第四章 天の普遍性

T. オースチン-スパークス

神が目指しておられる目標は、主イエスの普遍的主権です。しかし、主イエスはひとりの御方であるだけでなく、天的体系の代表者でもあられます。主イエスはひとりの御方として現わされただけではありません。彼はひとりの御方として啓示されましたが、それだけでなく天の体系の代表者としても啓示されました。昔の幕屋はそのすべてが主イエスを示すものだったがゆえに、包括的な体系でした。昔の宮は主イエスを予型的に示すものであり、宮と関係している一切のものの中に彼を見ることができたがゆえに、宮は一つの体系でした。ですから、これらの型は主イエスが示しておられる一つの体系を指し示しており、神がキリストにしたがって万物を再構成される時、この体系が普遍的に支配することになります。これを神はしておられることを、私たちは認識しなければなりません。

「キリストにしたがって」が標準です。それが、神が御心に留めておられる一切のものの尺度であり、性格です。神の新創造は、ですから、全くキリストにしたがって構成されています。ですから、それはひとりの御方にあって結ばれている一つの体系であり、キリストのものである人々はその中に入らなければなりません。それは最終的に、この「からだ」がキリストを一つの霊的体系として全宇宙に示すようになるためです。

主イエスは神の天的体系の代表者となられた以上、私たちはキリストにあるすべてのものを――神によって確立された原理と法則という点で――普遍的なものとして見なければなりませんし、キリストの豊かさの中に入らなければなりません。そうすることは、たんにある種の豊かさの輪の中に入ることではありません。神が主イエスの内に見ておられるあらゆる豊かさの中に入らなければならないのです。神は私たちを主イエスの豊かなあらゆる天的意義の中に導くことを願っておられます。

新生の普遍性

主イエスの誕生とその普遍性についてはすでに述べました。それはたんなる「受肉」と称されている出来事ではないことを、私たちは見ました。それはそうではあるのですが、ただそれだけではありませんでした。私たちが御霊から生まれる時、上から生まれたがゆえに霊的な意味で上から下って来る時(とはいえ、私たちの新生と主イエスの誕生との間には大きな違いがあります)、それは聖霊の結果であり、そして新生によって私たちは起源においても出生においても天的になります。この同じ聖霊によって御霊から生まれる時、私たちは直ちに主イエスご自身の普遍性にあずかることになります。

私たちの子たる身分は普遍的なものです。神の子らの出現は全被造物に対してなされます。神が御旨を達成されないかぎり、被造物はそこに到達できません。神の御旨は神の子らの出現です。全被造物がそれと関係しています。これは――この新生は――途方もないことなのです。これはあまりにも通俗的なものになっています。これが網羅する領域を見ると、天がその中にあります。地獄もその影響を受けます。なぜなら、最終的に教会、キリストのからだによって、サタンは天から追い出されることになるからです。

真に新生して、子たる身分の霊が実際に入って来られる時、恐ろしい戦いの歴史が始まります。この戦いは、その霊の中で、天と地獄との間でなされる戦いです。新生していない人たちに、この戦いはわかりません。肉にある人たちは人格を持つ悪魔を信じていませんが、このこと自体が自らの問題を示すものであり、とても重大な意味があります。地獄の狙いは神から生まれたものを損なうことです。霊的成熟に達する時、地獄はその力を失うからです。ですから初期の頃に、敵は神に属するものを損なおうとします。

この世の体系の背後には悪魔的意識があります。そして、神に属するものが入って来て優位に立つなら、その体系はなくなってしまうことを自覚しています。宗教界の中にいる天然の人は、神の御霊に属するものを嫌います。純粋に霊的で天的な事柄を、あらゆる見せかけの敬虔さと外面的な形式を伴う今日の宗教界に持ち込むなら、直ちに戦いが生じます。天然の人がそこにやって来て、脚光を浴びて楽しんでいます。天然の人が実際にそこにいます。そして、純粋に霊的なものを持とうとせず、それに対して戦います。これが主イエスの生涯に起きたことです。彼に最も抵抗したのは宗教界でした。宗教と真の霊性とは、別世界のように異なっています。

その範囲と内容と豊かさを認識することがなんと重要でしょう。私たちは、主イエスと新生の意味について、その豊かさの中に細部に至るまで入り込まなければなりません。「私は再生されました」と言うだけでは不十分です。主は私たちを導いて、新生とは何か、その本質と現実を見せることを願っておられます。私は確信していますが、キリスト教の問題・弱さ・敗北のほとんどは、クリスチャンがキリスト教の意味を認識していないからである、ということで説明できます。新生に関する適切な観念を持っている人なら、この世に少しでもとどまり続けることは不可能でしょう。「世的なクリスチャン」という句は、言葉として矛盾しています。地に属することと天に属することとは違います。新生に関する真の観念を経験的に持っているなら、なんであれこの世の体系の中にあるものと霊の中で自発的に一つになって幸福感を覚えることはありえません。しかし、今日の状況を見てください――クリスチャンたちは、救われることと、人生の半分をこの世ですごして、この世のものに夢中になることとに、なんの矛盾も感じていません。これは、新生の本質自体に矛盾しています。新生について適切に理解しないかぎり、完全に神にしたがっているものは得られません。敵は、この世の体系を通して、神を示すはずのものを依然として握っており、それを神を否定するものとしています。敵はこれを掲げて、「主に属しているはずのものが、この有様とは」と言っています。

しかし、欠けているのは、目を開かれて新生の性質を見ることだけです。新生には、この世の体系全体を打ち砕く天の力があります。新生にはそれを滅ぼす力があります。この世の体系は神の子らの出現によって滅ぼされることになります。なぜなら、神の子らの出現とは、キリストがご自身の教会において現わされることだからです。ですから、私たちに必要なのは、新生のような基本的・基礎的な事柄に対して、主に私たちの目を開いてもらうことです。

批判的にはなりたくありませんが、主が御心にかなうものを得られますように、という熱意で私は燃やされています。きわめて危険な傾向が生じています。それは組織的な方法で「キリストのための決意」を求める大衆運動です。あなたが大衆的な方法で福音を説き、例話や物語や説明を持ち込み、感情を掻き立てるように計算されたものを持ち込む時、そして次に、なんらかの行動を求める時、それによって大衆が押し寄せて、その時から、彼らは自分たちのことを救われた者と名乗るようになります。しかし、半時間たっても、新生の真の性質については相変わらず前と同じく無知なままなのです。彼らは進み続けることはできますが、新生の性質については無知なままです。にもかかわらず、彼らは「ある時、自分はクリスチャンになった」と言うのです。彼らの中には再生されていない人もいる、とは言いませんが、全体的に見てそれは危険な傾向です。なぜなら、新生の何たるかを知らない人々にキリストの御名を帯びさせているからです。彼らはそうするよう説き伏せられてきました。新生は魂の誕生ではなく霊の誕生であることを、私たちは理解しなければなりません。新生は上から再び生まれる問題であり、神の行為です。人にできるのは、せいぜい態度を決めることくらいです。

私たちに踏み出せる一歩は、一方の道か他方の道に向き合うことだけです。私たちは自分の意志で道に向き合いますが、すべては神の御手の中にあります。神との関係において、自分がいつどのような一歩を踏み出すのかは、だれにもわかりません。もし神が今、救いの信仰を私たちの手の届くところに置いてくださっているなら、あるいは、キリストにある何かを受け取るための他の何かを私たちの手の届くところに置いてくださっているなら、先送りにすることには永遠の危険が伴います。私たちは、神がそこに置かれたものに、神がそこに置かれた時に、向き合わなければなりません。別の時にその一歩を踏み出せる保証は全くありません。それはただ聖霊の御業です。私たちは人々に新生の意味をとても、とても明確に伝えなければなりません。新生の性質は壮大なものです。救われることは偉大なことなのです。

キリストのバプテスマの普遍性

ベツレヘムからヨルダン川に移ることにします。ヨルダン川は主イエスの生涯における次の重要な出来事です。彼のバプテスマの普遍的な意義と内容を見ることにします。まず最初に、バプテスマのヨハネが登場します。彼の誕生には大天使が関係していました。聖霊も関与しておられました。なぜなら、彼は生まれた時から聖霊に満たされることになっていたからです。バプテスマのヨハネは、旧約聖書のすべての預言者を公式に代表し、自らの内に集約していました。「ヨハネよりも偉大な預言者は起こったことがない」。主イエスは、「すべての義を成就するのは、わたしたちにふさわしいことである」と言われ、そして、バプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と主イエスを紹介しました。「神の小羊」「見よ、神の小羊」。何百万、何千万もの小羊がいけにえにされてきましたが、それ自身で神に受け入れられたものは一匹もいませんでした――ただ小羊なる御方に照らして受け入れられたのです。この御方はそれまで屠られてきたすべての小羊をご自身のパースンの中に集約されました。過去に遡るこの広がりには凄まじいものがあります。

これはヨルダン川でのことです。「世の罪を取り除く神の小羊」。普遍的な罪が彼の上に置かれました。そして、すべての罪を担っている状態で、彼はヨハネが述べなかった決定的な言葉を述べて言われました、「すべての義を成就するのは、わたしたちにふさわしいことです」「世のすべての罪」「すべての義」。これが彼の行いと関係していました。このバプテスマはなんと途方もないものなのでしょう。それによりすべての律法と預言者は成就されました。それにより全世界の罪は対処されました。それによりすべての義の問題は決着がつきました。なんというバプテスマでしょう!このようなバプテスマがあったでしょうか?そうです、あなたのバプテスマがあります。ただし、あなたはこのバプテスマの意義の中に入り込む必要がありますし、あなたのバプテスマは真実なものである必要があります。あなたが世の罪を担って取り除くのではなく、彼のバプテスマの益にあずかるのです。これらの言葉と共に、彼はヨルダン川の中に下って行き、そして出て来られました。彼は普遍的な死を示し、普遍的な裁きを受け、復活の命と、復活による新創造の普遍的法則とを示されました。これはすべて、過去のことだけでなく、これからのことも含んでいます。

次に、天が開かれました。天が再び介入し、次に地獄も介入しました。なぜなら、誘惑はバプテスマの一部だったからです。誘惑はそれだけのものではなかったのです。「その後、イエスは御霊に導かれて荒野に行かれた」。このバプテスマは過去と未来のすべてに影響を与えました。どのようにすべての義が主イエスのバプテスマによって予型的に成就されたのでしょう?それはまさにこういうことです――神は最小限の要件として罪なき完全を獲得されたのであり、神は罪なき完全ではないものを受け入れたことが決してない、ということです。罪なき完全をこの旧創造の中に見いだせるでしょうか?では、どうやって罪なき完全が成就されるのでしょう?旧創造は裁きの下で滅びなければなりません。そして、神に創造された新創造が生じなければなりません。それで、彼はヨルダン川を予型的に通って、そこから上がられたのです。彼の中に罪はありませんでしたが、普遍的な罪が彼の上に置かれました。主イエスの死・葬り・復活により、義の問題はすべて決着がつきました。パウロは神によって用いられて、バプテスマを次のように解釈しました(ローマ六章、コロサイ二・十二)。すなわち、罪の体をすべて除き去ることです。これは、いま私たちは罪なき完全にあずかれるという理論ではなく、罪なき完全であるものが私たちのために用意されているということです。しかし、それは私たち自身の中にはありません。私たちは依然としてとても罪深い性質を帯びており、私たちは「その性質に対して自分は死んでいる」と見なさなければなりません。上から何かが入ってきたおかげで、私たちはその性質を拒み、あたかもそれに対して死んでいるかのように生きることができるのです。

あなたにお尋ねしますが、あなたにとってバプテスマとはそのようなものでしょうか?御言葉の中で命令されているから、あるいは、主イエスが行われたから、自分も行わねばならないと思っているだけでは、この問題を取り扱うのに十分ではありません。唯一の適切な根拠は、その天的意義を見ることです。形式的にこの事柄の中に入って来るのでは、あるいは、命令だからというだけでは、あまり意味がありません。しかし、霊的理解力をもってその中に入るならば、悪魔が出て来てそれに反対します。それは形式や慣習ではなく、霊的な力の広大な領域を拓く力強い証しなのです。

同じように、変容、十字架、主イエスの祈りの生活、彼の復活、ペンテコステ、彼の再来を見ていくと、そのどれにも普遍性があることがわかります。それはたんなる出来事ではなく、その背後には聖霊によって開かれるべき深い天的意義があるのです。

霊的理解による成熟が力の秘訣である

私たちの目がそれに対して開かれる時、私たちはキリストの富を得ます。そして、それこそ敵が憎んでいるものであると私は信じています――すなわち、霊的成熟です。もし敵があなたの前進を止めて、神があなたに示された次の一歩を踏み出すのを妨げることができるなら、あなたに対する、またあなたによる神の御旨をすべて抑え込んだことになります。神の子供たちのあらゆる従順な行いには何が関わっているのかを敵は知っています。敵は、あなたが主のために決断し、御霊の働きを受け入れることを妨げようとします。敵は、「今、その一歩を踏み出してはならない」と言います。人と相談するように仕向けて、あなたを混乱させ、あなたが主と共に進み続けるのを阻止しようとします。主に対する従順な行いは、みな普遍性へと至ります。パウロのような人を見てください。彼はすべてを手放して、それまでに得たものをすべてくずと見なしました。さらに彼は言います、「兄弟たちよ、私はすでに得たとは思いません(中略)彼を知るために私は突き進みます」。これは何を意味するのでしょう?

パウロは述べていますが、主の啓示と主と共なる歩みには、失いかねない重大な何かがあります――それは救いではありませんが、救いの中に含まれる何かです。どうか主が私たちの心に、神の天的体系を代表しておられる主イエスのパースンと結びついているこれら一切の事柄の力と重みを示してくださり、全き成長に向かって進むよう私たちを促してくださいますように。