第四章 種なしパンの祭り

T. オースチン-スパークス

「エホバはエジプトの地でモーセとアロンに語って言われた。『この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる。それはあなたたちにとって最初の月とならなければならない』」(出エジプト十二・一~二)。

前回の黙想では、ユダヤ人の過越の祭りと教会の主の晩餐との関係を最初に示しました。この関係は主イエスご自身によって、彼が裏切られた夜に、示されたものでした。この過越もしくは主の晩餐、そしてそれらがキリストの死について示していることが、主の民の歴史の始まりであることを、私たちは見ようとしました。神の観点から見ると、すべての歴史はそこから始まります。キリスト教圏は暦を作成しており、今年は西暦一九四一年であると言うかもしれませんが、神の観点から歴史を見るには、それから三十三年差し引かなければなりません。神の観点から見ると、主イエスの十字架がこの宇宙のゼロ時でした。主イエスの十字架は、神のすべての子供の歴史のゼロ時です。それ以前の何ものも神は顧慮されません。歴史の、霊の歴史の基礎である主イエスの十字架と、それが示すもの以降から、すべては神に属するものと見なされます。さて、これが理解できれば、私たちは万事に対する鍵を手に入れて、とても大きな助けを得ることになります。

過越の顕著な特徴の一つは種なしパンの祭りでした。出エジプト記の十三章は、特にそれについて扱っています。十二章八節にはこう記されています、「彼らは、その夜、その肉を火で焼いて食べ、それを種なしパンと苦菜と共に食べなければならない」。次に、「種なしパン」というささやかな句が十三章で取り上げられて、これについてかなり長い段落が費やされています。

「七日間、あなたは種なしパンを食べなければならない。七日目には、エホバへの祭りがある。種なしパンを七日間にわたって食べなければならない。パン種のあるパンが、あなたの間に見られてはならない。あなたの領土のどこにも、あなたの間にパン種が見られてはならない」(六、七節)。さて、ルカがこれを大いに重視していることに注意してください――二二章七節「過越の小羊がほふられる種なしパンの日が来た」。

種なしパンの祭りについてはすでに一節で述べられています。「さて、過越と呼ばれる種なしパンの祭りが近づいていた」。

これから見ることになりますが、これは過越と主の晩餐、あの七日間続いた種なしパンの祭りを導入します――七日間は完全な霊的期間を示しており、霊的歴史に特別な意味を与えます。あなたと私が種なしパンの意味を学ぶまでは、真の霊的歴史は始まりません。なぜなら、そのような歴史の開始は、種なしパンの意味を、記念として、大いに明確かつ積極的に確立することによるからです。

パン種が何を象徴するかはご存じだと思います。「それは罪である」と言うのは、あまりにも一般的です。十分に具体的かつ明確ではありません。もちろん、パン種は罪です。しかし、パン種は古い性質です。天然的・肉的な人です。旧創造のあのエネルギーです。肉のあの発酵です。私たちの内に沸き立って、常に自分の道を切り開き、自分自身を表現し、拡大し、膨張させ、自らの存在と影響を知らしめ、獲得・所有・入手しようとしているものです――そういった類のことはみな肉であり、古い肉的性質の活動要素です。今、その歴史は明確な転機を迎えて、その転機によって終わらされなければなりません。主イエスの死の中で打たれなければなりません。そして、種なしパンの祭りの七日間が完了しないかぎり、私たちは神の御子との生き生きとした合一の歴史を開始できません。それは霊的歴史にとって根本的なものなのです。

終結と開始

すでに述べたように、過越が成就するまで、神は何ものも顧慮されません。また、種なしパンの祭りが完了する時、神に属する一切のものが始まり、興隆します。愛する人よ、これを述べるのは途方もないことですが、これが理解されてこなかったせいで、悲劇的な歴史が生じたのです。すなわち、主が顧慮されない働きが、主のために大量になされてきたのです。その働きは主に由来していませんでした。これを理解しそこなったこと、これを真に確立することに失敗したことが、昔も今も、クリスチャンが欺かれる大方の理由です。その欺きとは思い込みです。自分は主のものであり、すべてはうまくいっている、という思い込みです。サタンは思い込みが大好きです、人々の思い込みが大好きです。なぜなら思い込みは、サタンの欺く働きが最も実を結ぶ土地だからです。つまり、私たちや、あなたや、私に、神に属する事柄が臨むとき、もし、砕かれていない天然の意志、屈服していない天然の知性、十字架につけられていない天然の意志があるなら、それは欺きのための肥沃な土地なのです。状況がそのような所では、サタンは大きな利益を得ることができます。どこかで、密かに、私たちの認識やおそらくは意識よりも深い所に、野心があるのです、奉仕に対する、務めに対する野心があるのです、何かをしたい、ひとかどの者になりたい、何かを見たいという野心があるのです。発酵させる古い性質のパン種が依然として働いていて、神に属する事柄を支配しているのです。その結果は何でしょう?ああ、それに続くもののすべてではないにせよ、その大部分は、神から出たものではない、という結果です。主の御名により私たちによって活気づけられた事柄の歴史という結果です。主のためではあるけれども、私たち自身を源とする生活という結果です。その中にはパン種があります、天然のエネルギー、天然の思い、天然の判断、天然の理屈、天然の意志、天然の野心、天然の感情があります。神は言われます、わたしに属するものはみな、あなたたちには何も生み出せないゼロ地点から始まるのである、と。

代表者としての立場で屠られた小羊は、その面ではすべてが終わったことを告げます。小羊は罪とされ、呪いとされ、打たれました――十字架は旧創造に対する神のゼロ時です。その時以降、神ご自身から直接じかに発するものだけが、私たちの中で霊的歴史、神聖な歴史を形成します。それだけが価値があります、それだけが主を知っています、それだけが主に戻って行きます、それだけが主の御旨を成就します。私たちに由来するものは何もありません。

種なしパンの祭りは、七日間を通して行われるとても重大な務めです。それは告げます――この天然の命に神のための余地はない!と。天然の命は腐敗しています。発酵させる高ぶりがその中に渦巻いています。なんであれその背後には高ぶりがあります。それはあの蛇から人類の中に入り込んだ毒です。蛇は、「私はしよう。私は王座を高くしよう。私はいと高き方と等しくなろう」と言いました。私!私!――これがパン種です。パン種とは、なんらかの形の「私」です。私が述べているのは、愛する人よ、あなたや私は、それがどんな形を取っても突き止められる、ということではありません。そうではなく、それが現存することを私たちは認識しなければならない、ということです。私たちのだれも、自分はそうではない!と、一瞬たりとも言ってはなりません。あなたも私も、自分自身に関する神の見解に同意しなければなりません。神の御前で自分を義としようとする人が私たちの中に一人もいてはなりません。私たちがなすべきは、こう述べることです。「神の判決は真実です。本来、私の中には『私』の命という毒が深く作用しています。私がそれを常に意識しているかどうかにかかわらず、それは現存します。自分は神にささげ切っていると感じているかどうかにかかわらず、それは現存します」。この血液、この人の血液が、私たちの血管中を流れているように、この血の中には堕落した性質の種があります。この堕落した性質の原理は「私」であり、この「私」は神に属する事柄を手に入れようと常に狙っています。これを忘れないようにしましょう。その狙いはまさに、神に属する事柄を手に入れることです。サタンは「私は自分の王座を神の星々よりも高くしよう(中略)私はいと高き方のようになろう」と言いました。私は神のものを手に入れよう!と言ったのです。

これがヤコブのひどい、ひどい間違いでした。たしかに、生得権はヤコブのものでしたが、よく聞いてください、それは神のものだったのです。ヤコブは神聖な事柄の価値を認識していました。ヤコブは神に属する事柄の重要性を感じていましたが、彼の兄は感じていませんでした。しかしヤコブは、神がそれらの神聖な事柄を自分の内に、自分のために、自分に対して確保してくださる、と信じることで満足しませんでした。ヤコブは、神聖な事柄の価値を認識していたので、発酵させる自己の命のパン種により、それらを手に入れるために行動せずにはいられませんでした。あなたや私が神聖な事柄の価値を認識するのは全く正しいことかもしれませんが、それらを手に入れるのは全く別の問題です。自己のために祝福を得ること、行使する力を得ること、影響力をふるうための地位を得ること、これらはみな巧妙に私たちをどこかに連れて行くものかもしれません――これはパン種です。神はヤコブと同行できません。神聖な事柄に最初に手をつけたあの最初の行為から、それらの益に浴するようにされるまでに、彼は二十年の徹底的訓練を受けなければなりませんでした。どん底の、どん底の経験を経なければなりませんでした。これが私たちの大部分の経験です。歴史はそこから、種なしパンの祭りと共に始まります。それは、自己の命、「私」の原則を否んで死に渡すことと共に始まるのです。

イスラエルでは、それを大いに徹底しなければなりませんでした。彼らは自分の家の中であかりをともして隠れたパン種を探さなければなりませんでした。また、その後の儀式においても、自分のいけにえをささげる前に、探したうえで、こう宣言しなければなりませんでした――「私たちはパン種がないか自分の家を探して、律法に命じられていることを行いましたが、もしまだ見つかっていないものが隠れているなら、私たちは誓ってそれを拒絶します!」。これを大いに徹底しなければならなかったのです。

記念する祭り

そして主は言われました、「これは永遠にあなたの諸々の世代にわたって記念となる!」と。そして、過越の祭りが毎年来るたびに、それに先立つ種なしパンの祭りがそれと結びついていました。ではその意義は何でしょう?それは分離の大いなる行為、悪からの分離を記念するものでした。人々がその祭りで座すとき、毎年、物語が語られました。主がエジプト人に何を行われたのか、主はどのように自分たちをエジプトから連れ出されたのかの物語です。主は言われます、「永久にあなたの諸々の世代にわたってそうしなければならない」と。

さて、愛する人よ、主の晩餐が霊的原理において過越に対応するものである以上、私たちが主の食卓に来るたびに私たちはこの物語を告げるのです。これを理解しておられるでしょうか?これがまさに一コリント十一章のパウロの言葉の意味です。「ですから、あなたたちがこのパンを食べ、その杯を飲むたびに、あなたたちは告げ知らせるのです……」。宣言し、表明し、語るのです。私たちは行動でこの物語を告げ、この物語を実演するのです。

主は、私たちの霊的歴史の開始を、種なしパンの祭りで記念されました。主は私たちをエジプトから連れ出してくださいました。エジプトとは何でしょう?エジプトは肉の力と栄光の型です。神はモーセのまさに骨の中からどれほどエジプトを追い出さなければならなかったことでしょう!モーセはエジプト人のあらゆる知恵を学びました。そして、四十年の長きにわたって、モーセの中でエジプトが打たれていきました。モーセはエジプトのエネルギーで開始して、エジプトの資源、自分の地位、自分の能力で神に属する事柄を行おうとしました――しかし、神は「だめです!」と言われました。人々を連れ出して天的立場にもたらすための僕として用いられることになる人は、訓練を通らなければなりません。その僕は天的立場を見いだして、地的立場、天然的立場をすっかり空にされなければなりません、主はこの区別を大いに明らかにされます。

「さて、自分はどうでしょう?クリスチャンになって数年たちますが(場合によっては長年の人もいるでしょう)自分はどうでしょう?自分はどんな立場にあるでしょう?」とあなたたちは考えておられることでしょう。愛する人よ、私たちは神の事実に向き合わなければなりません。私たちはクリスチャンではない、私たちは主のものではない、と言っているのではありません。あなたも私も神の立場に真剣に向き合わなければならない、と言っているのです。そうしても手遅れということは決してありません。神は私たちを連れ戻すために、ずっと一緒に働いておられます。ああ、最初からこれを見ていれば。しかし、見ていたとしても、それを受け入れられたかどうかは疑問です。新しい光を受け入れるには色々な経験をする必要があるのではないかと思います。真理の提示によって真に光の中に導かれることは決してありません。色々な事柄に生き生きとあずかるには、何かが自分の内に起きなければなりません。それには時間がかかります。しかし、ここに私たちはいるのであり、これについて何と言われようと、これが神の立場なのです。忠実に、厳粛にお尋ねしますが、あなたの人生で過越のこの祭りは真に完了したでしょうか?もし完了していないなら、問いただすべきとても多くのことがあることになります。これがもたらす区別を知っている人も私たちの中にはいます。何年も、とても精力的に、活発に、熱心に、たいへんなクリスチャンの働きをしてきました。宣べ伝えなどを行ってきました。しかし、ああ!その年月を、どれほどの後悔と恥ずかしさで私たちは振り返っていることでしょう。熱心さと力のかぎりを尽くしたのに、それと比べて、主からの実際的成果はなんと少なかったことでしょう。それらの年月について問いただすべきことがたくさんあります。次の事は大いに明白です。すなわち、自分が動力源であり、その働きの源であり、それをしていたのであり、その中にいたのです。それよりももっと酷かったのです。

その後、神は私たちを種なしパンの祭りにもたらされました。種なしパンは口にあいません――多くの苦菜が種なしパンに添えられています。肉はそのような食事を喜びません。しかし、昔も今もこれは現実です。これは神のゼロに来ることです。当時、弱さや失敗や不完全さをどう感じていたにせよ、私たちは一つのことを確かに知っています。種なしパンの祭りが新たな始まりを告げたのです。この始まりは、主に関して、主の新たな到来を示すものであり、生活と働きの新たな領域を示すものでした。その時以降、他には何も知らなくても、私たちは一つのことを知っています。すなわち、その時以降、自分ではなく主になったのです。そして、主ご自身が私たちをその原則にとどめてくださっています。主のみである地点からの逸脱をすべて打つことによって、絶えず打つことによってです。これが私たちの世代を通して記念となってきました。主は何度も何度も私たちをこれに立ち返らされます。お尋ねしますが、あなたはこの真の転機を経験されたでしょうか?

死による命

これこそ、使徒がまさに命の秘訣、神聖な命の秘訣として言及していることです。ここから神聖な命が生じます。神聖な命の川は十字架から発します。使徒は言います、「絶えずこの体に、イエスの致死力を負っています。それはまた、イエスの命が、私たちの体に現されるためです」(二コリント四・十)――奇妙な言葉です!「イエスの致死力」。これはキリストの死の一つの面です、一つの面にすぎません。他の面もありますが、これはとても重要な面です。イエスの致死力。なぜ彼は死に渡されたのでしょう?彼が死に渡されたのは、彼が自ら進んで、自発的に、ご自身の意志で、旧創造の代わりに立たれたからです。あなたの代わりに、私の代わりに立たれたからです。彼は、旧創造の天然の命の代表者として死に渡されました。ご自身のではなく私たちの旧創造を担われたのです。あなたも私もこの致死力を絶えず体に負わなければなりません。そうするなら――古い性質、「私」、自己、肉、肉の原理、この性質というパン種を死に渡すなら――イエスの命もまた私たちの死すべき体に現わされます。この死による以外に命はありません。この死によってすべての命がもたらされます。この命の意義と働きは何でしょう?

私たちは、自分は神に対して生きている、と認めなければなりません。神に対して生きるとはどういうことでしょう?愛する人よ、この神に対して生きるということは、新しい生き生きとした知識と知能――古い人の知識や知能ではないもの――を意味します。あの古い理屈は死に渡されて、今や新しい知識となっています。再びお尋ねしますが、あなたの場合、種なしパンの祭りによる決定的転機のゆえに、あなたはこの転機後に臨んだ生き生きとした知識を持っているでしょうか、それとも、古い人、古い理屈、古い判断を神に属する事柄の中に持ち込んでいるのでしょうか?もしそうなら、あなたが生きている間、あなたは死んでいることがわかります。これが理由で、多くのクリスチャンは生き生きとした啓示を受けていないのである、と私は信じています。

愛する人よ、私を信じてください、生き生きとした神の啓示を受けること、聖霊の啓示によって主を知ることは、神のすべての子供の生得権なのです。これはあなたの生得権です。ああ、すべてのクリスチャンがそうであって、それを持っていたなら、状況はなんと異なっていたことでしょう!神のすべての子供が、心の中に直接臨む主の啓示の光の中に真に生きていれば!啓示は御言葉を通して臨むかもしれませんが、それは私たちのものです。私たちはさいわいなことに、ご自身を私たちに啓示してくださる主を個人的に享受します。もしそうでなければ、私は自分の聖書を理解できません。私は神の御言葉の多くを閉じて、「これは言葉どおりの意味ではありません!」と言わざるをえません。ヨハネが述べている、私たちの中に住んで私たちにすべての事を教えてくれる油塗りの意味は何でしょう?主が述べておられる、「しかし彼、すなわち真理の御霊が来る時、あなたたちをすべての真理へと導きます。なぜなら、彼は自分から語るのではなく、彼が聞くことを語り、来たるべき事をあなたたちに明らかにするからです。彼はわたしの栄光を表します……」という御言葉の意味は何でしょう?もしこれが次のことを意味しないとするなら、他に何を意味するというのでしょう。すなわち、神の子供はみな、主を知る個人的な内なる知識を持たなければならない、という意味です。この知識は、最初は小さなものかもしれませんが、絶えず成長して増し加わっていかなければなりません。それは、主が神の子供に内なる方法で、みこころ、御心、御思いに関して語り、常に彼らを教えられるようになるためです。確かに、愛する人よ、これは命です、これをなすのはこの命です。主が言うべきすべての点について、命の御霊はあなたに触れてくださいます。もしあなたが神に対して生きているなら、神の御霊は、主が何かを述べる必要があるすべてのことで、主の御心に関してあなたに触れてくださいます。

彼は服装の問題であなたに触れられるでしょう。あなたの会話の問題であなたに触れられるでしょう。あなたの生活中の何らかの矛盾や、あなたの取引中の何らかの不義についてあなたに触れられるでしょう。あなたが信頼できるかどうかという問題で、あなたに触れられるでしょう。約束を守る几帳面さという問題でも、あなたに触れられるでしょう。正直さや律義さの問題であなたに言うべきことがあることは何であれ、あなたに触れられるでしょう。ああ、聖霊にある生活ほど人格を形成するものはありません。これは命であり、啓示であり、主を知ることです。主を知ることや主の啓示は素晴らしい栄光の神の麗しい開示に限られる、と思わないでください。そうではなく、主の啓示はこのような実際的事柄に関するものなのです。ああ、そうです、私たちはそれを通ってきました。私はそれが真実であることを知っており、あなたもそれが真実であることを知っています。神と共に歩むことは検査されることであり、聖霊によって検査されることは主を知ることです。

さて、種なしパンの祭りが確立されないかぎり、死者の中から生かされた者として神に対して生きることはできません。これは、自分自身の意志、思い、願い、自分に属するものはみな、打たれなければならないことを意味します。転機を経なければなりません。何かがなされなければならないとはいえ、これは一つの行為で、一度かぎり、完全かつ決定的になされることではありません。なにかが砕かれて、その時以降、神は道を確保されます。そしてあなたも私も、獲得されたその道を通して神が示されたことに応じていくうちに、それはますます大きくなっていき、自分にとってかつては全く無害だったことが今やできなくなります。主はこれらの問題に関して恵み深くあられます。主は私たちにそれらの問題を一度にすべて持ち出したりはなさいません。主と共に進み続ける時、私たちがどう変わるかは驚くべきことです。私たちはあるものを捨てて、変わります。これはどのように起きるのでしょう?それを言葉にすると、「主はそれを望んでおられない」、もしくは、「主はそれを望んでおられる」と感じるようになった、ということです。神のすべての子供がこの経験をますますするようにならなければならない、と私は信じています。そうでなければなりません。さて、内省して、自分の霊的衣装ダンスについて調べ始め、これやあれがなくても大丈夫かどうかを確認したりしないでください。主と共に歩んでください。そうすれば、衣装ダンスの中身が変わることにあなたは気づくでしょう。

ああ、聖霊に信頼してください。そうすれば、聖霊はあらゆることであなたを正してくださいます。しかし、気をつけてください、種なしパンの祭りがすべての根幹でなければなりません。つまり、天然の命は根底から全く打たれなければなりません。イエスの致死力が私たちの内に徹底的に働き始めなければなりません。信者の人生、教会の歴史が全くそこから始まるとき、すべてがそこから始まるとき、その時、神から見て、種なしパンの祭りに基づかない教会はなくなるでしょう。これがなされないかぎり、歴史はなく、何もないでしょう。こういうわけで、彼はこの問題を大いに強調されたのです。何も存在しえず、何も生じないだろうからです。神は何かを求めておられたからです。その何かとは全くご自身に属するもの、全くご自身から出ているものです。

新たにほふられた小羊

そこで、「種なしパンをもって」というささやかな句が、長子の分離という特定の文脈で取り上げられて敷衍されています。へブル人への手紙はそれが何かを私たちに告げます。「あなたたちは(中略)天に登録されている長子の教会に来ているのです」。この登録の意味は、黙示録を見ると、小羊の命の書と関係していることがわかります。小羊の命の書を見ると、御座の小羊はずっとほふられていたかのように見えます。小羊は栄光・高揚・力の究極的地位に到達されましたが、依然として、ほふられたかのように見えます。この言葉には、「ほふられたばかりのような、新たにほふられたかのような」という意味合いがあります。神はこれを最後まで新鮮なものとして御座に保たれます。天で小羊の命の書にその名を登録されている長子たちの教会は、その生活が過越の祭りに基づいている人々です。種なしパンの祭りの終わりにほふられた小羊に基づいている人々です。これはたんなる予型ではありません。大いに心を探る真理です。

もしすべての聖餐式がこれを背景としていたなら、今日の世界の状況はなんと異なっていたことでしょう。この問題に関する神の御旨が失われてきたことは、なんという悲劇でしょう。それは儀式、祭典になってしまいました。確かに、主の食卓を囲む私たちはこの問題をもっと深刻に考えなければなりません。

全イスラエルがこの小羊の中に共に見いだされます。イスラエルには何千もの小羊がいたかもしれませんが、天にはただ一頭の小羊しかいません。これを主の晩餐に適用すると、神の目にはこれまでただ一頭の小羊しかいなかったことになります。皆が一頭の小羊を食し、一頭の小羊にあって結ばれ、一頭の小羊を共有するがゆえに結ばれました。それゆえ、これは交わり、交わりの祭り、祭りの交わりでした。真の交わりの基礎は何でしょうか?私たち全員が同意しているように、主の食卓は私たちの交わりの中心でなければなりません。他のなにものにもまして私たちの交わりを表すものでなければなりません。交わりの基礎は何でしょう?ああ、パウロが述べていることは、実に原則に則しています。コリントの状況をもう一度見てください――主の食卓がそこにありましたが、交わりどころではありませんでした。皆が分かれて、教会の中で対立しあっていました。それでも、主の食卓に来て、その中心思想を否んでいたのです。パウロは述べています、「主の体をわきまえないで、ふさわしくないままで食べ飲みする者は、自分自身に対する裁きを食べ飲みすることになります」。私たちが食卓に着くとき、それは裁かれることのない交わりを基礎としたものでなければなりません。これが種なしパンです。あなたも私と同じくご存じのように、「私」が打たれないかぎり、主の民の間に交わりはありえません。交わりを破るのは「私」であり、自己であり、私事なのです。私たちの理屈、願い、願望、信念なのです。

ああ、主の民の果てしない分裂と分断の悲劇!それが今も昔も続いています。人の知性が――ささいなことで――特定のキリスト教の真理を弄んでいるのです。人の知性のせいなのです。これは、基本的な種なしパンが実際にないためです。天然の人が取り除かれていないのです。これがなされないかぎり、交わりを持つのは不可能です。種なしパンが交わりの祭りに不可欠です。しかし、神はほむべきかな、基本的にそれがなされているなら、分裂や離散を引き起こす様々なものが生まれつき私たちにはあるかもしれませんが、この基本的なことが起きているおかげで、私たちは進み続けることができます。私たちは皆、生まれつきとても異なっていますし、他の人々が私たちと仲良くするのはまったく無理であるようなこともたくさんあります。しかし、あえて言うなら、私たちの内に基本的な何かがなされたのです。十字架がどこかで何かを成し遂げたのです。これが私たちの交わりの安全保障です。私は信じていますが、少なくともある程度はこれがなされたので、個人的な関心事は打たれ、主ご自身だけが支配するようになったのです。主のために個人的なものをすべて放棄できるようになったのです。

私たちは、この種なしパンの問題について、主に実際に尋ねなければなりません。なぜなら、すでに述べたように、私たちの輝かしい人生とその成果はみな、これから生じるからです。パン種のあるところには死があります。そこには腐敗があるからです。パン種のないところには命があります。腐敗の根幹、腐敗の種が打たれたからです。主よ、この重要性を私たちに教えてください!