第五章 永遠の契約の血

T. オースチン-スパークス

「そして、エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた、『この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって一年の最初の月となる。イスラエルの全集団に語って言いなさい、「この月の十日に、各自は父祖の家ごとに小羊一頭を、すなわち一つの家族のために小羊一頭を取らなければならない(中略)あなたたちの小羊は、傷のない、一歳の雄でなければならない。あなたたちはそれを羊またはやぎのうちから取らなければならない。あなたたちはこの月の十四日まで、それを保っておかなければならない。そしてイスラエルの集団の全会衆は、夕暮れにそれをほふらなければならない。彼らはその血から取り、それを小羊を食べる家の二本の門柱とかもいに付けなければならない(中略)わたしはその夜、エジプトの地を行き巡り、人も獣も、エジプトの地のすべての初子を打つ。またエジプトのすべての神々に対して裁きを執行する。わたしはエホバである。その血は、あなたたちのいる家の上で、あなたたちにとってしるしとなる。その血を見る時、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つ時、災害があなたたちの上に臨んであなたたちを滅ぼすことはない。この日は、あなたたちにとって記念となる……」』」(出エジプト十二・一~三、五~七、十二~十四)。

「杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたたちのために注ぎ出される、わたしの血によって立てられた新しい契約である』」(ルカ二二・二〇)

「夕食の後、杯も同じようにして、言われました、『この杯は、わたしの血によって立てられた新しい契約である。わたしの記念に、それを飲むたびに、これを行ないなさい』」(一コリント十一・二五)。

「今、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、イエス・キリストを通して私たちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、あなたたちを完成してくださいますように」(ヘブル十三・二〇~二一)。

過越の記述における数字の意義

ヘブル十三・二〇のこの御言葉を巡って少しのあいだ黙想して、出エジプト記の偉大な型から光を引き出そうとすることにします。最初の過越のこの記述には、永遠の契約というこの深遠な素晴らしい真理を理解する助けになる、とても単純な方法が示されています。それらの方法の大部分は、この記述で用いられている様々な数字によって示されていると思います。もちろん、気づいておられると思いますが、神は特定の数字に光を当てて、過越の様々な面をそれらの数字と結びつけておられます。

(a)七――七日目、七月

第一に、七日目が一日目になります。イスラエルの民暦の七月が、彼らの宗教暦の最初の月とされます。「この月(七月)はあなたたちにとって最初の月となる」。

この過越の問題全体において、七という数字は大いに決定的かつ明確な地位を占めています。前の黙想で見たように、種なしパンの七日がありました。これは、天然の性質、すなわち古い性質、堕落した被造物のエネルギーをすべて、完全かつ決定的に取り除くことを示しています。七は霊的完全・完成の数です。それは三たす四です。三は神を表す数であり、四は被造物を表す数です。旧創造との神の関わりに関するかぎり、それは終わっています。種なしパンの七日は、次のことをはっきりと告げます。すなわち、永遠の契約の立場に至るには、事の命の面に至るには、神のすべての御旨にあずかれるようになるには、まず、パン種が表すものをすべて無に帰し、取り除き、それから全く分離しなければならないのです。パン種は旧創造の沸き立つ妨害を象徴します。人の性質中にある自己の要素、「私」の原則を象徴します。このように、契約に通じるこの最初の数は、神が要求される永遠の契約の根拠をはっきりと教えています。神は旧創造に対する死を要求しておられるのです。

エジプトで起きた二つの死、すなわちエジプト人全員の初子の死と小羊の死に注目すると興味深いです。後者は次のことを意味しました。すなわち、イスラエルの初子はエジプトの初子のように実際に死んだわけではないものの、神の御思いにおいては死んだのです。小羊の死のおかげで彼らは生きました。その小羊は種なしパンの祭りを締めくくる夕べの間にほふられました。そこには、神が受け入れることのできないものに対する徹底的姿勢がありました。イスラエルは、毎日毎日、この無味乾燥な種なしパンを食べつつ、自分自身を否んで、自分の十字架を負う立場を取りました。天然の命の渇望を否み、拒絶し、否認する立場を取りました。彼らは七日間にわたって、その姿勢を完全かつ決定的なものにするよう求められ、それに続いて、小羊に関して、それをほふるように命じられました。

その意味はおわかりでしょう。永遠の契約と、神がこの永遠の契約と結び付けられた一切のものにあずかろうとする人は皆、旧創造に属する生活や体制全体に対して死の姿勢を取るように求められるのであり、神の姿勢を取るように求められるのです。そして、これは代表者の死によって確定されます。主イエスが、「自分を否み、自分の十字架を負って、わたしに従わない者は、わたしの弟子になることはできません」と比喩的な言葉で言われたのは、このことを意味します。自分を否むことは、旧創造の命を否定してそれを十字架に渡すことです。さて、種なしパンに関する最初の七という数は、神のために道を清めるのに必要なこと、永遠の契約が示す一切のもののために道を清めるのに必要なことを、教えていることがわかります。

この語の語源が示す契約の思想

この「七」という言葉は、もちろん、ヘブル語の「シェバ(sheba)」です。それは名詞です。しかし、それは「誓う」という意味の「シャバ(shaba)」という別の言葉に由来します。これは、創世記二一・二八~三一に記録されているアブラハムがアビメレクと結んだ契約によって示されていますが、とても助けになります。

「アブラハムは、羊の群れから雌の小羊七頭をより分けた。すると、アビメレクはアブラハムに言った、『あなたがより分けたこの雌の小羊七頭は、どういう意味ですか?』。アブラハムは言った、『あなたが私の手から受け取るこの雌の小羊七頭は、私がこの井戸を掘った証拠となるためです』。それゆえ、彼はその場所をベエルシェバ(Beersheba)と呼んだ。その所で、彼ら二人が誓いをしたからである」。ベエルシェバ――七の誓いの井戸です。このように、七頭の雌の小羊、誓い、契約について記されています。

ですから、七という数は契約の概念を示します。調べると、これは御言葉の中で様々な文脈で示されていることがわかります。アブラハムに与えられた契約のしるしは割礼であり、それは七日の完了時に行われなければなりませんでした。その後、モーセを通してイスラエルに与えられた契約のしるしは、モーセ契約のしるしである七日目の日すなわち安息日でした。ノアに与えられた契約のしるしは七色の虹でした。しかし興味深いことに、七の後に一番目が繰り返されます。虹の最初の色に戻ります。契約のしるしである七は、再び一に帰着します。新約聖書や教会を見ると、安息日は最初の日に場所を譲ります。七は一に引き継がれます。使徒行伝二〇章にはこうあります、「週の最初の日に、私たちはパンを裂くために共に集まった……」。最初の日に、七の円環の完成を示す主の食卓があります。「これは永遠の契約のわたしの血です」。契約の思想は教会に受け継がれていきます。七は一になり、七番目が一番目になります。教会に対する契約のしるしは何でしょう?主の食卓です。

「七」の根底にある思想の全容

しかし、この七番目とは何でしょう、それは何を意味するのでしょう?何事も神の御言葉における最初の言及が、その後ずっとその事柄に対する鍵であることは、とてもよくご存じでしょう。神は七日目に安息されました。それゆえ、神は七日目を聖別されました。その日、神は被造物に関して安息に入られました。万物が創造され、神は被造物を見て満足されたので、「はなはだ良い」と言われました。神は七日目に安息に入られ、満足したがゆえにその日を聖別されました。これを新約聖書に適用すると、教会にとって神の七日目すなわち安息日は過越であることがわかります。この過越とは何でしょう?それは、神はキリスト・イエスにあって新創造を成就して御子に満足された、ということではないでしょうか?御業はキリストにあってすべて完成されました。キリストは、ご自分の霊を御父に手渡された時、私たちの言語で「成就した!(It is finished!)」と言われました。しかし、ああ、私たちの英語は常に何かが欠けています!主イエスが十字架上で、私たちの訳で「成就した(It is finished)」と訳されている、この偉大な叫びを叫ばれた時、彼は「テテレスタイ!(Tetelestai!)」という言葉を叫ばれたのです。これは、過越の小羊を検査する祭司が用いた定型句でした。小羊に何の問題もないことがわかると、祭司は「テテレスタイ!(Tetelestai!)」と言いました。完全である!と言ったのです。主イエスがなさったのは、傷もしみもない命を御父に返すことでした。彼はしみのない小羊として神にささげられました。すべての試験の後、何の傷も見つかりませんでした。「完全である」と彼は言われたのであって、成就したと言われたのではありません。確かに、ある意味で成就されたのですが、真の意味は「完全である」です。その御業は完全であり欠点がありません、その命は完全であり欠点がありません。全体が完全に仕上がっています。御父は満足しておられます。これがキリスト・イエスにある彼の新創造です。主イエスは旧創造に問題が生じた時に神を満足させる新創造の体現者であり、神はご自身の安息に入られます。

キリストによる神の満足に基づいて、人は祝福されて受け入れられる

今、注目すべきは、アダムのこの地上での最初の日が安息日だった点です。神は六日目に人を創造されました。人が最初に丸一日過ごしたのは安息日であり、その安息日が人にとって最初の日になりました。新約聖書に移ると、神は主イエスにあって御業を成就・完成し、ご自身の安息に入られました。これが神の安息日であり、そこから私たちは始めます。神の安息――それが私たちの最初の日です。今は、それを適用するために立ち止まるつもりはありません。これは常に私たちの心に――私たちがそれに耳を傾けるなら――次のようなメッセージを伝えます。すなわち、私たちはすでに完全であるものから始めるのである、というメッセージです。これが永遠の契約の立場です。この意義を把握するとき、永遠の契約の何たるかがわかります。完全な立場と開始に入ることになります。これは、自分をどう見なすか、それについてどう感じるか、という問題ではなく、それが神が私たちのために用意してくださった地位である、という問題です。事実、愛する人よ、イエス・キリストにあってあなたも私も、今よりも、あるいは信じた日よりも、完全になることは決してありません。こうした完全さは漸進的に私たちの中に造り込まれていくかもしれませんが、私たちが受け入れられる根拠に関するかぎり、私たちは「愛されている方にあって受け入れられ」ています。御父を完全に満足させている方にあって受け入れられています。御父は彼にあって安息しておられます。この御業は完全です。私たちが受け入れられるのは常に、神の御旨は成就されたという根拠に基づきます。これに決着がつかないかぎり、私たちは、神が私たちの内で御業を開始される時、安定性に欠けることになります。これについて少しのあいだ考えることにしましょう。

もし、神が鍛錬と懲らしめにより、訓練と錬成と養成により、私たちに対する取り扱いを開始される時、私たちが、「これはすべて私があまりにも悪いせいであり、私が受け入れられるようになるために、主は私になにかを行う必要があるのです」と言いだそうものなら、あなたは自分の立場を放棄したことになります。主があなたの中でどれほどのことをなさったとしても、あなたはより多く受け入れられるようにはなりません。あなたが受け入れられてきたのは、あなたが何であるのか――それがいかに良くても悪くても――という根拠によるのではなく、愛されている方という根拠によります――愛されている方にあって受け入れられているのです。私たちはこう歌います――私たちがこれをもっと心に留めるよう私は望みます――彼の完全さは信仰により私たち自身の完全性の寸法である、と。それが私たちの出発点です。神はほむべきかな、これが確信の根拠です。主が私たちに対する取り扱いを開始されて、「自分はなんと惨めな被造物だろう」と私たちが感じ始める時、これは、私たちが受け入れられていないことを、一瞬たりとも意味するものではありません。永遠の契約の重要性は第一にここにあります。すなわち、私たちは御子に対する神の満足という根拠によって受け入れられているということです。もし私たちが自ら拠って立つところの自分自身の根拠に基づいて受け入れられていたなら、永遠の契約はなかったでしょうし、安全の根拠も皆無だったでしょう。明日の自分はどうなのか、ということが問題になっていたでしょう。しかし、そうではありません、現在や将来の自分はどうなのかは問題ではありません。根拠はキリストにあって確立されています。それ以降、神の働きは、御子に言えることを私たちの内に有効化するためのものにすぎず、その根拠を変えるものではありません。私たちの根拠を手放さないようにしましょう。永遠の契約の基礎は七です。神は私たちのために御業を成就してくださいました。ですから、神はキリストにあって成就されたところから、私たちの内で開始されます。七――契約です。そして、七番目の月が最初の月になり、七日目も同様です。

(b)十――十日目

次に、主は別の数を持ち出して、「この月の十日に、各自は小羊一頭を取らなければならない」と言われました。これはとても興味深い数です。この数は聖書の中に頻繁に出てきますが、常にある文脈で出てきます。十戒があります。マタイ二五章には十人の処女が出てきます。ルカ十九章には十ミナが出てきます。この数が登場する箇所はどこでも、人の全き責任と関係していることがわかります。十戒――神に対する人の全き責任です。十人の処女――彼らにはみな責任があります、これが要点です。十人の処女のたとえを取り扱う時、この点はしばしば見落とされます。要点は責任です。この数はこのたとえに特徴を与えます。この人たちは責任ある人々です。十ミナ――これは責任、信頼の問題です。

さてここで、この十日目の要点はこうです。すなわち、人はあらゆる条件下で徹底的に試されて挫折した、ということです。人は神に対する責任に直面して、欠けていることが判明しました。このようにまた、エジプトに十の災いがありました。これは人の全き責任を象徴しており、人々――試されて欠けていることが判明した人々――の最後には裁きが待っていました。

キリストに至るまでの旧経綸は約四千年を網羅しており、これは四十世紀です。これは十かける四であり、責任の経綸の下にある被造物を象徴します。全被造物は挫折して、その責任に向き合えないことがわかりました。そこで小羊が登場されます。これがこの箇所に裁きが記されている理由です。十戒は、「あなたは……しなければならない」と「あなたは……してはならない」という二つの言葉で要約できます。これらの言葉は責任・失敗・裁きという特徴と常に関係しています。

さて、希望は何でしょう?人はあらゆる条件下で試されてきました。人はエデンで最も有利な条件下で試されましたが失敗しました。神は諸々の時代にわたって人を試されましたが、どの時代も人は失敗しました。どんな希望があるのでしょう?人がこんな有様だとすると、神にはどんな希望があるのでしょう?人はどうしようもない存在なのです!

神の永遠の契約という希望があります。人に対する輝かしい運命という希望があります。人は何世紀にもわたって、自分の内にはなんの希望もないことを証明してきました。小羊が導入されて、この小羊が責任を負われます。何に対する責任でしょう?ああ、この小羊は神の義に対する責任を負われるのです。どんな条件下でも、神は義を持たなければなりません。神は人の中に義を要求しておられます。神が人の中に義を見いだせないかぎり、人は裁かれた絶望的な被造物です。人はこれまでずっと、義の問題で神を満足させられないことを実証してきましたが、それでも人には責任があります、人は責任ある被造物です。だから私たちには良心があるのです。だから全被造物に良心があるのです。多くの点でその指示に従っていなくても、これは真実です。暗くなり、ねじれていますが、良心があります。最も堕落している者ですら、常に次のような感覚――かすかかもしれませんが――があります。すなわち、礼拝を求める至高の御方に対して責任があるという感覚です。これはごくかすかな良心の形です。こんなにも奇妙な行動を人に取らせるものは何でしょう?先の戦争で昔の軍隊に所属していた、暗闇の中にあるあわれな異教徒がいました。彼は光を受けて成熟した人と比べて全く無知な状態にありました。その彼が、あいまいな過去の記憶を思い出して、途切れ途切れに漏らしたのを、私が聞いた話です。彼の輸送船が魚雷攻撃を受けて、水中で救助を待っていたときのことです。どこかで聞いた言葉を、その時、彼は途切れがちに口にしました、「やさしい、柔和で温和なイエスよ、小さな子を顧みてください」!何が原因でその瞬間に思い出したのでしょう?神に対してなんとか果たすべき責任――果たさなければ人は失われます――に対する感覚です。なんとかして切り抜けて神に至らないかぎり待ち受けている破滅に対する感覚です。人は神について何も知らないかもしれませんが、神が存在することを自覚しているのです。

人には責任があります。人はそれを承知しています。ローマ人への手紙の最初の数章がこれについて論じているように、人は神の御性質について何も知らないかもしれませんが、良心では、神のような方が存在することを知っているのです。そして、神の見えない事柄が見える事柄において示されていることを知っているのです。神はご自身の証しを内外に持っておられるのです。

さて、人には責任があります、これが要点です。そして、義に対する責任、義に対する責任感のゆえに、人は所与の状況下でありとあらゆることをします。しかし、人はどうすれば神を満足させられるのでしょう?ああ、働きによって、献金によって、十分の一や税や懺悔によって、人は神の義を満足させることができる、という思想に基づく宗教組織が生まれたのは恐るべきことです。堕落した被造物の働きをキリストにある神の義の代わりにするのは恐るべきことです!いいえ、人には不可能です!人には不可能です。

しかし、しみも傷もないこの小羊が、義の問題全体に対して責任を負われました。ヨハネは彼を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と叫びました。ヨルダン川のほとりで、ヨハネは彼が水の中に下って行かれるのを制止しようとしましたが、神の小羊はヨハネの方を向いて、「今はそうさせてもらいたい。このようにしてすべての義を成就するのは、私たちにふさわしいことである」と言われました。そこで、ヨハネは彼にそうさせました。彼のバプテスマは、義の問題で神を満足させる彼の死の型でした。どうやってでしょう?傷のない不朽の命を神にささげることによってです。神は満足されました。もし神が、すべての人の代表者たりうる人を見いだすことができ、しかもその人が罪のない人であるなら、神には御旨を実現するための希望と保証の根拠があることになります。

もう一つの側面があります。この神の小羊は、人の不義と人の罪に対する責任を負い、それを担って取り去られます。人は自分の罪について神に答えなければなりません。ここに、わたしが人のために答えよう、と言ってくださる方がおられます。「彼は私たちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました」(一ペテロ二・二四)。彼は「私たちの違犯のために渡されました」(ローマ四・二五)。さて、これは単純ですが美しい福音です。この福音は決して聞き飽きることがありません。

十は責任、全き責任の数であることがわかります。小羊が十日目に登場して、人の失敗と神の要求とに対する責任を負われます。私たちは小羊に信仰を置きます。すると私たちの罪は赦されます。これが、罪の赦しのために流される新しい契約の血です。小羊が、完全な義を要求される神に対して、私たちのために答えてくださるのです。

(c)十四――十四日目

小羊は十日目に登場しますが、十日目にほふられたわけではありません。新しい要素が導入されますが、それについてはすでに述べました。小羊は専門家によって検査され、合格して証印を押されますが、依然として何らかの欠陥が生じるおそれがあり、それについてはだれにもわかりません。続く四日の間、小羊は厳重な観察下に置かれなければなりません。これは神の小羊を示すものであり、この期間は、ヨハネによって彼が神の小羊と宣言された日から、彼がささげられてほふられた日にまで及びます。それは彼が観察される期間でした。愛する人よ、この三年半の間、全宇宙はこの小羊を注視していたことが理解できないでしょうか。彼は宇宙的な関心と注目の中心でした。天は見下ろしていました。地獄は見つめていました。地獄は強い関心を持ち、激しく活動していました。人々も見つめていました。彼は、きわめて厳しい監視下で、徹底的に試験されました。地獄は彼になんらかの傷を生じさせようと活動していました。また、人々も彼をつまずかせて、彼の中になんらかの欠点を見つけようとしました。天はこぞって、一つ一つの試練の結果を見つめていました。その観察期間の終わりに、彼は「あなたたちのうちだれが、わたしに罪があると責めるのか?」と言うことができました。彼は地獄に挑戦することができましたし、ご自身の生涯について「完全である」と天に向かって述べることができました。十四日目に彼はほふられました。しかしそれは、彼が神によって証印を押され、神の小羊として印づけられた後のことでした。彼は、地獄によって試験され、人々によって監視され、しみのないご自身を神にささげられました。神の御言葉はこう証ししています、「しみのないご自身を神にささげられました」と。これが永遠の契約の根拠です。さて、いよいよ本題に入ります。

永遠の契約の中に含まれる神の賜物

永遠の契約の偉大な要素とは何でしょう?契約とは引き受けること、請け負うことであることがわかります。契約とは、その契約をする者が「私は事をなす用意があります!事をなそうとしています!私はこの契約・行為をなして、それにより与え、遺贈し、約束します……!」と表明することを意味します。神が契約を立ててなそうとしておられるこの偉大な事とは何でしょう?神が御子の血による永遠の契約で与えようとしておられるものは何でしょう?それは命、永遠の命です。この命は御子の血によって与えられ、この血によって私たちに保証されています。こういうわけで使徒はこれをこう述べています、「永遠の契約の血を通して(または、により)(中略)死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が……」。この血は、死が滅ぼされて、命と不朽が明るみに出されたことを物語ります。この血は、朽ちることも死ぬこともない命を物語ります。この命に対して死には何の力もありません。それゆえ、彼の十字架の血によって平和が造られたので、神はこの大牧者を死者の中から連れ戻さなければなりません。彼が死の苦しみの中にとどめておかれることはありえません。朽ちないものが朽ちることはありえません。死ぬことのないものは、不朽であるがゆえに、死にとらわれることはありえません。永遠の契約の血は、不朽の、死ぬことのない、死を無に帰す命について物語ります。神はこの命を契約の中に含めて、「これがわたしがあなたに行うことです!これが御子の死を通してわたしがあなたに遺贈するものです!」と言われました。これはあなたの嗣業であり、生得権であり、神の偉大な賜物です。これは御子の血のおかげです!命、不朽の命、死ぬことのない命です。それゆえ、それは永遠の契約なのです。

あなたも私も、愛する人よ、もし彼の血による契約という根拠に基づいて信仰により自分の地位に就いているなら、もし神が御子の死によってなさったことを認識して受け取っているなら、私たちは永遠の命を受けているのです。これがすべてを保証します。そこで使徒は続けて言います、「今、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、イエス・キリストを通して私たちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、あなたたちを完成してくださいますように」。ここに御子の要素がすべてあることがわかります。御子は完成されているのでしょうか?そして、それに対して、「……あなたたちを完成し」とあります。御子は神のみこころを完全に行って、御父を満足させ、彼を喜ばせたでしょうか?そうなら、私たちの内にある御子の命によって、神はまた、「ご自身の目に喜ばれることを、私たちの中で行い、私たちがみこころを行う」ようにしてくださいます。この命は私たちを主イエスという根拠の上に置きました。そして、神が私たちの内で働いて私たちを御子に同形化できるようにしました。これはこの命の基礎に基づきます。この命は、神が私たちの内で御業をなすための原理であり、力であり、基礎です。この命が聖霊によって私たちの内に働くことによって、私たちは小羊が今おられる所にもたらされます。

こういうわけで、霊的進展・霊的歴史はすべて、命と死の戦いの進展・歴史なのです。試練の形や経験の性質がどうであれ、それは常にこれに帰着します。敵の狙いは死で、霊的死で、私たちに触れることです。死で私たちを包み込んで、霊的死の重圧と力の下に陥らせることです。それをすべて許す主の御旨は、彼の命によって生きる方法、彼の命によって勝利する方法を、私たちに教えることです。それはみな、命のための戦いの問題に帰着します。しかし、神はほむべきかな、私たちにはすでに勝利している命があります。まさに勝利された小羊の命が私たちの内にあります。彼の勝利の可能性が今、私たちの心の中にあります。私たちがなすべきは、自分の内に働く力すなわち彼の復活の命の力によって生きる方法を学ぶことだけです。ですから、この契約は永遠の命である契約です。それは、神と私たち自身にとって、あらゆる希望、あらゆる展望、あらゆる可能性の根拠です。これらのものがこの契約を構成します。小羊は私たちと神のために責任を負ってくださいました。小羊は試験されて実証されました。あらゆる点で試されて、勝利されました。苦難を通して証明・完成された小羊が御座におられます。彼は尊い血に基づいて、まさにご自身の命を、信じる者たちに与えてくださいました。私たちがそれによって生きようとし、それによって生きて勝利することを学ぼうとしさえするなら、この命は私たちの中に到来します。この命は彼の内にある自らの源に私たちを連れ戻します。それは、彼が勝利して御父と共に御座に着かれたように、私たちも彼と共に御座に着くためです。

「今、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを、死人の中から引き上げた方、すなわち平安の神が、ご自身の目に喜ばれることを、イエス・キリストを通して私たちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、あなたたちを完成してくださいますように。その方に、栄光が永遠にわたってありますように。アーメン。」