第七章 十字架の主観的働き

T. オースチン-スパークス

朗読: 黙示録五・一~十四、七・九~十七。

消極的な面

私たちは、霊的生活、霊的成長、霊的進歩の問題に関心を持っています。私たちは深く心を痛めています。長い年月を経てもなお、神の多くの子供たちは狭量さ、制限、弱さを抱えているからです。私たちは悩んでいます。回心者たちは前進せず、信者たちは成長していないからです。また、責任を負うことができ、常に「見守り」続けてもらう必要のない人がほとんどいないからです。なぜ私たちは、自分の人生の多くについて、「大いに満ち足りているけれども、それでも空しい」と評さざるをえないのでしょう?主は私たちにその理由と、その問題に対する解決策は十字架にあることを示してくださっています。

霊的成長が止まっていたり、遅れたりしている場合、通常、そこに天然の命の何らかの力を辿ることができます。それは常に強さとして表れるわけではないことに注意してください。弱さとして表れることもあります。強さを帯びているのは、活発な人だけではありません。時には、私たちの強さは受動的なところや、危険を冒そうとしないところにあります。私たちはそれを、もちろん、とても謙遜である、柔和である、従順である、と呼んでいます。ああ、しかし、時としてそれは、主がハンマーで打たなければならないものなのです。それは受動的な面です。他方、もっと積極的で活発なタイプの人もいます。しかし、通常、主に明け渡したり手放したりしない天然の力に類するものがどこかに見つかります。主は私たちの在り方に応じて私たちを対処しなければなりません。積極的になって、責任を負い、事をなす気で満々な人々に対して、主は、彼らの魂が誇るものをすべて取り去るという一つの線に沿って彼らを対処しなければなりません。他方において、主は実行するよう要求しなければなりませんし、責任を受け入れるよう要求しなければなりません。主は、ご覧になるところにしたがって、私たちを取り扱われます。しかし、この問題に対する鍵は、私たちが――生来どのようなものであれ――真に十字架に服するかどうかです。なぜなら、人々の間に様々な気質があるように、十字架にも多くの面があるからです。

十字架は各自の性質に応じて適用されます。私にとっての十字架はあなたにとっては十字架ではないでしょうし、十字架は私たち一人一人にとって異なる意味を持つかもしれません。しかし、十字架は普遍的なものです。中心的であり、普遍的です――これが要点です。十字架は私たち全員に、おそらく異なる形で触れます。また、私たち一人一人に特有の問いや問題を提起します。これが十字架が私たちに突きつける課題です。これは、私たちがありのままの姿で十字架のもとに来て、十字架に対処してもらうかどうかの問題です。「この人はどうなのですか?」と言っても仕方ありません。主は直ちに、「それがあなたと何の関係があるのですか?あなたは私に従ってきなさい」とお答えになるでしょう。十字架は私たち各々に対して、個人的に、個々に、言わば密かに、適用されます。私たちの霊的成長は、十字架が私たちの内に働いて、私たちがそれに個人的に応答することに、まったくかかっています。

この他にも、取り上げようと思っても取り上げられない事がたくさんあります。例えば、私たちはそれぞれの人生に対する神の御旨を知りません。神の御旨は一人一人に異なる形で触れます。神の主権的選びがあり、私たち一人一人のための場所と、私たち一人一人のための働きがあります。それは関連していて、全体の一部である一方で、それでも、神の都というあの偉大な宝石の一つの面です。神は私たちを取り扱って特別な形でご自身に応答させなければなりません。それには他のだれかのための余地はありません。私たちは、自分に対する神の特別な御旨のゆえに、十字架により、主と特別な関係にあります。

ですから、これをある種の一般的なこととして捉えてはなりません。これを認識する必要が大いにあることがわかります。それは私たち一人一人にとって特別なものにならなければなりません。ああ、愛する人よ、これはたんなる教えや教理ではないことをどうか信じてください。これはとても重要なことです。しかし、あなたにお願いします、私が言っているから、強調しているからというだけで、また、「私たちの何人かに関するかぎり、これは実証済みです」と私が言っているからというだけで、これを受け入れないでください。私はあなたに一つだけお願いしたいと思います。それに対して心を閉ざさず、「それはただの教えにすぎない!」と言わず、ただ主に「これは正しいのでしょうか?」と尋ねてください。それは正しくないとたとえ感じたとしても、主の御前で単純で正直な姿勢を取ってください。そうして、その偏見が結局は自分自身に、自分の性質や生い立ちに由来している可能性を考慮する余地を残しておいてください。このような姿勢で主のもとに行き、こう述べてください、「主よ、私にはわかりません。これを信じるのは私には困難です。しかし、もしこれが真実なら、主よ、私はこの真理に対して開きますし、あなたの御手でこの真理の立場に私を確実に導いていただきたいのです」。私たちの中には、後で主の御前に立つとき、「わが子よ、もしあなたがわたしに機会を与えてさえいれば、わたしはあなたをもっと大いなる豊かさの中に導いていただろうに」と主から言われたい人は、きっと一人もいないでしょう。あなたはこの問題で、主に対して大いに正直で率直な姿勢を取るでしょうか?

これは消極的な面です。もちろん、その内容は無数にあります。しかし、これは万事につけ次のことを意味します。すなわち、あなたと私に偏見や先入観はないということ、どんな点についても最終的立場に至っていないということです。それは、ある事柄について、私たちは依然として自分の立場をすっかり変えなければならないかもしれないことを意味します。確信しきっている事柄でも、依然として放棄しなければなりません。私たちは自分に対する神の主権的取り扱いを認識しなければなりません。私たちの中には、人生のある時期に、あることが神のみこころであり、神が命じておられるみこころであると、全身全霊で信じていた人もいます。私たちはその後、どん底の経験、きわめて価値あるものとなった経験によって、「それは神の許容的みこころにすぎず、神はそのようなものを決して御旨とは思っておられなかったのです」と言わねばならなくなりました。それは何か別のものへの一歩にすぎませんでした。それは私たちにとって途方もないものと関係していました。私たちはそれに人生を賭けようとしました。しかし、それに対する姿勢をすっかり変えて、それを神の二次的なみこころの地位に置かねばなりませんでした。そして、神は私たちを見いだした所で私たちを取り扱い、一歩一歩導き、各段階で調整と変化を要求しておられたのであることを、私たちは理解しました。ああ、神の御旨はずっと同じままだったのですが、私たちに対する方法を変えざるをえなかったのです。神は、主権をもって、そうした不完全な段階や歩みを用いて、私たちに多くのことを教えてくださったのです。今日、私たちは、そのような変化のおかげで自分の立場は今や大いに強化されている、と言うべきだと思います。ああ、愛する人よ、私たちは十字架を開かれた道のままに保ち、新しい事がなおも起こりうるようにしなければなりません。神が私たちの中で革命的なことをもはや行えなくなってしまうほど、自分の立場に固執してはなりません。十字架は、神が行うことを望まれるあらゆる事の基礎です。主が新しいことを行おうとされる時、十字架は何らかの新たな妨げを対処することになります。さて、これは消極的な面についてです。

神の御心における十字架の目的をあなたが見る時、この積極的な面が生じます。なぜ十字架なのか、とあなたは尋ねるかもしれません。消極面で、十字架はこの無能な人を道から除きます。なぜなら、人は大いに損なわれていて無能である一方で、それでも大いに活動的・精力的で、とても活発な存在だからです。もし、人が何もできないほど不具だったなら、話は簡単だったでしょう。しかし、そうではありません。人はきわめて活動的・精力的な不具者であり、あらゆるもの、あらゆる人に迷惑をかけています。しかし、人は神の積極的御旨のために道からどかなければなりません。

(b)積極的な面

神の十字架の積極的な面とは何でしょう?それは、十字架が、神聖な事柄のための適性・能力・才能をすべて備えた有能な人のために、場所を設けることです。まさにこのとき、聖霊の意義と真価がすべて現れます。十字架が現実とならないかぎり、私たちは決して聖霊を知ることはできません。型においてであれ、本体においてであれ、ほふられないかぎり、油塗りには至れません。ですから、パウロはコリント人たちに、「キリストは私たちのために呪いとされました」と、このような強い言葉を述べています。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべて呪われる』と書かれているからです。それは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスの中で異邦人に及ぶためであり、私たちが信仰を通して、約束された御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ三・十三~十四)。キリストが私たちのために呪いとされたのは、私たちが約束された御霊を受けるためでした。これは、新約聖書における、御霊を受けるすべての事例で証明されています。

十字架と御霊

一つの例として使徒行伝十九・一~五を取り上げましょう。パウロは、ある地域を通過してエペソに来ましたが、そこである弟子たちを見つけて、「あなたたちは信じた時に聖霊を受けましたか?」と彼らに尋ねました。ある異常のゆえに、異常な又は正常でない事態のゆえに、奇妙な事態のゆえに、彼は明らかに困惑していました。ここに、自分はクリスチャンであり主イエスの弟子であると自称している人々がいました。しかし、彼らが御霊を受けた印が見当たらなかったのです。彼は考えました、「これは奇妙です。もしこの人々が、真の純粋な本当の意味でクリスチャンなら、聖霊を持っていないはずがありません。聖霊を受けたにちがありません。しかし、ここにクリスチャンとして共に集っている小さな群れの人々がいますが、彼らが御霊を受けた印はありません」。困惑して彼は、「あなたたちは信じた時、聖霊を受けましたか?」と尋ねました。彼らの返答はご存じでしょう。「聖霊が与えられるなんて、聞いてもいません」。そこで、彼は核心に迫って、「それではあなたたちは、何の中へとバプテスマされたのですか?」と言いました。それと何の関係があるのでしょう?と彼らは答えたかもしれません。御霊を受けることとバプテスマされることとの間にどんな関係があるのでしょう?バプテスマは、キリストにあって私たちは死に、葬られ、復活したことの証しであり、そうである以上、御霊を受ける根拠でもあるのです。パウロはこの状況をはっきりと指摘しました。彼の問いに答えて、彼らは、「ヨハネのバプテスマの中へバプテスマされました」と言いました。ああ!そうだったとは。彼は彼らに、ヨハネのバプテスマとキリストの中にバプテスマされることとの違いを説明しました。そこで、彼らは主イエスの御名の中にバプテスマされました。そして、パウロが両手を彼らの上に置くと、彼らは聖霊を受けたのです。十字架と御霊――この二つは常に同行します。

十字架の消極的な面は、御霊を決して受けられないあの呪われた旧創造を取り除きます。これを覚えておいてください!呪いの下にあるものは決して神の霊を受けられません。それを道から取り除かなければなりません。あなたは呪われたものをどうするつもりでしょう?死に渡して葬りなさい。その時、呪いのないものが現れて、御霊がその上に臨まれます。

新創造の性質――聖霊と新生した人の霊との結合

十字架の積極的な面は、再生されたもの、すなわち信者の新生した霊の中に聖霊が入って来られることです。神の霊の人の霊との結合によって、これまで被造物の中にはなかったような新しいタイプの存在が生じます。ああ、確かに、旧約聖書でも、聖霊が人の上に臨んで内側で働かれましたが、神の霊の人の霊との結合はそれまで一度もありませんでした。これこそアダムが得そこなったものであり、アダムにある種族が呪いのために失って、一度も回復できなかったものです。キリスト・イエスの中に新創造があります。そして、新創造とは、聖霊が人の新生した霊と結合されることです。

今、あなたは聖霊を命の御霊として、人の霊の中に、またその上に、持っています。この命の御霊は、私たちの内なる人が神に対して生きていることを意味します。私たちは、物事に対して生きていることがどういうことか、神に対して生きていることがどういうことか知っています。それは実に活発なものであり、意識の中に生きており、あらゆる点で神に対して生きています。このような神に対する活発さは、きわめて新鮮なものです。ああ、それはさいわいなことです!これがとても初歩的であることは承知しています。しかし、神に対して生きていること、自分が神に対して生きていることを知るのは、とてもさいわいなことです。これは、神との伝統的関係、神との教理的関係、神に対する組織的関係とは全く違うことがわかります。神に対して生きていることは、私たちの個人的な、内なる、さいわいな財産です。まあ、それについては説明するまでもないでしょう。命の御霊により、内側で神に対して生きることがどういうことか、あなたたちが実際に知るよう私は望みます。

聖霊は新しい機能を与えてくださる

しかし、この命、この命の御霊は、聖霊によって私たちの霊の中に新しい霊的能力、新しい霊的機能が与えられたことを意味します。天然の状態では能力がなくて無理でしたが、今では神の霊の事柄を知ることができます。神の霊の事柄を受けることができます。閉ざされていた領域の中を、聡く賢明に進むことができます。この違いは実に巨大です。しかしこれは――言わば――かなり微妙な違いです。説明しましょう。一頃、私たちは自分の聖書を大いに学びました。私たちはローマ書を読みました。ローマ六章を、その章立てや言葉遣いに関するかぎり、私たち以上に知っている人は、世界中どこにもいませんでした。また、私たちはエペソ書も読んで、それを知っていました。ローマ六章について、またエペソ書について、私たちは説教して、きわめて見事な解釈を与えることができましたし、きわめて素晴らしい聖書分析を黒板上に示すこともできました。教会は組織(organization)ではなく有機体(organism)である、と述べることができました。そのような表現を使いこなせました。さらに、ローマ六章について私たちは、バプテスマされた時に自分はキリストと共に葬られたという事実を誠実に証ししていました。そして、愛する人よ、その日がやって来ました。その日、私たちは真に自分の過越に、自分の種なしパンの祭りに直面し、十字架によってこの天然の命を打たれたのです。私たちは神の御手の下で、十字架を実際に経験し、十字架の転機を迎えました。罪人としてだけでなく、クリスチャン・説教者、奉仕者・働き人、組織人としても、これを通ったのです。何かが起きました。絶望的な恐るべきことが起きました。それはまさに死でした。しかしそれに続いて、私たちは主を新たに知るようになりました。御霊の新たな御業と、御霊の解放を経験するようになりました。油塗りの下に、開かれた天の下にある生活へと至りました。そして、私たちだけでなくだれもが、ローマ六章は――いま振り返ってそれについて述べると――たんなる教えとは別の何かであることを認識しました。その「別の」何かがなんだったのかは、定義するのが困難でした。エペソ書も一変しました。その変化がなんなのかも、述べるのはとても困難でした。それは言葉や、文字や、教理の問題ではないことは確かでした。しかし、そこには意味があり、力がありました。何かが起きたのです。以前は、ローマ六章を説きながら、それに矛盾することを行うことができました。同じように、エペソ書を説いて、天的教会は有機体であると述べることもできましたが、地的事柄の中にあって、制限され、束縛されていました。何かが起きて、私たちは復活の中にあるようになっただけでなく、死装束もなくなったのです。

これを述べたのは、要点に至るためにほかなりません。違いがあるのです。それを定義するのは困難かもしれませんが、それは死か生かの違いです。自分の天然の洞察力・解釈力・分析力・表現力を用いて神の御言葉を取り上げるか、それとも、聖霊が私たちの心の中に啓示してくださるかの違いです。後者は私たちを高く上げて新しい立場に就かせ、私たちに開かれた天を与えます。それは途方もない違いであり、十字架がその基礎です。聖霊は新しい機能、新しい能力を与えてくださいます。それらは異なっており、全く異なっています。以前、私たちは自分の頭で神の事柄に取り組んでいましたが、今では自分の霊でそれらに取り組んでいます。新しい機能、新しい力、聖霊による霊的な力です。これが十字架の積極的な面です。

ですから私たちは、自分はどこにいるのかというこの問題について自問しなければなりません。もしこれが真実でないなら、もしこれがごくわずかしか真実でないなら、もしますます明るさを増して真昼に至るこの内なる道を私たちが得ていないなら、それはなぜでしょう?その責任を主の門前に置くことはできません。それには何らかの理由があります。そして、そのような問いかけすべてに対する神の答えは十字架です。十字架の目的は、神が私たちに与えたいもののために、その中に私たちを導きたいもののために、土地を清めることです。もし私たちがその中に入っていないなら、その理由は何でしょう?どこかで十字架の働きが妨げられているとしか言えません。十字架がさらに働く必要がどこかにあるのです。

さて、十字架の主観的適用、力としての十字架、道具としての十字架、私たちの経験の中に働くものとしての十字架について、これまで述べてきましたが、私はあなたたちに思い出させなければなりません。これは私たちが受け入れられているかどうかや、私たちの立場や地位とは何の関係もありません。それは、私たちがキリストを受け入れる時、信仰に対して保証されます。これは私たちにおける神の御旨の働きにほかなりません。しかし、それは重要な面です。この二つを切り離すことはできません。この二つを切り離したせいで、キリスト教圏はきわめて嘆かわしい状態に陥りました。その物語の結末はひどく悲劇的なものになるでしょう。多くの人にイスラエルの歴史が繰り返されようとしています。彼らは荒野で死ぬでしょう。つまり、肥沃な地に至ることは決してないでしょう。なぜなら、ヨルダン川を渡らなかったからです。これは彼らが永遠に失われることを意味しません。そうではなく、彼らは神が意図されたものをすべて得そこなったことを意味します。彼らはキリストの満ち満ちた豊かさに達しませんでした。多くの働きが、火によって試される時、燃え尽きるでしょう。キリスト教的告白の多くは無に帰すでしょう。私たちの内に生み出されて私たちを通して生み出された、真に主の霊に属するものだけが、持ちこたえて切り抜けることになります。これは、どれだけ聖霊が地歩を得ておられるのかによって決まります。そして、その地歩は十字架がどれだけ徹底的に働いてその土地を清めたのかによって決まります。

主よ、御言葉を受け入れて、御前に立つ恵みを、私たちに大いに与えてください。それは、主が私たちの中に全き道を得るためです。