その存在世にはかくれて深き悲しみと愛に生きし人もある。その顔の異なるごとくそのなやみも人々相異なる。これら大集団の人々に与えられたる勝利と平和の個々と全体、その美しさ何にかたぐおう。

アウガスチンが言ったように、人の霊魂はもともと神のためにつくられし以上、みもとに帰るまでは平安を得ない。現世の信仰生活においてすでにそのことを経験するのではあるが、しかもこの世ではついに本当に聖顔みかおを見ることが出来ない。しからば我らにとり「目醒むる時、聖容みかたちによりて飽きたることを得る」ほど、願わしきことはないのである。来世においては神と人との間の雲が消え、秋の空もその澄明ちょうめいをたとえるに足りないであろう。主にありて人は最も高き人格の交渉に入り得るであろう。来世の輝かしさよ!

このゆえに神の御座みくらの前にありて昼も夜もその聖所にて神に仕う、
御座みくらに坐したもう者は彼らの上に幕屋を張りたもうべし。(七の一五)

彼らの讃美は昼に夜に絶えない。絶えざる讃美とは、いかなる状態にあるも真実もて神につかえまつることである。神は彼らの上に幕屋を張りたもう、朽つることなき永遠の家である。彼らは神に瞳のごとく守られる。神の幕屋の平和よ!

彼らは重ねて飢えず、重ねて渇かない、日も熱も彼らをおかすことがない。神にぬぐわれるのでなくしてはついにその跡を絶つべくもない涙は、彼らの目よりことごとく拭われる。一切の悲しみの根本的除去がなされる。キリストは彼らを牧して生命いのちの水の泉に導きたもう、詩第二十三篇はさながら現実となろう。永遠の生命の 喜悦である。何たる感謝すべき生活であろうか。

パウロは信者が復活すべきことを記して信を与え、ヨハネは復活の生活を伝えて望みを贈る。共に復活したまいし主御自身の黙示である。かくて我らの信仰もただ主の聖言みことばにかかるのである。