第一章 最初の者であり最後の者であるイエス・キリスト

T. オースチン-スパークス

「主なる神は言われる、『わたしはアルファでありオメガである。今おり、昔おり、やがて来ようとしている者、全能者である』(中略)私は彼を見た時、彼の足もとに倒れて死んだようになった。すると、彼は右手を私の上に置いて言われた、『恐れるな。わたしは最初の者、また最後の者、また生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている』」(黙示録一・八、十七~十八)。

「最初の者また最後の者、死んだが再び生きた者が、こう言われる」(黙示録二・八)。

「わたしはアルファでありオメガである。最初の者であり最後の者である。初めであり終わりである」(黙示録二二・一三)。

「また御使いは、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民のいやしのためにある。もはや呪いはない。神と小羊の御座がその中にあり、彼の僕たちは彼に仕える。そして彼らは彼の御顔を見る。また彼の御名が彼らの額にある。夜はもはやない。彼らにはともし火の光も太陽の光も必要がない。主なる神が彼らを照らすからである。そして彼らは永遠にわたって支配する」(黙示録二二・一~五)。

この「最初の者であり最後の者である。初めであり終わりである」という句・称号が、しばらくの間、私たちの黙想の主題となります。私たちはこの言葉が意味するところを、少しかもしれませんが、見てみようと思います。「最初の者であり最後の者である。初めであり終わりである」。二二章冒頭にこの節の結末が記されていますが、これはこの特別な文脈で大きな助けになります。なぜなら、ここでは、この素晴らしい驚くべき書の最後に近づくにつれて、この書の内容のまとめに近づくことになるからです。お気づきのように、この点以降、かなり一般的な適用、警告、勧めがなされていますが、黙示録二二・一~五のこれらの節では、すべてが解明されて究極的完成に至ります。これらの節は私たちを初めに連れ戻し、そしてそのまま最後にまで導きます。当初から神が抱いておられたみこころを私たちの前に示し、最後に実現されるこの神のみこころを示します。これは素晴らしく包括的な節です。

わずかな文章で、すべての時代の目的が明らかにされています。私たちは、神が最初から御心に抱いておられたものの中に浸ることを許されますし、神がそれに到達して最後に見事に実現されるのを見ることを許されます。この書全体に照らして考える時、それはすべて主イエスに集約されること、そしてそのような意味で彼は最初の者であり最後の者であり、初めであり終わりであることがわかります。神が最初から抱いておられたみこころから発しているものはみな、御子を中心としており、御子を通して実現されます。そして、最終的にすべては御子の中へと集約されます。ひとりのパースンが黙示録を支配しています。黙示録は、創世記一・一から諸時代の終わりと代々の時代の始まりに至るまでのすべての歴史を網羅します。黙示録は創世記以降の歴史全体を網羅していることを、あなたは理解していたでしょうか。どうしてそうなのかは、先に進むにつれていくつかの手がかりからわかるようになります。

創造者である神の御座

ここにいくつかの文言、いくつかの明確な句があります。「神と小羊の御座」です。これは、一言で言うと、ご自身の宇宙における神の完全かつ決定的な誉れある地位です。これが永遠の御旨です。これは、神は至高・全能の神になられるということではありません。神はこれまでずっとそうでした。なにものもこれを変えられません。歴史はこれになんの影響も及ぼしません。しかし今や、当初の御旨どおりになります――神はご自身の宇宙の中心で完全かつ決定的な誉れある地位に就いておられます。ご自身の宇宙から認められ、喜ばれ、敬意を表されます。全宇宙がそれに同意し、それを受け入れ、喜び、あがめます。この書を読み進んで行くと、これが何度も出てくることがわかります。神への礼拝、宇宙的礼拝が出てくるのです。それは、永遠かつ全能の主権を持つ孤高の存在というだけでなく、今や彼がご自身の宇宙の礼拝の中心であるということです。神の御座――これが最後に出現しますが、これは最初からそうだったのです。

しかし、この文章は「と小羊の」で終わっています。これにより、四章と五章に連れ戻されます。覚えておられるでしょうが、これらの箇所では賛美の大きな対象が二つあります。「四つの生き物が、御座に座している方に、永遠にわたって生きている方に、栄光と誉れと感謝とをささげると、二十四人の長老たちは(この二十四人の長老はすべての経綸の人々の代表であることを思い出してください)、御座に座している方の御前にひれ伏し、永遠にわたって生きている方を礼拝する。そして、御座の前に彼らの冠を投げ出して言う、『私たちの主また神よ、あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしいです。あなたは万物を創造され、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、創造されたからです』」(黙示録四・九~十一)。

これは創造者である神の御座です。神はみこころの大いなる喜びにしたがって万物を創造され、今ようやくその被造物の中心となられます。彼の誉れを称えるこの被造物の礼拝の中心となられます。

しかし次に、黙示録二二章の文章の残りの半分を考慮しなければなりません。すると、五章にこう記されていることに気づきます。「また、私は見た。そして、御座と生き物と長老たちとの周囲に、多くの御使いの声を聞いた。その数は万の何万倍、千の何千倍であった。それは大声で言った、『ほふられた小羊は、力と富と知恵と勢力と誉れと栄光と祝福とを受けるにふさわしい』。私はまた、天と地と地の下と海の上とにいるすべての被造物と、その中の万物が言うのを聞いた。『御座に座している方と小羊に、祝福と誉れと栄光と権能とが、永遠にわたってありますように』。四つの生き物は『アーメン』と言った。そして長老たちはひれ伏して、礼拝した」(黙示録五・十一~十四)。

贖い主である小羊の御座

さて、その特別な意味を知りたいことでしょう。この章の前の方に「あなたはふさわしい」とあります。なぜでしょう?「あなたはほふられて、勝利し、あなたの血によって贖われました」。神と小羊の御座です!神は創造され、小羊は贖われました。神は小羊の血のゆえにご自身の地位と権利を獲得されました。これが数語で述べた物語の全容です。神の御座と小羊の御座!ですからこれは、小羊の血による永遠からの神のみこころの勝利です。そして、小羊は全能者と一体のものとしてその傍らにいて、神が永遠から御心を定めてこられたあの偉大な御旨を保全しておられます。これは包括的であり総括的です。この意味で、彼は最初の者であり最後の者です。御座が最初であり最後です。彼は最初にこの御座に就かれました。ご自身の血によって、この誉れの御座が意味するところをすべて確保されたからです。これについては、間もなく、私たち自身に適用することにします。これはたんなる客観的な黙想ではありません。先に進むにつれて、この箇所に記されている一つか二つの点について見ることにします。

御座から流れる命の水の川

「御使いは、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた」。この象徴は明確に次のことを私たちに告げます。すなわち、神が御旨を達成される時、そして神が意図されたとおりに事が運ぶ時、その支配的特徴は朽ちることのない命なのです。神の宇宙全体にわたって、命、水晶のように透明な朽ちることのない命が、その特徴となります。これもまた永遠の御旨です。これが創造のときに神が宇宙に対して御心に抱いておられたことです。これを人は失い、逃しましたが、「一人の人によって死が来たように、ひとりの人によって死者の復活も来たのであり、ひとりの人によって命も来たのです」。「わたしは最初の者である」、すなわち当初からの神の御旨です。「また最後の者である」――ここで神の御旨が実現されます。主イエスを通して、その血を通して、水晶のように輝く、この朽ちることのない命が、最後に神の宇宙を満たします。「神と小羊の御座から流れる」という象徴的表現は、この真理を如実に示していることがわかります。神の朽ちることのない命が今や宇宙に向けて解き放たれています。小羊と小羊の血とのゆえです。神の御子の朽ちることのない命のゆえです。「わたしは最初の者であり最後の者である。初めであり終わりである!」。

これは力強い勝利です。この御座はたんなる受動的なものではありません。この書全体を通して、この御座は強力なものです。力強い征服の象徴であり、支配的なものです。神の宇宙における他の敵意がすべて鎮圧される時、この御座は力強い勝利の象徴として立ちます。この勝利は小羊の血によります。これが黙示録全体を貫いています。「彼らは小羊の血によって彼に打ち勝った」。これは解放された命、朽ちることのない命です。私は堅く確信していますが、私たちの心は今日、この宇宙が朽ちることのない命で溢れる日を早めてください、と新たに祈っていることでしょう。なぜなら今日ほど、神の宇宙がこの堕落した被造物の腐敗によって苦しんでいる時はなかったからです。ああ、なんという腐敗!毎日、腐敗が新たに現れます。不敬虔な人々ですら、この被造物の腐敗や腐敗した命の現れ、出現、流出を前にして反発しています。神はほむべきかな、小羊が勝利されました!「わたしは生きている者である。わたしは死んだが、永遠にわたって生きている」。「わたしは最初の者であり最後の者である」。私たちの心は祈りに向かいます、「主よ、朽ちることのない命がこの被造物を満たす日を早めてください!」。小羊の勝利が、あの命の水の川において遍く示されるのです。

命の木

「その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民のいやしのためにある」。これについて述べる必要があるのはただ、それは呪いを征服するということです。「もはや呪いはない」――文字どおりには「もはや呪われたものはない」です。創世記から始めて被造物の歴史全体を振り返って見さえすればいいでしょう。命の木からその葉や実が取られたことは一度もなく、キリストが来られるまで人はそれを決して享受しませんでした。呪いが入り込みました。その印は何でしょう?私たちは聖書による呪いの絵図により、また呪いの現れにより、呪いは常に不毛さ、損失、死による失望を意味することを知っています。すべてが死によって損なわれ、死によって中途で断ち切られます。死によってすべての希望が失望に終わります。死とはあの冷たい手であり、その手は実が熟す前に、完成に至る前に、その実をつかんでもぎ取ってしまいます。呪いとしての死により、その実は熟す前に木から落ちてしまいます。その存在目的、その造られた目的を全うするものはありません。

それに対して、ここに命の木があります。この木は主イエスご自身です。ここには豊かな実りがあり、豊かさだけでなく継続性もあります。この象徴はここでは次のことを示唆します。すなわち、豊かな実りを得るだけでなく、一つの実を得るやいなや、次の実がなるのです。数字の十二の意味はご存じでしょう――完全な統治です。ここには命による実り豊かさの継続的支配があって、どこにも呪いの痕跡はありません。命の木は、最初であり最後であり、まさにご自身の被造物に対する神の御旨です。今日これについて黙想することに何の差し障りもありません。そうするなら、このような時代にある私たちは励ましを受けるでしょう。ああ、一言で言うと、呪いが永遠に取り除かれる時、完全な全き満足が得られるのです!しかし、覚えておいてください、呪いの除去は小羊のおかげなのです。命の水は神と小羊の御座から発します。そして、この水はこの木の命です。この木はこの水のおかげで実を結びます。私たちはエゼキエル四七章に連れ戻されます。命の大河と、その両岸にある葉も実も決して落ちることのない木々。そして、ここでは、主イエスがそのような方なのです。

その僕たちは仕え、支配する

ここにもう一つの句があります――「彼の僕たちは彼に仕える。そして彼らは彼の御顔を見る。また彼の御名が彼らの額にある。(中略)そして彼らは永遠にわたって支配する」。永遠にわたって支配するのです!私はこの意味に関する知的絵図を描きたいとは思いません。私は堅く確信していますが、それが文字どおりのものなのかどうかに、私たちはあまり関心はありません。私たちの心はパウロのささやかな句に引き寄せられて、それに大いに感じ入って魅了されます。「あふれるばかりの恵みと義の賜物を受ける者たちは、なおさら一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で支配するはずです」。命の中で支配します。君臨する命、勝利する命です。これが展望です。これが、最初の者であり最後の者であり、最初であり最後である方にあって私たちの前に示されていることです。

永遠の御旨

この五つの節を黙示録二二章から取り出して黙示録全体の冒頭に置くなら、この書に対する鍵が手に入ります。今、そうしてはどうでしょうか。この五つの節から成る小さな区分を取って黙示録の冒頭に置くなら、この書全体に対する鍵を手に入れることになります。私は、いつこれが起こり、いつあれが起こるのか、あれやこれをどう配置すればいいのかに関する、預言の学徒たちの質問にすべて答えられるようになる、と言っているのではありません。そうしたことにはますます関心が薄れていきます。なぜなら、命がそのような筋道で臨むとは私は感じないからです。

多くの混乱があります。黙示録に関する多くの解釈に取り組む時、往々にして旧創造が現れ始めます。私たちにとってこの書が他の何ものにもまして一つのことを意味するとしたら、それは命を意味してしかるべきです。なぜなら、命こそが一章から――「わたしは生きている者である」とあるように―― 一貫しているものだからです。これはまったく命の問題です。この命は小羊の血を通して支配し、勝利し、打ち勝って、最後には輝かしい結果になります――命が至る所にあって死はもはやなくなるのです。「もはや死はない」。

ですから、黙示録を享受して恐れたくなければ、このような方法でこの書に臨めばいいのです。この段落を前に出して、それにこの書のそれ以降の箇所をすべて支配させなさい。もちろん、すでに提案したように、お望みならもっと前に遡ってもかまいません。遡って創世記一章に置くこともできます。なぜなら、黙示録は創世記一章以降の歴史だからです。つまり黙示録は、罪、神に対する敵意、サタンの働き、諸国民の誤ちなど、すべての過程に触れているのです。黙示録はそれをみな最後の経綸に集約します。最初を仰ぎ見ます。ですから、この区分は聖書のすべてに対する鍵なのです。この書に対する鍵なのです。この区分は神が創造のときから何をずっと目指してこられたのかを、きわめて明確に教えてくれます。自分の聖書を手にするとき、あるいは自分の黙示録を手にするとき、それがいったい何なのかを知りたければ、心の中で「これはいったい何なのか?」と自問してください。もしそのような立場を取ったことがないなら、そうすることはとても助けになることがわかるでしょう。自分の聖書を手に取って、その中のどこかの箇所を読む時――どの箇所かは重要ではありません――「これはいったい何なのか?」と自問してください。そうするなら、あなたの聖書全体、あるいはあなたの聖書のどの部分でも、その問いに対する一つの答えに帰着させることができます。これはまったく、ご自身の宇宙で命が勝利しなければならないという神の御旨に関する問題です。お望みなら、これを別の言い方で述べてもかまいません。しかし、これが問題です。すなわち、死ではなく命――朽ちることのない命――が神の宇宙中を支配しなければならないのです。今や、聖書のどの箇所もこれを確証します。

私たち自身の個人生活や神との歩みにおける、あなたや私に対する神の取り扱いはみな、これに関するものです。しかし、これは宇宙の歴史のある時点や日時にもたらされるものではないことを、私たちは認識しなければなりません。これは今、神が私たちの内になさっていることなのです。神はあなたや私の内に何をなさっているのでしょう?私たちに対する彼の取り扱いの目的は何でしょう?なぜ彼は、このような火のような試練がすべて私たちの道に臨むのを許しておられるのでしょう?なぜ彼は、敵が私たちに対して大きな自由を持つのを許しておられるのでしょう?聖徒らの経歴はどうしてでしょう?彼らに小羊の血の意味を教えるためです。言い換えると、小羊の勝利の益にあずからせるためです。その益とは、いま勝利する命です。新しい天と新しい地の到来を待つまでもありません、あなたも私も今、別の命によって生きることを教わっているところなのです。この旧創造に属する命ではない命です。神の御子の命である命です――「私は今、肉体の中で生きているその命を、私を愛し、私のためにご自身を与えてくださった神の御子の信仰の中で生きるのです」(ガラテヤ二・二〇)。

これはすべて現在に適用されます。先に進む前にこれを認識することが重要です。この命はまさに私たちの中にあります。なぜなら、命の木が私たちの内にあるからです。あるいは別の言い方をすると、勝利したキリストが私たちの内におられるからです。自分の内に命があるという輝かしい事実によって、もっともっと生きることを学ばなければなりません。この命はあの旧創造の命ではなく新創造の命です。私たちの内には朽ちることのない命があり、私たちはこの命によって支配することを学ばなければなりません。こういうわけで、この黙示録の中に入るとすぐに勝利者が登場するのです。

すでに指摘しましたが、この区分を黙示録の冒頭に置いてすべてを支配してもらうなら、神が何に向かって働いておられるのかがわかります。この結末を前に持ってくると、いったい黙示録は何に関するものになるでしょう?黙示録はすべて、神と小羊の御座、水晶のように輝く命の水の川、命の木、永遠に支配する彼の僕たちに関するものなのです。これが神がずっと心に抱いておられたものです。これを前面に出して、すべてをその光の中で見ようではありませんか。

永遠の御旨の光の教会への適用

七つの教会への七つのメッセージは、いったい何なのでしょう?それらはみなこれについてです。お望みなら、それを分解して、各教会に具体的に適用することもできますが、その最終的結果を見ると、それはこれです。腐敗させるようなことが起きて、そのせいで勝利の命の証しが無効化されました。これが問題です。諸教会に対する包括的・総括的なメッセージは、「勝利の命の立場に戻りなさい!この腐敗を取り除きなさい!勝利しなさい!」です。

どのように勝利するのでしょう?勝利者とは何でしょう?第一に、勝利者とは、その人の中で朽ちることのない命が最高位に立ち、その道を保持し、腐敗をもたらそうとする敵のあの絶え間ない企てに勝利する人です。これに神は取り組んでおられることを、ぜひ理解していただきたいと思います。御旨を前面に出すなら、これがわかります。神は、ご自身の御旨や意図に基づいて、すべてを取り扱っておられます。裁きは神の家から始まらなければなりません。ですから、諸教会も、あなたも、私も、主の民すべてが、小羊の血の意味に向き合わなければなりません。では、その意義は何でしょう?しみも傷もない小羊の血は、キリストの朽ちることのない命です。この命は解放されて、私たちに与えられています。「人の子の血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません」。主の食卓に着くたびに、私たちはこれを証しします。杯を取るたびに、私たちは次の事実を証しします。すなわち、私たちは彼の命の受け手であること、彼の命は朽ちることのない命であり、この命は他のあらゆる形態の命とは異なっていることです。それは唯一無二の完全な命です。それはたんなる形式ではなく、証しです。教会、諸教会、神の民は、これを自分たちの証しとして維持するよう求められています。

生ける七つの炎を持つ燭台。旧約聖書のように一つの中心的な燭台の代わりに、七つの完全な燭台があります――七が七つあります。燭台の枝の一つを取ってエペソに置き、別の枝をどこか他所に置いて、七つの枝を分配するに至ったわけではありません。いいえ、どの場所にも七つあります。それは、生ける炎としての霊的証しの完全性です。それはどのような炎、どのような命でしょう?それは小羊のこの勝利の命です。それは生ける御方です。この御方は、死んだが代々にわたって生きておられる方であり、燭台のただ中を動いておられる方です。それは死に打ち勝った彼の勝利に対する証しです。諸教会が生み出されたのはそのためです。すべての信者はそのために存在します――勝利する彼の命の完全性に対する証しのためなのです。

ああ、これが勝利者に戦いを招きます!確かに、これは命のための戦い、命の戦いです。激しい戦いです。敵の目的の一つは、主の民の間に死をもたらすことです。小羊の臨在の特徴の一つは命、彼の血の勝利です。

この箇所から、神が何に向かって働いておられるのかがわかります。この箇所は聖書における重大な事柄を解き明かしている、と指摘して終えることにします。第一に、神の御座があります。この句は、「神の王国」という言葉と全く同じ意味です。「あなたの王国が来ますように」と祈るよう命じられているのは、このためです。「王国と力と栄光は、永遠にあなたのものだからです」(改訳者たちは「王国」という言葉を削除して欄外に置いていますが)と宣言するのはこれが目的です。「王国」という言葉を本文中に残すべき証拠は黙示録十二・十の「今、私たちの神と(中略)そのキリストの王国が来た」という御言葉です。神の御座!これはマタイによる福音書の「神の王国」に相当します。

王国が来る時、それはどのようなものなのでしょう?その最高の特徴は何でしょう?命、勝利の命が至る所にあることです。これは「小羊」や「血」という言葉を私たちのために解き明かしてくれます。小羊とは何を意味するのでしょう?血とは何を意味するのでしょう?創世記以降を読むと、全体を通して、小羊と血は死に対する力強い証しを物語っていることがわかります。

エジプトで振り注がれた小羊の血を例にあげましょう。人々が敷居の上で過越の小羊をほふってその血を取り、門柱や鴨居の上に振り注いで血の円環を造った時、死はそこを通って入れなくなりました。これは割礼、すなわち十字架が取り囲んで肉の体全体を断ち切ることです――そこに命があります。小羊の血の証しは命です、死に対する強力な命です。なぜでしょう?血と称されている「物」としてではありません。そうではなく、その血の持ち主の罪なき性質のおかげです。「この世の君が来ますが、わたしの内になにも持っていません」。朽ちることのない性質の無限の力!神はほむべきかな、これがいま保証として私たちに与えられているのであり、私たちの全存在はやがて朽ちることのない命の原則によって支配されるようになります。「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る時、書き記されている言が成就します、『死は勝利に飲み尽くされてしまった』」(一コリント十五・五四)。小羊の血の証しは、すべてこの輝かしい命に対するものです。

次に、ここでは「教会(単数形)」や「諸教会(複数形)」といった言葉についても解き明かされています。同じものがそれらを支配しています。教会(単数形)とは何でしょう?ここで言う教会(単数形)とは、教会全体、キリストのからだ全体、彼のからだである宇宙的な霊的教会のことです。それは、イエスは死と死が意味するところすべてに打ち勝ったという証しを入れるための器です。彼が復活させられるまで、彼の復活と勝利の御霊が天から降臨して教会を証しの行程に就かせるまで、教会は登場しません。教会は次の事実の器です。すなわち、イエスは生きておられるという事実、そして、朽ちることのない、死ぬことのない、勝利の命の力によって生きておられるという事実です。諸教会(複数形)は教会(単数形)の小宇宙であり、あらゆる場所でその普遍的事実を証しすべきものです。これが黙示録二二章のこの節によって解き明かされています。

最後に、ここでは勝利者について解き明かしています。繰り返しになりますが、勝利者とは何でしょう?勝利者とは誰でしょう?特別な種類の教えを持つ人々ではありません。勝利者をいつも話題にしている人々ではありません。勝利者とは、主の民の間で彼の復活の益に浴して生きている人々です。(主の民全体にこう述べることはできません。)彼らの間にやって来る人々は、これがそうであること――イエスは生きておられ、そこにおられること――がわかります。勝利者はそのような者です。それゆえ、勝利者を主は必要としておられますし、勝利者は主にとってとても重要なのです。この書が明確にしているように、主は、ご自身を信じる人々、ご自身を認める人々が大勢いても、決して満足することはできません。彼の復活の力の中でご自身を生き生きと表現する人々を得る時はじめて、主は満足することができます。これは一般的な話です。

黙示録二二・一~五が聖書全体を、そしてこの書全体を支配しています。諸教会が済むと、次に諸国民が始まります。諸国民に対する裁きも同じ原則に基づきます――腐敗と死は対処され、裁かれ、廃絶されなければなりません。これが黙示録の残りの部分の結果です――「その木の葉は諸国民のいやしのためにある」。万人救済説を言わんとしているのではありません。ここの文字どおりの言葉は「諸国民の健康のために」です。これは救われる諸国民、この都の光の中を歩む諸国民のことです。これは事の別の側面ですが、それらの輝かしい状態はこの同じ原則に基づきます。すなわち、復活して支配しておられる主の命に基づくのです。彼らの健康のための天の葉です。これは、彼らは病を予防したり癒したりするために薬を摂らなければならないということではありません。この勝利の命のおかげで彼らは健康な状態にあるということです。

私たちの復活した勝利の主の命によって生きることの意味を、どうかますます知ることができますように!