第二章 天が支配する

T. オースチン-スパークス

「天が支配する。」(ダニエル四・二六)。

四福音書が書かれたのは、そこに記されていることが起きてから何年も後のことです。かなりの時間が経っていました。なぜそれらが書かれたのかに注意することが重要です。使徒たちは、そこに記されていることを長いあいだ証ししてきました。それらを人々に伝えて、それらの背後にある霊的真理を確立しようとしてきました。このように、これらの事柄を証しして、人々の心の中に霊的真理を確立しようとしてきた彼らが、今や、彼らが証ししてきた事柄を確証するためにこれらの記録を記します。これが、これらの記録がある意味です。

大事な点は、は御子、主イエスのパースンにおいてこの世界に介入された、ということです。彼はこの世界の歴史の行程に介入されました。それには一つの主たる意図がありました――ご自身が権利を持っている事実を主張し、この世界にご自身の大権を持ち込むことです――それらは論争・反対・拒絶の的となっていたのです。

イスラエルが起こされたのは、これらの権利を示す者となるためでしたが、全体的にはイスラエルは失敗しました。神の権利を地上で証しして維持するための器としてのイスラエルは失敗しました。イスラエルは神の権利と大権を、具体的な公的形ではまったく表しませんでした。とはいえ、依然として忠信な者たちが所々にいましたが、その大部分は隠されていました。

ご自身の権利を持ち込むための神の介入は四重でした――1、マタイによる福音書に見られる、主権の問題における神の権利。2、マルコによる福音書に見られる、奉仕の問題における神の権利。3、ルカによる福音書に見られる、恵みの問題における神の権利。4、ヨハネによる福音書に見られる、愛の問題における神の権利。この四福音書は、キリスト・イエスにおける神の一つの介入を示しています。ひとりの御方を示しています。この御方には一つの御旨がありました。それは、神の権利を明らかにして、それらの権利を神のために確保することでした。四福音書が書かれたのは、恒久的な記録により、恒久的な形で、使徒たちが証ししてきたことを確証するためでした。1、主権――神の主権的権利と、知らされたその主権の性質。2、奉仕――奉仕における神の権利と、僕と奉仕の性質の何たるか。3―4、恵みと愛――これらにおける神の権利と大権。

これらによって、彼らは人々に神の要求と権利を認識して、それらに応じるよう召しました。彼らが御子のこの福音を宣べ伝えに行った所ではどこでも、神の権利を受け入れるようになった人々が彼らに加えられて、こうしてこれらの権利と大権に対する生ける証し人となったのです。

四福音書は天の支配の四つの面を導入します。マタイは王と主権的王国を導入します。「ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ一・一アメリカ改定訳欄外)。マタイが彼の福音書をどのように終えているのかは、きわめて印象的で注目に値します。「そしてイエスは彼らの所に来て(中略)言われた、『天においても地においても、いっさいの権利がわたしに与えられています。だから、行って、すべての国民を弟子としなさい』」(マタイ二八・十八~二〇)。マタイによる福音書は「すべての国民」で終わっています。

マルコによる福音書は、すべての造られたもので終わっています。「彼らが食卓に着いていた時、彼はご自身を現わされた(中略)彼は彼らに言われた、『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ十六・十四、十五)。それゆえ、僕と奉仕で終わっています。

ルカは人類を視野に入れていました。文脈から明確にこれがわかります。彼の福音書のキーワードは「人の子」です。彼は人類に向けて書いているのです。「わたしについて、モーセの律法と預言者の書と詩篇とに書かれているすべての事は成就されなければならない(中略)あなたたちはこれらの事の証人である」(ルカ二四・四四~四八)。それゆえ、すべての人に対する神の恵みで終わっています。

そして、ヨハネによる福音書では、すべての国民でも、すべての造られたものでも、人類でもなく、世の人への証しです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、世の人を愛された」(ヨハネ三・十六)。「なぜなら、神が御子を世に遣わされたのは(中略)世の人が彼を通して救われるためだからである」(十七節)。「この方こそまことに世の救い主である」(四・四二)。それゆえ、愛のメッセージが示されています。

この四福音書には、それぞれ大きな重要性があり、四つの面を持つ一つの福音にとって決定的に豊かで意義深い重要性があります。

福音の宣べ伝えで真に十分な効果を得るために、まず第一に必要なのは、統治における主の主権に対する絶対的確信です。これは基本です。この確信がないなら、基礎がないことになります。今や主権は主の御手にあることを、あなたは知らなければなりません。それは御子の福音です――「私が私の霊の中で、御子の福音において仕えている神」(ローマ一・九)。そして、御子の福音において仕えるには、統治の問題における御子の主権を絶対的に確信していなければなりません。彼自ら、「すべての権威がわたしに与えられています」と宣言されました――それは今や主イエスの御手の中にあるのです。

マタイによる福音書で、教会が新約聖書の中に導入されます。しかも、天の主権に関して導入されます――イエスはお尋ねになりました、「人々は、人の子であるわたしを誰であると言っているか?(アメリカ改訂訳欄外)あなたたちは、わたしを誰であると言うのか?(中略)あなたはキリスト、生ける神の子です!(中略)シモン、あなたは幸いである(中略)あなたにこのことを啓示したのは肉や血ではなく、天におられるわたしの父だからである(中略)この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる。ハデスの門も、それに勝つことはない(中略)あなたが地上で縛るものはすべて、天でも縛られ、あなたが地上で解くものはすべて、天でも解かれる」(マタイ十六)。

新約聖書へのこの最初の教会の導入には、いくつかの重要な意義深い特徴があります。主はご自身の教会の建設者です。「わたしはわたしの教会を建てる」(ゼカリヤ六)。地獄はこの教会建造に反対しますが、主権者である主は「ハデスの門も、それに勝つことはない」と仰せられます。これは争いがあることを意味します。御名により地と天で縛ったり解いたりすることは、主権的権威を物語っており、教会を地上におけるこの主権のための行政上の手段とします。なぜなら、教会は天の御座と連携しているからです。これは統治と関係しています。

きわめて重要な包括的事実は、教会は主が誰であるのかという啓示の上に建造されるということです。彼は「あなたたちは、わたしを誰であると言うのか?」とお尋ねになります。「あなたはキリスト、生ける神の子です」「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」。教会はこの主権の行政上の手段なのです。

印象深いことに、教会が導入されたのは、主イエスが決意を抱いてカイザリヤから十字架に向かわれた時のことです。十字架により、彼は教会を確保し、神の御旨を完成されます。マタイ十六章と黙示録一章を合わせると、そこには主権を御手に握っておられる主イエスの姿が見られますし、それは教会と関係していることがわかります。なぜでしょう?教会はこの主権の行政上の手段となるべきものだからです。「私は燭台の間に、人の子のようなを見た(中略)私は彼を見た時、彼の足下に倒れて死んだようになった(中略)彼は右手を私の上に置いて言われた、『恐れるな(中略)わたしは永遠にわたって生きている。そして、死とハデスの鍵を持っている。そこで、七つの教会に書き送れ……』」(黙示録一・十三、十七、十八、十、十一)。

この地上の政治的部門はみな、キリストの御手の下にあります。なぜなら、諸国民はこの世の政治的部門を代表しているからです。彼は権威をもって、「それゆえ、あなたたちはすべての国民のところに行きなさい」と命じられました。「人々が使者を殺すことはない」「悪は存在しない」と彼は述べておられるのではありません。この問題は解決されており、すでに決着済みであることが明示されている、ということです。黙示録では、それはすでに存在しているものと見なされています。なぜなら、黙示録はマタイ十六章の結果だからです。「わたしはわたしの教会を建てる。ハデスの門も、それに勝つことはない」「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている」(マタイ二八・十八)。「だから、諸国民のところに行きなさい。わたしはいっさいの権威を持っており、あなたたちを彼らのところに遣わします。地獄があなたたちに勝つことはありません」。

エペソ人への手紙に移ると、父なる神が主イエスをどうされたのかがわかります。「神は彼を天上でご自身の右に座らせ、すべての支配、権威、力、主権、唱えられるあらゆる名を越えて、遥かに高くされました(中略)そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました。この教会はキリストのからだです」(エペソ一・二〇)。「あわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに(中略)私たちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスの中で、彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました」(エペソ二・四、六)。彼はすべての権威と唱えられるあらゆる名よりも遥かに高いことがわかります。今、これに関して、私たちは彼と私たちとをつなぐものを見なければなりません。これは必要かつ大事なことです。私たちは統治のための手段を常に見ていなければなりません――それは、エペソ人への手紙の「すべてを遥かに超えて」という御言葉に見られる霊的高揚と関係している教会です。天の支配がマタイによる福音書で大いに強調されており、様々な形で示されているのは、とても意義深いです。しかも、マタイによる福音書は新約聖書の中に教会を導入している福音書なのです。

霊的優位性を示す象徴

1.山々

山々はマタイによる福音書で重要な地位にあります。教会を導入している福音書でそうであることは意義深いです。なぜなら、教会は霊的高みになければならないからであり、霊の中でこの世の外になければならず、自発的にこの世と関わったりしてはならないからです。教会の真の姿を見るには、「キリストと共に、すべてを遥かに超えた」高い観点から見なければなりません。神は教会をこのように見ておられます。そうであってはじめて、教会は、教会の至高のかしらである主イエスに与えられたあの主権を司る手段たりうるのです。

マタイによる福音書では、山々に十四回言及されています。山々は聖書では霊的優位性を表しています。マタイによる福音書では、主は山々から治めておられます。彼は山々で祈りのうちに夜をすごされました。死者の中からよみがえった時、彼は彼らと会うために山の中のある場所を指定されました。そして、復活した彼は、ご自身の教会を山々の中に置かれました。「弟子たちは、イエスが指示された山に行った(中略)イエスは彼らのところに来て(中略)言った、『天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている(中略)だから、行きなさい(中略)見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたたちと共にいる』」(マタイ二八・十六~二〇、アメリカ改訂訳)。

「終わりの日に、主の家は、山々の頂に堅く立てられ、もろもろの丘よりも高く上げられ、すべての国民はそこに流れて来る」(イザヤ二・二)。行政上の地位にある教会は常に天と関係しています。主は、栄光のうちに上げられる前に、山々で教会と会って任務を委ねられました。裁きも山々からです。「ああ、エルサレム、エルサレム(中略)わたしはいくたび、おまえの子供たちを集めようとしたことであろう(中略)しかし、おまえたちは応じようとしなかった!見よ、おまえたちの家は荒れ果てたまま、おまえたちに残される」(マタイ二三・三七~三八)。

マタイによる福音書の最後では、エルサレムは脇にやられて無視されています――「十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが指示された山へ登った」(マタイ二八・十六)。ここで主は彼らに主権について語っておられますが、その主権は諸国民に関するものです。ガリラヤは主権の問題であって、恵みの問題ではありません。エルサレムを受け入れるのは恵みです――「彼は彼らをベタニヤまで連れて行き、手を挙げて、彼らを祝福された。そして、天に上げられた。彼らは彼を礼拝し、大きな喜びをもってエルサレムに戻った」(ルカ二四・五〇~五三)。ただ恵みだけがエルサレムを受け入れます。主権はエルサレムを根拠とする権威を脇にやって、主権をすべて主イエスご自身に与えます。エルサレムから離れたガリラヤの山にいる方に与えます。それはキリストご自身に属する権威です。この権威はエルサレムにではなくにあります。彼は局在的であるだけでなく、普遍的でもあるのです。

ルカはエルサレムから始めます。ステパノが殺されるまでは、エルサレムで恵みが継続しました。ステパノを殺した時、彼らは聖霊に対して罪を犯し、主はエルサレムから出て異邦人すなわち諸国民に向かわれました。しかし、まず彼は、すべての諸国民と関係しているペンテコステのときに、エルサレムから一団の人々を獲得されました。彼を十字架につけた人々に対する素晴らしい恵みです。彼は彼らを追い出すこともできましたが、そうされませんでした!ご自身の代表者となる核をエルサレムから獲得されたのです。ここに主権的恵みの働きがあります!

また、彼はキリストの一肢体のうちに同じことを行って、それにより、キリストのからだの一肢体に触れる者は直接キリストご自身に触れるのであることを示されました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」。サウロはステパノという人物の中におられる彼を迫害していたのであり、聖霊に対して罪を犯していたのです。そこで、主は天から出て来られました。恵みがサウロに働いて、ついに彼はパウロとなったのです。

主は、エルサレムにその座がある権威をお認めになりませんでしたが、すべての国民に対する権威を扱うためにガリラヤに行かれました。マタイは、私たちの主イエスご自身に与えられた権威を導入します。次に、この権威を司る行政上の手段である教会を導入し、それを地から引き上げ、天と普遍的なものの中に移します。レムナント、選ばれた群れ、勝利者たる器、召された人々など、どう呼んでもいいのですが、彼らは霊的高みと優位性の地位に導かれなければなりませんし、こうして諸国民を管理・統治しなければなりません。しかし、それは恵みによる主権です。今の時代、それは恵みの御座です。そして、キリスト・イエスにある神の主権的恵みは、諸国民に対して宣べ伝えられつつあり、彼らの中から御名のために一つの民を召し出しつつあります。

2.天

七十五回「天」がマタイによる福音書で言及されています。マタイによる福音書は天の王国――天の支配・主権――の福音書です。

栄光の主が誕生された時、天が支配していたことがわかります。東方で見えた星は、当時の天を支配していた一つの星であり、地上の物事を支配していました。東から賢者を連れて来て、ベツレヘムの赤子だった主イエスの足下で礼拝させました。天が、御子の来臨に関連して、主権的に支配していました。なぜなら、「ソロモンよりも偉大な」方がそこにおられたからです。イエス・キリストの来臨と共に、新しい時代が始まりました。「東」は新しい時代の曙を意味します。ヘロデが割り込もうとしましたが、天が支配していました。あの一つの星が天で支配しており、地上の物事を統治していました。当時、それは天のだったのです。

3.御使いたち

この福音書のもう一つの天の面を見てみましょう。十七回「御使い」がこの書に登場します。御使いたちは、「救いの相続人」(ヘブル一・十三~十四)に関する神の行政上の統治と関係しています。「ひとりの主の御使いが天から降りて来て、その石を転がし、その上に座った」(マタイ二八・一)。復活の主権を帯びたひとりの天使です。ひとりの御使いだけで、この世の諸々の政府や地獄の全勢力・たくらみに対するのに十分でした。ああ!これはなんという慰めと確信を与えてくれることでしょう。そうです、ここに、地獄の力と地上最大の政府を無に帰す天の支配が見られます。というのは、当時のローマは世界政府の長であり、この世のすべての政府を代表していたからです。すべての主権と権威は主イエスの御手の中にあること、そして、御使いたちは「救いの相続人」に関する神の行政上の統治に関わっていること、を知るのは幸いなことです。マタイによる福音書では、ひとりの御使いが諸国民における主イエスの統治と関係しています。これはなんという力と権能を意味することでしょう。

マルコによる福音書では――「墓の中に入ると、彼らは白い衣を着た一人の若者を見た」とありますが、これは純粋さと、聖さに基づく全被造物への奉仕を示しています。道徳的性格を帯びた問題――全被造物に関わる聖さ――を管理・統治しているひとりの御使いを示しています。

ルカによる福音書――「見よ、二人の人がまばゆい衣を着て彼らのそばに立っていた(中略)なぜ、あなたたちは死者の中に生ける方を探しているのか?」。ふたりの御使い、二人の人です。二は聖書では証しの数です。全人類に対する十分な量の証しです。主イエスの主権と統治に関して人類に対してなされるべき十分な証言・証しです。

ヨハネによる福音書――「ふたりの御使いが、イエスの体が置かれていた場所に、ひとりは頭のあたりに、ひとりは足もとに座っていた」。ヨハネによる福音書は特に愛を強調しています。「神は世の人を愛された」。愛をもって彼は御子をお与えになりました、罪を担う者とならせて世の罪を取り除くためにです。にまさるものが何かあるでしょうか?この御使いたちは神のこの愛の中に安息しています。なぜなら、神の愛が勝利したからです。この神の愛を真に理解する時、あなたは座って安息できるようになります。それは世に対する神の愛の証しであり、神の愛の中に安住することです――この愛は、神が御子を遣わして死者の中からよみがえらされたことに表れています。諸国民における彼の愛の主権にまつわる天の介入です。御使いたちは、神の愛にまつわる行政上の統治にいそしんでいます。

これらの天の要素はみな、主イエスと、諸国民の間における彼の主権に浴している彼の教会とに、関係しています。この主権の中に、私たちは生き生きとした関係と経験によって導き入れられたのです。神の秩序は決して孤立した構成単位から成ってはいません。彼は弟子たちを二人ずつ召して遣わされました。この二人というのは、代表を表す人数であり、教会に対する証しです。私たちは「からだ」の原則を認識し、神ご自身の秩序を霊的に理解して忠実に守らなければなりません、なぜなら、もし独立して行動するなら、あなたは教会の主権的かしらである主イエスの覆いの下から出ることになるからです――「神は彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました。この教会は彼のからだです」(エペソ一・二二)。御座の祈りは教会の問題です。主権の福音の証しを携えて諸国民のところに出て行くときは、キリストのからだによる御座の祈りという覆いを持つことが絶対に必要です。そうしてはじめて、神の御旨が実現されて、サタンの王国の上にこの主権の影響を及ぼすことになるのです。孤立した、救われた個人としてではなく、かしらとその肢体たち――ひとつからだ――との正しい関係の中で、出て行かなければならないのです。

エズラ記の七章では、「主の家」が建てられて、直ちに天とのつながりが生じます。「天の神によって命じられていることはなんでも、天の神の家のために、正確に行われるようにせよ」(二三節)。これはアルタシャスタの驚くべき布告です――「あなたの神の律法と王の律法を守らない者はみな、死刑でも、追放でも、財産の没収でも、投獄でも、全力を尽くして判決が執行されるようにせよ」(二六節)。これが、主の家の建造にあえて反対する人の上に下されることになっていました。アルタシャスタは、神のためのこの家の建造を早めて確実なものとするために、最大限の努力をしているように思われます。三回、「天の神」と述べられています。覆されえない主権が働いていて、主の家の建造と関係しています。天の支配がここに見られます。

ルカによる福音書でも、この同じ事実が示されています。すなわち、天の支配は主の家――彼の教会――と結びついている、という事実です。このように、天の主権の行政上の手段としての教会が強調されています。「七十人は喜んで帰って来て言った、『主よ、悪鬼どもでさえ、あなたの御名の中で私たちに服従します』」。「彼は彼らに言われた、『見よ、わたしは敵のすべての力を踏みつける権威をあなたたちに与えた。なにものもあなたたちを害することはない』」。「その時、彼は聖霊の中で歓喜して言われた、『ああ、父よ、天と地の主よ、あなたに感謝します。あなたはこれらの事を知恵や学識のある者から隠して、みどりごたちに啓示してくださいました。このようなことは、あなたの目に喜ばしいことであったからです』」(ルカ十・十七)。(七十は代表を表す数字です。)

ですから、「天の門」は「ハデスの門」に打ち勝ち、「天の計画」は「ハデスの計画」に打ち勝つことがわかります。この主権の家に、地獄の計画は打ち勝てません。なぜなら、神の計画は永遠の過去に立てられたものであり、神のみこころを望み決意するあの群れを確保するためのものだからです。

天の王国、つまり天の支配・統治は、神の主権が働いている領域ですが、その中では、ふさわしくないものはすべて排除され、神にしたがっているものだけが残ることになります。「地引き網」と「毒麦」のたとえを見てください(マタイ十三章)。本物は偽物から分けられて、主は世の諸国民の間からご自身が「召し出した者たち」を確保されます。ご自身が贖った者たち、ご自身の教会、黙示録に見られる神の都を確保されます。

「これらの事の後、見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、言語の中から、だれも数えることのできない大群衆が、御座の前に、また小羊の前に立っていた(中略)彼らは言った、『救いは、御座に座しておられる私たちの神と小羊にありますように』」(黙示録七・九、十)。

「そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山に連れて行き、聖なる都、新エルサレムが天から出て、神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり(中略)水晶のように透明であった。小羊の妻である花嫁である」(黙示録二一・九~十一)。