第五章 小羊の七つの目と七つの角

T. オースチン-スパークス

「そして、私と話していた御使いが戻って来て、私を起こしたので、私は眠りから覚まされた人のようであった。彼は私に言った、『あなたは何を見ているのですか?』。私は言った、『私が見ていると、見よ、すべて金でできた一つの燭台があって、その頂に鉢があり、その上に七つのともし火があります』」(ゼカリヤ四・一~二)。

「私は、私に語りかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台を見た」(黙示録一・十二)。

「見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上に七つの目がある」(ゼカリヤ三・九)。

「だれが小さい事の日をさげすんだのか?これらの七つは喜ぶ……」(ゼカリヤ四・十)。

「御座からは、いなずまと声と雷鳴とが発している。そして七つのともし火が、御座の前で燃えていた。この七つのともし火は、神の七つの霊である」(黙示録四・五)。

「私はまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た。それには七つの角と七つの目があった。それは全地に遣わされた神の七つの霊である」(黙示録五・六)。

「すると、彼は私に答え、話して言った、『これはゼルバベルに対する主の言葉です。それはこう言います、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による」と、万軍の主は言われます。大いなる山よ、あなたは何者か?ゼルバベルの前で、あなたは平地となる。そして彼は、恵みあれ、これに恵みあれと叫びながら、頂石を運び出す』」(ゼカリヤ四・六~七)。

私はただ、これらの様々な節に含まれている明確な直接的真理、つまり、これらの象徴の背後にあるものを、まとめたいと思います。これは、これらの節について静かに黙想しさえすれば、難しいことではなく、実に簡単なことです。

神の建物

第一に、神が関心を寄せておられる建物、つまり神の家のための、礎石もしくは隅のかしら石について記されています。この石について、それには七つの目があると述べられています。私たちは他の聖書の御言葉から、この七つの目は二つの特別な点で満ち満ちた聖霊を表すことを知っています。満ち満ちた御霊の中で神によってあるべき所に運び込まれる、隅のかしら石なる方が示されており、この石は霊的視力と霊的力に満ちています。建物全体が、この隅のかしら石からその特徴を受け継がなければなりません。この建物はそれにしたがったものになります。

次に、ゼカリヤ書では、大いなる山によって示されている多くの大きな困難について記されています。この建物、この神の御旨の完成の道には、山のような困難があります。この山は、神の意図に反して立ちはだかるあらゆるものを意味するのかもしれません。この家を建てるという神の意図に盾突いて、できれば挫折させようとするものや、あるいはそのすべてを意味するのかもしれません。

しかし次に、頂石について記されています。この頂石は「恵みあれ、これに恵みあれ」という叫びと共に運び出されて、完成された建物の上に据えられます。あるいは、この頂石によって建物が完成します。これには二つのことが関係しています。一つは、七つの目が喜ぶことです。「これらの七つは喜ぶ」、つまり最後に見る目が満足するのです。もう一つは――「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって、と万軍の主は言われる」ことです。これは前回の黙想で見たこと、すなわち獅子から小羊への形象の変化に対応しています。人が考えるような権勢によってではなく、人が言うような能力によってでもなく、「わたしの霊によって、と万軍の主は言われる」のです。

私たちは神の隅のかしら石である主イエスから始めなければなりません。この御方にあって、神の完全なビジョンが示されます。簡単な言葉で述べると、主イエスは神の御旨の始めなのです。神の完全なビジョンはこの御方の中に見いだされます。この隅の石の七つの目は、主イエスは神の始まりであることを、そして、彼における神の始まりは、完全な啓示、完全な知性、完全な霊的ビジョンであることを、まさに物語ります。次に、主イエスは頂石です。この頂石が運び込まれる時、このビジョンは完全に実現され、霊的知性は完全に満足し、神が意図し求めてこられたことはすべて主イエスにあって達成されます。この両者の間に、一方において、あらゆる障害、あらゆる困難、大いなる山があり、他方において、「わたしの霊による、と万軍の主は言われる」ことがあります。ですから、一見難しそうに見える象徴は、結局のところ非常に単純なのです。黙示録で私たちは、七つの目は小羊のものであることに注目しました。「ほふられたばかりのような小羊(中略)それには七つの角と七つの目があった」。ですから、聖霊の全き力によって実現される、主イエスによる神の全き啓示は、十字架すなわちほふられた小羊によるのです。さて、このすべてを一つか二つの点に分解して、直ちに私たち自身に適用しなければなりません。

完全なビジョン

すでに述べたように、七つの目は完全なビジョンを物語ります。そこから主は建造を開始されます。建造はそれをもって始まります。霊的ビジョンによらないかぎり、霊的増し加わりや建造はなく、神の全き御旨への前進もない、というのが一つの法則です。霊的ビジョンが不可欠です。通常、人々は霊的力を第一に置きます。主は力を第一にはされません。ビジョンを第一にされます。

主は弟子たちに力を与える前に、ご自身に関する知性と霊的ビジョンという基礎を据えるべく、たいそう苦労されました。主は、私たちが理解なく力を持つことを望んでおられません。それは危険なことです。私たちはまず、力を探しに行きます。神の働きをするための力を欲します。どんな働きでしょう?ああ、主のためになされるべきだと自分で思っていること、主の働きであると自分で確信していることです。しかし、それでは十分ではありません。主は力の前に知性を求めておられます。知性なき力は危険であり、無駄が多いです。復活後の四十日間、彼は、復活した彼が何者なのかを真に理解するための基礎を、この弟子たちの中に据えようとしておられました。彼の最後の三年半は、悲惨な無知の状態で幕を閉じました。エマオへの途上、次のことが完全に明らかになりました。すなわち、彼が話されたことや行われたこと、弟子たちが彼と一緒にいたときに見たり聞いたりしたことを、結局のところ、弟子たちは実際には見ていなかったのです。すべてが彼の死と共に崩れ去りました。「私たちは、イスラエルを贖うのはこの方であると、信じていました。しかも、その上、これらの事が起こってから、今日が三日目です」(なにもかもなくなってしまいました!)。「……そして彼らの目が開かれた」。次に、彼は彼らの理解力を開かれました。これはこの四十日間のことでした。これを主は行っておられたのであり、その後ペンテコステが臨んだのです!

私たちはよく「あなたたちは力を受けます」という点から始めます。私たちはいつもそこから始めたいのです。主は力のための良い基礎を望んでおられること、そして、それは霊的ビジョンであることを、私たちは覚えておかなければなりません。私は、聖霊から離れて霊的ビジョンを持つことができる、と言っているのではありません。この七つの目は完全なビジョンであって聖霊を表している、と言っているのです。これが聖霊の第一の面です。命の御霊が来臨される時、御霊の次の活動は光です。力はその後です。ですから、第一に必要なのは光です。光あれ!

さて、私たちが聖霊によってビジョンを持つことが、「家」に対する神の御旨(これは神の至高かつ包括的な御旨です――「私たちはその家なのです」)に関してとても重要な点です。「ビジョンがない所では、民は滅びる」(箴言二九・十八)。「わたしの民は、知識に欠けるゆえに滅びる(滅ぼされる、改定訳)」(ホセア四・六)。主はこう言われました。

ああ、もし御旨を一目でも見るなら、私たちは力に関して主に求める根拠を得ることになります。なぜなら、力は御旨に関連して働くからです。それは、主のために行いたいと感じることならなんでも行うための一般的な力ではありません。御旨に関連する力なのです。

これに関して言葉を重ねたりせずに、私はあなたにお勧めします。この問題に関して次のように主に実際に求めてください。どうか主が、御霊の充満により、彼を知る知識を得させ、自分に対して啓示の霊となってくださいますように、と。私たちの中には、何年も力を主に求めた末に、これを経験した人もいます。私たちは夜通し主を求め、夜明け前に起き、何年も力を求めました。「霊的力」というこの言葉を主の御前で常に口にしていましたが、何も起きませんでした。しかし、ついに神の御旨の啓示が私たちの上に臨む日が来ました。私たちは神の御旨を知り、その時以降、御霊の働き、御霊に伴う働きについて、いくらか知るようになりました。御霊の全き力を知るようになった、と言うつもりはありません。事が起こり始め、活動が生じました。人生は変えられ、人々は求め始め、何かを認識しました。神の御旨を見始めた日から、人生はひっくり返りました。神の力はそのように臨んだのです。

私はあなたに強く言いたいのですが、見ることなしにはあまり大して進めないでしょう。命の御霊の最初の働きはビジョンであることを、私たちは理解しなければなりません。ヨハネによる福音書にもそうあります。ご自身の内に命を持っておられる方が命として来られた時、光が働き始めました。そして次に、光と闇が分けられました。光よりも闇を愛した人々もいましたが、光を求める人々は彼のもとに来て、彼と共に歩みます。彼は光です。彼は盲人の目を開かれます。

さて、個人であれ、また地方的・普遍的教会であれ、私たちが霊的に成長して霊的に成熟するには、常に命が第一です。命と光がなければなりません、つまり、一般的な意味においてではなく、神の御旨に関するビジョンがなければなりません。啓示、霊的ビジョン、神の御旨を見ること――これは何と途方もないことでしょう!――に対する、主の民の間におけるこの必要性は、どんなに強調しても強調しきれません。ビジョンは不思議な働きをします。ビジョンがパウロをどうしたのかを見てください。彼のクリスチャン生活の始めに、あの光のせいで彼の天然の目は見えなくなりましたが、彼の心の目は照らされて、神は彼の内に御子を啓示されました。主イエスと彼が何者なのかについての、そして彼に関する神の御旨についての啓示によって、タルソのサウロの場合、他の何ものもなしえなかったであろうことが起きたのです。

タルソのサウロを狂信的なユダヤ教から解放できるものは、宇宙の中で内なる啓示しかなかったと思います。内なる啓示はこれをなしただけでなく、他の多くのこともなしました。私たちには聖霊によるビジョンが必要ですが、これが御霊が来臨された目的であることを覚えておきましょう。聖霊は小羊の働き、つまり十字架のゆえに来臨されました。この基礎に基づいて、聖霊は来臨して神の御旨を啓示されます。

これにより私たちは次の単純な基本的事実を再度認識させられます。すなわち、御霊が豊かに働いて霊的啓示とビジョンを与えられるようになるには、私たちの内における小羊の働きが必要なのです。私たちの内に十字架が必要なのです。多くの人が霊的ビジョンと啓示を受けるのを妨げられているのは、彼ら自身の理屈のせいです。それが邪魔をしているのです。自分の考えのせいで、彼らは神の御考えを見ることができません。この点については、あまり詳しく追及する必要はありません。神の御旨を見るには、私たちに何かが起きなければならない、と包括的に述べることができます。この道を進んできた私たちはみな経験してきたことですが、まず、私たちと主イエスの十字架とに関して何か大いに抜本的なことがなされたのです。

主はまず私たちを導いて、ローマ六章を見るようにしてくださいました。ローマ六章を見るとき、何かが起きますし、現に起きています。見ることはれっきとした行為なのです。ローマ六章を説教し、ローマ六章について講義し、ローマ六章を聖書の一節として知り尽くせたとしても、ローマ六章を見ていないおそれがあります。ローマ六章が自分に啓示されることは、ものすごいことなのです。キリストが死なれた時、私たちも死にました。そして――多くの人になじみのある古い表現を使うのを許してください――私たちが罪人として死んだ時、私たちは士女としても死にました。私たちのほとんどは、大いに進んで罪人として死にますし、罪人として道からどくことを大いに喜びますが、士女として死ぬのは全く別の話です。以前のようには罪を犯していない人だけでなく、イエス以外の者は皆なのです。ローマ六章は、キリストと共なる私たちの死・キリストにおける私たちの死という基本的事実を啓示します。それが基本的な事として私たちの経験の中に起きたのです。主は頻繁に、私たちをそこに導くために、とても多くの予備的御業をなさなければなりません。ああ、そうです、私たちのだれ一人として、模範になれるような立場や知識を持っていませんが、私たちの中には、これについてある程度知っている人もいます。

あなたたちに慰めと励ましを与えるために言いますが、私はと言えば、私は何年もローマ書やエペソ書を他のすべての書と同じように説いてきました。しかしその後、主は転機に向けて働き始められました。その転機は次のことを意味しました、「私たちはこれ以上先に進めません。これ以上説教を続けられません。これ以上主のために働き続けられません。これ以上クリスチャンであることを告白し続けられるかどうかは疑わしいです」(これは、私たちは再生されていなかったということではありません。主は私たちの再生以上のことを心に抱いておられたということです)。すべてが終わったかに思われる日が来ました。その日、ローマ六章が内側に啓示され、それによってこうした主の奇妙な取り扱いの説明がついたのです。主は、ローマ六章の啓示を実りあるものとするために、多くのことをなさったのです。なぜならもともと私たちは、どうしても必要でないものからは実際に益を受けられないからです。それに直面しないかぎり、私たちはその益を真に得られる状態にはなりません。それが私たちを救う唯一のものとなるまで、主はそのように働かなければなりません。それが何か私たちにはわかりませんが、主はそれを啓示してくださいます。主はそれに向かって働いてこられました。その時それはなされます――十字架が、私たちに対する神の深遠な驚くべき取り扱いの背景を、まさに明らかにしたのです。

その時、私たちに何が言えるでしょう?こう言えるだけです、「主よ、あなたが私にしてこられたことに照らして見ると、唯一合理的なことは、私がローマ六章を受け入れることです。私はこのような者であり、このような有様であり、このような状態ですから、私に対するあなたの取り扱いに照らして見るとき、私はあなたが私を終わらされたという事実に逆らえるでしょうか?」。これは新しい状況ではありません。キリストが死なれた時、神はこの状況に直面されました。御霊の力が、まず第一に、啓示という線に沿って豊かに臨むには、私たちの内にこれが起きることが必要です。主がこれを成し遂げて私たちをそこにもたらされる時、新しいビジョン、新しい啓示が私たちの上に臨みます。次に霊的経験については、御言葉にあるように、順番として、教会の啓示が十字架に続きます。神の家の啓示、神の御旨の啓示が続きます。このような順番です。何かがなされてこの啓示のための道を造り、次にその啓示が与えられ、その後、新しい力が臨んで御旨に関して働くのです。

これらは事実であり、私はあなたたちにこの問題で主と取引するようお勧めします。もしあなたが「自分はこの立場をかなり前から取ってきた」あるいは「自分はこの立場を取ってからまだそれほど長くない」と感じているなら、主にこう求めてください、「私は死・葬り・復活におけるキリストとの一体化が意味するところをすべて受け入れています。ですから、この根拠に基づいて、私には御旨に関する新たな啓示を受ける権利があります」と。これはあなたの権利です。そのために立ちなさい。主に求めてください――神が求めておられるものに関する、一般的なかたちではなく明確なかたちの、新たな光、新たな啓示を求めてください。これはみな、御霊の充満による完全なビジョンと関係しています。

今、あなたはおそらく御霊の充満を求めているか、あるいはすでに求めておられることでしょう。それはたんなる抽象的な曖昧なものではないことを覚えておいてください。御霊の充満は、第一に、神の御旨についての知識と、霊的知性と、霊的ビジョンと関係しています。次に、もちろん、神が求めておられるものを見る時、ビジョンと啓示を持つ時、あなたは山に出会います。神の民に関する神の全き御旨、教会と密接な関係にある神の完全な御旨を見る時、ああ、山――山々の連なり――が現れるのです!一体全体、どのようにこの御旨は実現されるのでしょう?それは乗り越えるべき一つの山です。どうすれば乗り越えられるのでしょう?この疑問が生じたために、色々な人が色々な理論に訴えてきましたが、結局のところ、そのビジョンを薄れさせただけでした。「ああ、すべてが廃墟の中にあって絶望的です!それ以上のものは期待できません!ありのままに受け入れなければなりません!」。なぜでしょう?あの大きな山のためです。どうして?状況を鑑みてです――どうして?山が立ちはだかっているからです――敵がそうしているからです。

ヨシュアとカレブが良き地について報告した時、ある人々は高い城壁と巨人たちしか見ませんでした。それは決定的であり、それで決着でした。神の御旨はすっかり放棄されてしまいました。そこには高い城壁があり、巨人たちがいます!これが、ある人々にとっては、議論の最後の言葉です。どうか覚えておいてください、サタンは、そのビジョンが実現されないよう、できればそれを阻止しようと、力のかぎりを尽くし、策略のかぎりを尽くしているのです。霊的ビジョンほど、サタンの反感を買うものはありません。主の民の間に真の霊的光があるところでは、現実の霊的戦いもあります。そこではサタンがあらゆる手段で執拗に働いています。これはなぜでしょう?見えていることは途方もないことであり、サタンは心を盲目にするこの時代の神です。彼の働きは盲目にすることであり、あなたの目が開かれるとき、彼はおしまいです。ですから彼は常に、霊的ビジョンを持たない状態に神の民を保とうとします。啓示は戦いの領域です。これを忘れないでください!

黙示録では、これが勝利者たちの真の力です。実際のところ、勝利者の明確な特徴とは何でしょう?教会は全般的にビジョンを失いました。神の全き御旨に専念するのをやめてしまって、主のための多くの事柄、多くの善事に専念しています。主は言われます、「それらのものは――ものとして――あるべき所にあるなら問題ありません」と。その人々は言うでしょう、「まあ、こういう状況ですから、より良いものを目指しても無駄です。より良いものを望んだり求めたりしても無駄です。今あるものを最大限に活用しなければなりません。自分にできることをしなければなりません」と。これが今日の一般的な教会です。そして、あなたが一般的なもの以上の何かを求めて出かけようとすると、「あなたは理想主義者だ」とか「他の人々と違うことをしようとしている」といった、ありとあらゆることを言われることになります。しかし、それが勝利者なのです。勝利者とは実質的にこのような者なのです。

主の民の大多数は、神の全き御旨よりも劣るもので満足しているかもしれません。彼らはおそらく、多かれ少なかれ、楽しい時を過ごしています。彼らは代価に直面していません。より多くの代価を払う必要はありません。全き御旨の中で神と共に歩もうとする人々の上に臨む多くの事柄から自由です。これについて私はどうしましょう?この立場を受け入れるべきでしょうか?多かれ少なかれ一般的なものに屈するべきでしょうか?それとも、分離・追放された少数者の立場を取って、神の全き御心のために神と共に進み続けるべきでしょうか?これが勝利者です。勝利するとはこういうことです。そこにすべて集約できます。勝利者とは、神の全き御旨に満たない何ものにも満足せず、代価を払う覚悟のある人のことです。その代価は大部分が、主の民自身によって課されるものです――ここに困難が存します。ここに十字架がいっそう深く適用されるのです。

完全な力

この別の面があります。それは全き力です。全きビジョンが不可欠ですが、七つの目があるだけでなく七つの角もあります。また、大きな山がある一方で、「『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊による』と、万軍の主は言われます」という御言葉があります。ビジョンを与えるこの同じ御霊には、それを実現する力もあります。隅のかしら石であるこの同じキリストは、頂石でもあられます。そして彼は、それを完成させるために、「恵みあれ、これに恵みあれ」と叫びながら、頂石を運び出されます。彼はアルファであるだけでなくオメガでもあり、初めであるだけでなく終わりでもあられます。「『わたしの霊による』と万軍の主は言われます」。すべては神の霊のエネルギーの中でなされるのです。

神の全き御旨に関して自分自身で何かをしようとしても、先行きは暗いでしょう。もしそれが私たちに任されていたなら、お先真っ暗だったでしょう!しかし、神はほむべきかな、そんなことはありません。もし私たちが神の全き御心と一致しているなら、私たちは力の御霊の充満の道にある、と考えて差し支えありません。私たちはそれを自覚していないかもしれません。私たちは言うかもしれません、「しかし、もしそうなら、きっと何かを意識するにちがいありません。人であれ、会衆であれ、何も感じずに聖霊に充満されることはありえないにちがいありません!」と。「私がこの素晴らしい獅子を見ようと振り返ると、ほふられたばかりのような小羊を見た……」。ほふられるとはどんな感じか、あなたにはわかるでしょうか?それが勝利する道であると御言葉は述べています。克服されるべきものが何かを見るとき、それは無限の力の道であることがわかります。勝利するのは小羊です。しかし、小羊は何に勝利するのでしょう?あなたが真に聖霊の力強いエネルギーの中に、朽ちることのない命の中にあっても、その力を全く意識しないこともありえます。そこで多くの人々は勘違いして、信仰を失ってしまいます。私たちの経験からすると、また原則からすると、往々にして神は、僕が弱り切っていて、それを意識している時に、最大の御業をされるのです。

私たちにとって最悪の時は、往々にして、神にとって最善の時であり、私たちがよい時を過ごしていると思っている時、神は必ずしもそのような良い時を過ごしておられるわけではありません。彼の力は弱さの中で完成されます。これを、弱さが神の力に変わることを意味する、と解釈しないでください。これは次のことを意味します。すなわち、弱さが現存するということ、また、依然として弱さがある一方で、主の力が完全に働いているということです。当事者は弱さを感じているかもしれませんが、それを超えたところに主の力が感知されるのです。御霊の強力な力を感じなければその力は働かない、と思わないでください。

私たちが主にささげるべきは、十字架につけられた人生、十字架につけられた人、そして主への信仰です。私たちの弱さを通して主の力が働きます。主の栄光は、いかなる肉にも与えられません――決して与えられません!栄光の御霊は、へりくだるものの上にとどまられます。

これは厳しい教えであり、受け入れるのは困難です。あなたたちは、「これはひどい言葉だ。だれがこれを受け入れられよう?」と言い、つまづいて去って行くのでしょうか?私たちが受け入れても受け入れなくても、次の事実は残ります。すなわち、それがすべてなされて、私たちが神の素晴らしい達成に到達する時、私たちは「あなたはふさわしい!あなたはふさわしい!」と言うであろう、という事実です。これが意味するのは、「素晴らしい!そんなことが可能だとは思いもよりませんでした!」ということにほかなりません。なぜでしょう?それをなした人々を見てください!彼ら自身は、力強い素晴らしい人々の綺羅星ではないでしょう。それはまさに、無に等しい人々を通してなされるでしょう。主は彼らが無に等しいことをご覧になりました。すべての栄光は主に帰されます。覚えておいてください、結局のところ、賛美が帰されるのは獅子ではありません。小羊です。主よ、それが意味するところを私たちに示してください!