第七章 最終的顕現における栄光

T. オースチン-スパークス

「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」(詩篇八七・三)。

「しかし、あなたたちが来ているのは、シオンの山に、生ける神の都である天のエルサレムに、無数の御使いたちの祝会に、宇宙的集会と天に登録されている長子の教会に、万物の裁き主である神に、完成された義人たちの霊にです」(ヘブル十二・二二、二三)。

「神に、教会の中で、またキリストイエスの中で、栄光がすべての世代に至るまで、永遠にわたってありますように」(エペソ三・二一)。

「なぜなら、現在の時の苦難は、私たちに現される来たるべき栄光とは比べるにも値しないと、私は考えるからです。被造物は切なる期待をもって、神の子らの出現を熱心に待ち望んでいます。なぜなら、被造物が虚無に服従させられたのは、自分の意志からではなく、それを服従させた方によるのであって、それは被造物自身も、朽ち果てる奴隷状態から解放されて、神の子供たちの栄光の自由に入る望みがあるからです。全被造物は、今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみをしていることを、私たちは知っています」(ローマ八・十八~二二)。

「さらに天上の体と地上の体があります。しかし、天上のものの栄光は一つのことであり、地上のものの栄光はまた別のことです。太陽の栄光、月の栄光、星の栄光があります。星と星にも栄光の違いがあります。死人の復活もそのようです。朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活させられます。卑しさの中でまかれ、栄光の中で復活させられます。弱さの中でまかれ、力の中で復活させられます。天然の体でまかれ、霊の体に復活させられます。天然の体があるのですから、霊の体もあるのです。(中略)さて、兄弟たちよ、私はこのことを言っておきます。肉と血は神の王国を継ぐことはできませんし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことはありません。見よ、私は一つの奥義をあなたたちに告げます。私たちすべてが眠るのではありません。しかし、私たちすべては変えられます。それは最後のラッパの時、一瞬にして、またたく間にです。ラッパが鳴り響いて、死人は朽ちないものに復活させられ、私たちは変えられるのです。なぜなら、この朽ちるものは朽ちないものを着るはずであり、この死ぬものは、死なないものを着るはずであるからです。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る時、書き記されている言が成就します、『死は勝利のうちに飲み尽くされた』。『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか?おお、死よ、おまえのとげはどこにあるのか?』」(一コリント十五・四〇~四四、五〇~五五)。

「私たちの命なるキリストが現される時、あなたたちも彼と共に栄光のうちに現されます」(コロサイ三・四)。

「それは、しみやしわや、そのようなものがなにもなく、聖くて傷のない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです」(エペソ五・二七)。

これまで、教会における、またキリスト・イエスにおける栄光に取り組んできました。第五章は、栄光に包まれた神の開始についてでした。第六章は、隠れた働きにおける栄光についてでした。今、最終的顕現における栄光にやって来ます。私たちが読んだ節はみな、これと関係しています。どの節を使い、どの節を省くかは、少し難しいところです。これに関連して思い浮かぶ節は、他にもたくさんあるでしょう。

被造物は虚無に服従させられた

さて、まず、ローマ八章の使徒のこの発言に取り組まなければなりません。神は主権的行為により、ある時、被造物を虚無に服従させられた、と使徒はこう述べています。「被造物が虚無に服従させられたのは、自分の意志からではなく」(二〇節)。神は、被造物の望みや願いとは反対に、またそれに逆らって働かれました。「自分の意志からではなく、それを服従させた方によるのであって(中略)望みがあるからです」。しかし、この記述は、神は主権的に働いて被造物を虚無に服従させられたということです。「虚無(vanity)」という単語は、現代英語の用法では、原語の意味をほとんど伝えていません。この言葉のより適切な訳語は「失望(disappointment)」でしょう。この言葉は原語では次のようなニュアンスを常に帯びています――たんなる失望だけでなく、失望を伴う惨めさ、というニュアンスです。ですから、この言葉の真の意味は失望の惨めさになります。神は意図的に被造物を失望の惨めさに服従させられました。被造物にはある存在目的がありましたが、その目的、その使命に応えるのをやめてしまいました。その目的・使命とは、神の性質を表すことでした。なぜなら、神の性質を表すときに、神の栄光が現わされるからです。神が、その存在の本質にまさに適うもの、ご自身の本質と存在が持つべきものを得ること、それを得て全く満足されること、それが栄光です。しかし被造物は、神の満足のために神の性質を表現するという使命にしたがって進んで、神の栄光のために存在することをやめてしまいました。そこで、神は被造物にこの制限を課して、被造物の中に活発な作用力として使命の代わりに失望を置かれたのです。強力な失望を置かれたのです。使命を失っただけでなく、その存在状態では実現不可能になった、という失望です。

失望がこの被造物全体の上にとどまっていることを証明するのに、議論の必要はほとんどありません。被造物が進めば進むほど、失望はますます大きくなり、惨めさはますます厳しく、恐ろしく、大きくなります。そうではないでしょうか?私たちはその十分な証拠を持っていると思います。しかし、まず第一に、神が主権的に働いて、被造物を失望とその結果としての惨めさという境遇にもたらされたのです。

うめく被造物における御業の進展

次に使徒がここで二番目に述べているのは、うめく被造物においてある御業が進んでいるということです。第一に、被造物自身「うめき、産みの苦しみをしています」。次に、なにかが産み出されようとしています。なにかが進行中です。なにかが問題を引き起こしており、それがこの状況の原因となっています。私たちはこのことに十分注意していないと思います。被造物や世界の状況は、苦悩や失望や悲惨さで満ちていますが、これはなにかがやって来ようとしていることを示しているのです。これらのうめきや産みの苦しみは、なにかがやって来ようとしていることを預言するものなのです。「全被造物はうめき、産みの苦しみをしています」。

「私たち自身もうめいています」

そして次に、使徒は「御霊の初穂を持つ私たち自身も、自らの内でうめいています」と述べています。「御霊の初穂」。これは別の種類のうめきです。これは被造物の内側のさらに内側のうめきです。被造物は、私たちがうめいているのと同じようにうめいているわけではありません。被造物は、私たちがうめき求めているもののためにうめいているのではありません。被造物は御霊の初穂を持っていません。この御霊の初穂とは何でしょう?この御言葉を引用した章は、御霊の初穂が何なのかを示しています。

御霊の初穂

「……神の霊があなたたちの中に住んでおられます。しかし、だれでもキリストの霊を持っていないなら、その人はキリストのものではありません」(九節)。私たちは御霊の初穂を持っています。第一に、御霊が私たちと共に住んでおられます。次に、「神の霊に導かれている者はみな、神の子たちです」(十四節)。御霊の初穂――御霊が内住している者たちは御霊に導かれます。次に、「御霊ご自身、私たちの霊と共に、私たちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。そしてもし子供であるなら、相続人でもあります。すなわち、私たちが彼と共に栄化されるために、彼と共に苦しむなら、私たちは神の相続人であり、またキリストと共同の相続人です」(十六、十七節)。御霊は、私たちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。御霊の初穂――内住し、導き、証しします。その初穂を持つ私たちは、まさに御霊の内住、御霊の導き、御霊の証しによって、自分が神の子供であることを知ります。まさにそのことによって、私たちは自分がうめいていることを知ります。何のためでしょう?私たちは御霊の初穂を持っています。御霊の初穂は御霊の実のすべてではありません。さらにまさったもの、さらに豊かなもの、さらに大きなものを示すものにすぎません。そして、私たちにおける御霊の働きにより、自分の霊的状態に対する神聖な不満が生じます。あるいは、別の言い方をすると、さらにまさったものに対する神聖な願いと渇望が生じます。初穂は、豊かな収穫を指し示すものであり、さらに多くのものがあることを示すものです。それは何でしょう?初穂は御霊の御業の目的を指し示すのです――その目的とは「私たちが彼と共に栄化される」ことです。

さて、使徒は被造物自身に目を向けて、被造物全体が、御霊の働きによって私たちの中で進行していることに依存している状態にある、と述べています。「被造物は神の子らの出現を待ち望んでいます」(十九節)。被造物はうめき、産みの苦しみをしています。神の子らの出現を待ち望んでいます。御霊がその働きを終えて、神の満足のために、子たる身分に基づく輝かしいものをもたらされるまで、待ち望んでいるのです。

被造物は束縛から解放されることになる

神が被造物の中からそれを獲得される時、使徒が続けて述べているように、「被造物自身も、朽ち果てる奴隷状態から解放されて、神の子供たちの栄光の自由に入」ります。神の子供たちの栄光と自由、解放に入ります。被造物における束縛、私たち全員における束縛は、輝かしい出現、栄光の出現を指し示しており、その後、被造物に対する約束が実現される時、全被造物は解放されて、神は御旨を達成されます。「被造物は切なる期待をもって、神の子らの出現を待ち望んでいます」。「切なる期待」というとても強い言葉がここで使われています。これはとある人の絵図です。その人は身を乗り出して、前方を、先を見ています、水平線を見渡しています。まるで、そこに現れるものにすべてがかかっているかのようです。視線、注意、全存在が、その水平線に集中しており、それが現れるのを、近づきつつあるなにかを待ち望んでいます。使徒はこの言葉が示す絵図を使って、被造物はこのような状態にあると述べています――切なる期待をもって、身を乗り出し、集中し、神の子らの出現を待ち望んでいるのです。なぜなら、その出現に自らの解放と自由がかかっているからです。

栄光の出現

こうして私たちは究極的・最終的な栄光の出現に導かれます。しかし、「出現」というこの言葉について少し考えてみてください。栄光の創造ではなく、出現であると述べられています。つまり、なにかがすでに進行中なのです、なにかがすでに存在しているのです、なにかがすでに働いているのです。これは私たちを前の章に――恵みの強力な働き、恵みに基づく栄光に――連れ戻します。「彼の恵みの栄光へと至る」。御霊によって私たちの内側である働きが進行中です。私たちを変化させ、造り変え、キリストの似姿、その神聖な性質にあずからせて、試練・苦しみ・逆境・苦難の下でそれを表現させつつあります――そうです、栄光に基づくあの恵み、恵みに基づく栄光、そのすべてが進行中なのです。栄光が隠れた形で存在しています。神の恵みが私たちの中で勝利するたびに、彼の栄光となります。本質的な神の栄光が私たちの中で進行しています。そしてその後、隠されているもの、秘密裏に進行してきたもの、御霊が形成された一切のもの、御霊が造り変えられた一切のもの、御霊の深い一切の働き、御霊によってキリストにしたがって構成された一切のものが、完全に現わされます、栄光のうちに現わされます。

この出現はいつ起きるのか

それはいつ起きるのでしょう?この出現は教会における栄光の出現であり、予知され、キリストにあって選ばれ、前もって定められた選民の出現であり、世界が造られる前に神がキリストにあって選ばれたこの子らの出現ですから、選民の数が満たされるとき、この教会の最後の一員が迎え入れられるときはじめて、それと同時に、この栄光は出現します。キリストの来臨もこれと関係しています。その出現に協力することもできますし、その日を早めることもできます。もちろん、それは私たち自身の霊的進歩の問題である一方で、私たちが聖霊と協力して選民の数を満たすこともとても重要な問題です。神だけが選民が誰かご存じです、私たちにはわかりません。ですから、御霊に導かれる必要があります、ピリポが荒野に導かれて一人の人、戦略的にとても重要な人を見つけたようにです。あなたはどこかに行こうと決めて、群衆を集めるかもしれませんが、その時ではないため、あるいは他のなんらかの理由で、努力しても選民は一人も得られないかもしれません。聖霊が真にあなたを導いておられるなら、聖霊は選ばれた人を追い求めておられると、あなたは常に確信していられるでしょう。選ばれた人がどこにいるのか、聖霊はご存じです。しかし、細かいことはさておき、重要なのは、こういうわけで次のような緊急の要請があるということです。すなわち、御霊のこの働きに取り組んで、彼と共に選ばれた人を探し、選民の数を満たす必要がある、という要請です。なぜなら、その栄光には子らの出現が必要だからです。

この「子らの出現」という句には、私が示したことをはるかに超える内容があると思います。私はとても単純であろうと努めています。この子らは、創世の前に、すべて予知されていましたし、選ばれていましたが、神は彼らが誰なのかを決して私たちに告げませんでしたし、彼らが誰なのかを決してだれにも告げませんでした。神だけがご存じです。それは神の秘密です、誰がご自身の教会を構成しているのかを神はご存じです。神の教会を構成する者たちだけが最終的に救われるわけではありません、神だけが彼らが誰かご存じです。しかし、それが出現する時、神がずっと知っておられたことが開示されます。永遠の過去から神はご自身の秘密、ご自身の選民、ご自身が選んだ者を知っておられました、そして彼らが現わされます。もちろん、これには多くの困難な問題が含まれます。

単純な点に話を絞ると、第一に、子らの出現には子らを確保する必要があります。私たちに関するかぎり、私たちは聖霊と協力して選民の最後の一人を迎え入れなければならない、という重大な責任を感じてしかるべきです。世の基が据えられる前からキリストにあって選ばれていた人が、自分による聖霊の働きの圏内にもしやいるかもしれないと、私たちは手を差し伸べなければなりません。救われていない人、まだ中に集められていない人々に手を差し伸べようと、一念発起しなければなりません。それは、人々を地獄から救うためだけではなく、神を満足させて、これらの子らの出現によって被造物が解放されるためでもあります。

次に、恵みの働きが私たちの中で完成される時、子らが出現します。これに関して、私は教会全体について考えたいと思います。今、私の教義に対してあなたがどう言うか、私にはわかりません。問題に巻き込まれることになると思います。しかし、あえて危険を冒すことにします。私は既存の苦難、逆境、試練をすべて受けることはできません、それゆえ、神の恵みをすべて使い尽くすこともできません。しかし、あなたは私と共に苦しむことができます、私たちはそれを共有することができます、また、あなたはあなたの苦難によって私になにかを加えることができますし、私もあなたになにかを加えることができます、そして、私たちはお互いの苦難によって相互になにかを加え合うことができます。ああ、兄弟よ、あなたは苦難に遭っています、しかし、あなたは一人で苦しんでいるのではありません。あなたの苦難は私の益になり、私の苦難はあなたの益になります、あなたは私の苦難にあずかり、私はあなたの苦難にあずかって、個人だけでなく全体の一部としての個人が全体的に完成されることになります。完成されることになるのは教会です。その一員がその栄光をすべて持つことは不可能であり、したがって、その一員がすべての苦難を受けることも不可能です。これは相互的なものであり、苦難における協力関係であり、協調性です。それは共に栄光を受けるためです。私たちは共に栄光を受けます。それは教会における恵みの完成です。ああ、なんと多くのことを私はくぐり抜けなければならなかったことでしょう、神のすべての恵みが個人としての私において完成されるとしたら。私はそれに耐えられません。私に神の恵みを使い尽くせと言っても、到底無理な話です。ああ、神の恵みはなんと大きいのでしょう!私がそのすべてを知るには、あまりにも大きな代価が必要でしょう。からだの中で、神を満足させる一団の中で、恵みを完成させるというこのことに、私たちは共にあずかっており、互いに分かち合っているのです。

これが終末における厳しい患難の理由ではないでしょうか?なぜ終末に患難が激化し、増大しなければならないのでしょう?黙示録には、敵が一時的に聖徒に打ち勝つことが書かれていますが、なぜそんな恐ろしいことが書かれているのでしょう?しかし、それで終わりではありません。確かに 終末には多くの患難があり、患難が増しますが、恵み、勝利、栄光も増すのです。こうして、言わば、神の恵みを可能なかぎり完璧に知っている選民が十分な数に達する時、栄光が現わされるのです。

彼の出現の栄光

次に、もちろん、この出来事があります。私は、主の来臨は孤立した別個の出来事であり、神の計画の中の一つの出来事にすぎない、とは思いません。それは、これまで述べてきたことと密接な関係があります。主の来臨は、選民が完成されることにかかっています。恵みの御業がなされることにかかっています。この恵みの御業によって、栄光の出現が可能になります。なぜなら、それは栄化を可能ならしめる根拠だからです。栄光は否応なく実現されるものではありません。要求をしてくるのです。しかし、主の来臨は来臨です。それは主の来臨であり、彼の出現に関連する栄光について、私たちは多くのことを見いだします。

また、主の来臨には二つの面があることがわかります。一つ目は主の出現です。これは栄光の出現です。主ご自身が、「人の子が御父の栄光の中で御使いたちと共に来るのを見たら、あなたたちはどうなるのか?」と問われました。これは主の出現における栄光です。

携挙における栄光

しかし、ここでのもう一つの面は携挙における栄光です。主の出現は一方の面であり、主の出現の時に私たちが携え挙げられることは他方の面です。「見よ、私は一つの奥義をあなたたちに告げます。私たちすべてが眠るのではありません。しかし、私たちすべては変えられます」(一コリント十五・五一)。私たちがこの地上にいるにせよ、よみがえらされるにせよ、この御言葉があてはまります。これは主の出現のときの携え挙げであり、次に、この出現の中に他の幸いな結末がすべて含まれます。一コリント十五章から、復活における栄光についての、あの素晴らしい節を読みましょう。「太陽の栄光、月の栄光、星の栄光があります。(中略)死人の復活もそのようです」。この復活は栄光であり、使徒はここでそれを体に焦点づけていますが、もちろん私としてはそれでかまいません。しかし、「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」。この栄光の一つが、歓迎の栄光です。この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬものは死なないものを着ます。この天然の体は過ぎ去り、この魂の体は過ぎ去り、あの霊の体が到来します。私は、これに関して使徒が別の個所で述べている言葉が好きです。「私たちは神からの建物、すなわち手で造られたのではない住まいを得ます」(二コリント五・一)。霊的なものを手で造ることはできませんし、それゆえ、霊的なものを手で切り裂くこともできません。それは、「天にある永遠の」「手で造られたのではない」住まいです。主の出現と私たちの変化における栄光の一つは次のことです。すなわち、いま私たちがこの苦痛と苦難と弱さと制限の中にある体にあって経験していること、この破綻した人間性によって私たちに臨むことはみな、主の出現のとき過ぎ去るのです。そして、そのようなものが一切ない栄光の体が到来するのです。「死は勝利のうちに飲み尽くされた」(一コリント十五・五四)。私たちは、「神に感謝します。彼は私たちの主イエス・キリストを通して、私たちに勝利を与えられます」(一コリント十五・五七)という御言葉を、まるでそれが私たちの地上における現在の霊的生活にあてはまるものであるかのように、しばしば引用してきました。まあ、この御言葉をあなたの好きなように使っていただいてかまいませんが、実際には、この御言葉は私たちの霊的生活にはあてはまらず、私たちの体にあてはまるのです。「神に感謝します。彼は私たちに勝利を与えられます」。この勝利は、主の出現のときに与えられる、私たちの肉体の死に対する勝利です。死に対する勝利です。ああ、死がこの死すべき体の中に働いています。それは私たちになんという苦難や制限を課すことでしょう!こうした一切の死の働きに打ち勝つために私たちはどれほどうめいていることでしょう。使徒は言います、「おお、死よ、おまえの勝利はどこにあるのか?おお、死よ、おまえのとげはどこにあるのか?」。私たちは今、朽ちないものによみがえらされます!神に感謝します、彼は私たちに勝利を与えられます!これは肉体的な勝利のことです。

これらのことを、もっと詳しく説明することもできますが、ここでは割愛します。ただ、「ああ、神の都よ、栄光ある事が、あなたについて語られる」という御言葉を見るだけにしておきます。これらのことはその諸々の栄光の一部なのです。その結末は栄光です。神はすべてをご自身の開始に見合ったものにされます。彼は栄光のうちに開始されました。私たちが主を知るようになった日、栄光が私たちの内に生じました。その栄光は、私たちのクリスチャン生活の年月の間、恵みに基づく、秘密の隠れた働きになりました。その栄光は、当初の制限された形ではなく、その最終的豊かさの形で、再び現れることになります。最終的に、恵みの働きはすべて完了し、栄光が完全に現わされるのです。

一つの包括的思想を述べて終わることにします。それは、私たちは栄光に召されている、ということです。今、あなたの悩みは何でしょう?私たちの問題は何でしょう?その結果はとうてい栄光ではありえない、と私たちは思っています。私たちはなんと惨めな者たちでしょう、弱さや失敗その他もろもろをなんと頻繁に露呈することでしょう!私たちは栄光に召されていますが、決して自分自身の美徳や価値のおかげで栄光に至るわけではありません。それは彼の恵みによります。私はこう信じています――こう述べてもかまわなければ――最終的に最も大きな栄光を持つことになる人々は、最も大きな恵みを必要とし、それを経験した人々なのです。ですから、そうである以上、私たちには希望があります。これにすがって、それを信じようではありませんか。結末は栄光です。神はそうなるように定めておられます。