第一章 御霊から生まれるもの

御子のかたち

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ピリピ三・一~二一。

「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです……」(ローマ八・二九)。

「愛する者たちよ、今や、私たちは神の子供たちです。私たちがどのようになるかは、まだ明らかにされていません。彼が現れるなら、私たちは彼のようになることを知っています。なぜなら、私たちは彼をありのままに見るからです」(一ヨハネ三・二)。

「私の小さな子供たちよ、キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをしています……」(ガラテヤ四・十九)。

「私は、すでに得たとか、すでに成就されているとか言うのではありません。私は、それを捕らえようと追い求めているのですが、それは私が、キリスト・イエスによって捕らえられているからです」「私たちの国籍は天にあるからです。そこから救い主、主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ三・十二、二〇)。

愛する人よ、私は、これからの数日間、神のみこころの中に入り込んで、「御霊から生まれるもの」すなわち「キリスト・イエスにある新創造」に専念したいと思います。今朝は、少しの間、その対象をそのあるべき場所に、すなわち御旨の場所に置いて、主が向かっておられるものが何であるのかを――それを天にある原型とも呼べるでしょう――きちんと見ることにしたいと思います。

私たちはこの句に慣れ親しんでいますし、それが旧約聖書の中で何に関連しているのかを知っています。また、今やご存じと思いますが、あの天にある原型――それにしたがって昔の幕屋に関するものがすべて造られました――は、イエス・キリストの啓示にほかならなかったのであり、あの幕屋は多くの面を持つ主イエスを仔細に示すものでした。神の御心の表現でした。ご存じのように、へブル人への手紙はこれを再び取り上げていますが、次のような違いがあります。すなわち、旧約聖書には天にある事柄の型がありましたが、ここにはその実体がある、という違いです。この手紙の最初の御言葉は、あなたにこの実体を紹介します。「神は、昔は多くの部分において、多くの方法で、父祖たちに語られましたが、これらの時代の終わりに、御子の中で私たちに語られました」。ヘブル人への手紙全体の主題は、旧約聖書の啓示全体の成就である主イエス・キリストです。彼は自ら、神が以前語られたことをすべて集約して完成されました。こういうわけで、彼は部分ではなく全体であり、影や型ではなくまさに実体なのです。

実に、主イエスは、神の働きが目指している原型であり、実際です。この目標たる御方にそのあるべき地位に直ちについていただくことを、いま私たちは願っています。なぜなら、そうならないかぎり、私たちはなにか劣ったものに捕らわれてしまうからであり、この地上における私たちの人生の目標や原動力は不十分なものになってしまうからです。使徒自身の場合、これがいかにそうだったのかは、おわかりでしょう。使徒行伝の九章で、彼がダマスコ路の途上、栄光の主と突然出会ったことは、覚えておられるでしょう。彼自身びっくり仰天したことに、太陽よりも明るいあの光はナザレのイエスであり、今や高く上げられて高き威光ある方の右にいて、今や栄光を受けておられることを知ったのです。私たちの知るかぎり、それがパウロが最初に見た主イエスでした。栄光の主を見たのです。ピリピ三章はその実際的な帰結です。「私にとって益であった事柄を、私は損失と見なすようになりました。実に、犬に投げ与えるべきものと見なします。それは、私がキリストの中に見いだされるためです」。キリストを獲得するため――途方もない言葉です。主イエスは、悔い改めと信仰に基づいて、罪人に与えられます。パウロはキリストを与えられたのですが、与えられたものを今や獲得しなければならないことを見るようになりました。この二つは別のことではありますが、同じように真実です。キリストを賜物として与えられることは救いのためです。キリストを獲得することは、証し人――御霊から生まれた者――が成就されて栄化へと至るためです。それゆえ、ピリピ三章は使徒行伝九章の実際的帰結なのです。

大事なのはただ救われることであり、救われたら永遠に安泰であって、他の人々を救うことに取りかかれる、というのが多くの人の率直な考えです。救われることは大切ですが、主の御言葉が大いに明らかにしているように、地獄から救われること、罪から救われること、裁きから救われることは、事の始まりにすぎず、たとえ救いを得ていても、そのために救われた偉大な御旨を逃すおそれがあるのです。そのために、新約聖書の二十七冊の書のうちの二十一冊が、信者をキリストの豊かさの中に導くことにあてられているのです。驚くべき事実です。真理の中にはこのささやかな比喩的要素――その要素については、ダマスコ路の途上でキリストを見たパウロに関して述べたばかりです――があります。ダマスコ路への途上、彼は栄光の主を見ましたが、その瞬間、彼は天然の視力を失って盲目になり、人々は彼の手を引いて町に連れて行ったのです。

愛する人よ、これはとてもよいことです。おそらく、それはパウロの残りの人生に多くの病を招いたでしょう。その後ずっと目の障害が彼につきまとったことを示す形跡があります。しかし、霊的にはそれはとてもよいことです。天然の視力を失うほど、栄光の主イエスのビジョンを見るのは、とてもよいことです。その先ずっと、彼以外のものを見なくなるのです。この世のものや地上のものを見なくなるのです。なぜなら、それらはみな彼ご自身よりも劣っているからです。あなたは天然の人の視力を遥かに超越した霊的視力を得なければなりません。栄光のキリストの啓示を少しでも受けたことのある人ならよくご存じのように、他のものに対する嗜好はすっかりなくなって、彼が視界を占めるようになられるのです。確かに、「奇妙なことに、地上のものは彼の栄光と恵みの光の中で暗くなる」のです。ですから、私たちは直ちにこの目標を定める必要があります。その目標とは栄光のキリスト、神の御心に適う模範的な人である栄光のキリストです。

これは、もう一つの要素をもたらします。それは、彼は神格を持つ神としてそこにおられ、神たる方の全豊満が肉体の形で彼に宿っている一方で、また、彼はエホバの御名を帯びつつその地位を占めておられる一方で、彼は人としてそこにおられるということも同様に真実である、という要素です。彼は栄光の中にある人です。栄光を受けた人であり、多くの兄弟たちの長子です。神は人を栄光の中に連れて行き、主イエスのパースンにおいて人をご自身の御心にしたがって完成されました。人が創造される前、世界が造られる前に、神が抱いておられた御思いが何だったのかがわかります。人を造ろうと考えた時、神は人に対するある考え、構想、思いを持っておられました。そして、その御思いは、栄光の中におられる主イエスを見る時、彼にあって啓示されます。神が思い描いておられたのは、ご自身の当初の御思い・御旨に適う人です。そして、主イエスこそが神の御心に適う模範的な人です。この模範に向かって神は働いておられます。この模範を求めて御手の中にやってきたすべての人の中で、また彼らと共に、働いておられます。これは途方もないことです。もしそれを証明する御言葉がここになければ、こんな大それたことは人には到底言えません。

こう記されています、「神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められました」。これは積極的な御言葉です。そして次に、文字どおり「私たちは彼のようになります。なぜなら、私たちは彼を見るからです」――過去の彼ではなく――「現在の彼」を見るのです。地上におられたナザレのイエスに同形化されるのではなく、御父と共に栄光を受けておられる現在の栄光のイエスに同形化されるのです。神はイエス・キリストに栄光をお与えになりました。私たちは彼の永遠の栄光の中に召されています。なんという展望でしょう!私たちはこの体の中で呻いており、その弱さや病弱さという重荷を負っています。また、罪と呪いが被造物の肉体の命にもたらしたひどい混乱についてよく知っています。しかし、ピリピ三・二一を読むと、なんという展望があるのでしょう、「彼は私たちの卑しい体を変貌させ(あるいは、新しく形造り)、彼の栄光の体に同形化してくださいます」。彼の卑しい体ではなく、彼の栄光の体に変貌させられるのです――もしあなたが少しでも体の中で呻いているなら、これは喜ばしい期待をもって熟考すべきことです。体はこの偉大な御業の一部にすぎません。神は今、内側から始めて、後で外側を完成されます。御名はほむべきかな。これをもっと詳しく知るには、私たちは次のことを見なければなりません。すなわち、主イエスが辿られたヨルダン川から栄光に至るまでの行程は、すべての信者の行程でもある、ということをです。彼にとってのヨルダン川、この地上における彼の生活、彼の死と葬りと復活、彼が栄光の内に迎えられて聖霊で油塗られたことは、一方において、神のすべての子供の行程にも対応しているのです。

私は今、彼が贖いの問題に関して行われた偉大な御業について取り扱っているのではありません。彼の偉大な贖いの働きについて取り扱っているのではありません。贖いの働きのために、彼は私たちの罪を負い、木の上でご自身の体にそれを担われました。私たちの代わりに神の怒りの大波をすべて受け、きわみまでも裁かれたのです。私はそれについて述べているのではありません。それは、私たちがあずかる必要のないものです。神はほむべきかな!今や、私たちはまったくそれにあずかる必要はありません。裁かれる必要はありません。もはや罪定めはありません。彼は私たちのためにこの面を担ってくださいました。しかし、もう一つの面があります。すなわち、代表者としての面です。この面では、彼の行程は神のすべての子供たちの行程でもあります。これは、もちろん、とても広大な領域を開きます。これについては、さしあたって、軽く触れることしかできませんが、これからの数日間、その内容をかみ砕いて見ていくことになると思います。ここでは、次のことを示唆するだけにします。すなわち、人の人間的意志がすべて断ち切られ、脇にやられ、神の意志が絶対的にその場所を占め、人の人生を支配する法則として確立されて王座に着くことが始まる、開始点がなければならないのです。

それが、主イエスの場合、ヨルダン川で起きたことでした。あの時、彼は罪なき意志を持っておられましたが、それでも、人の意志、人間の意志を持っておられました。その意志は、神の御意思とは別のものであり、それ自体は神の御意志とは分離されているものでした。その人の意志、人間的意志、彼が持っておられた天然の意志は、罪がなかったにもかかわらず、ヨルダン川で神の御意志のために脇にやられました。そして、その瞬間から、彼の生活全体をこの一つのものが支配しました。言葉、思い、行い、往来、行動するかしないか、話すか話さないか、行くか行かないか、事を為す時期、今か今でないかを支配しました。こうした一つ一つのことに、主イエスの行動の例があることを、あなたは思い出すでしょう。それはすべて、「わたしの意志ではなくあなたの御意志がなりますように」という問題だったのです。ヨルダン川は、人の天然の意志を否んで神の御意志を確立するという点で、彼にとってはカルバリを象徴していました。今から後、自分自身のために生きてはならないことを象徴していました。それで、彼はヨルダン川から上がって、直ちにヨルダン川の向こうでまさにこの問題に関して試されました。至極妥当な行動理由に基づいて、自分自身から行動するのかどうか、というこの問題に関して試されたのです。ご存じのように、敵は、罪だと告げたうえであることをあなたにやらせようとはめったにしません。たいていの場合、それを行うとても良い根拠に基づいて、あることをするようあなたに告げます。敵はパンのことで主イエスの所にやって来て、「欠乏しているときには、どんな法則も無用です。欠乏しているのでそれが必要なのです。それをする必要があります。それは絶対に必要不可欠です」といったことを言いました。もしそのような立場に立たされたことがあなたにあるなら、それがいかに困難なことであるかはおわかりでしょう。それはどんな必要でしょう?地的関心事でしょうか、天的関心事でしょうか?

これが問題です。私たちは常に、地的必要よりも高度な必要が何かあるのかどうかを見極めなければなりません。地的権益は必要なものなのか?という問いを発しないかぎり、私たちには決してわかりません。地的必要を論拠とするなら、あなたは地上に向かって、それを水平的に捉えることになります――「これを行うことが必要そうだ」というように。主の見方はそれとは違うかもしれません。天的必要をその線に沿って理解しなさい。敵は、「欠乏しているときには、どんな法則も無用である」と言いました。しかし、この地上に属する法則ではなく、天に属する法則があるのです。だから、主イエスは自分自身から行動することを拒んで、常に神から行動されました。それがヨルダン川でした。あの転機が必要です。その転機により、一度かぎり永遠に、人生の隅々までもが、人間的理由・議論・必要・神の御意志以下のものによって支配されることはなくなって、真に明け渡されたものとなります。ヨルダン川以降のキリストの生涯は、常にこの法則の発露だったのです。

これについては、もっと詳しく説明しなければなりません。しかし、ヨルダン川以降の三年半は、すべての神の子供の人生にも対応しています。というのは、あらゆることで神に絶対的に信頼する生活がそこに見られるからです。その生活は神に受け入れられる生活であり、自発的なものですが、それにもかかわらず、大いに、大いに、現実的です。神に絶対的に拠り頼む生活です。そして、そのような生活により、彼は、神の御心に適う人がこの地上でどのような者なのかを啓示しておられます。人生の一瞬一瞬を神に支配していただいて、神を意識しつつ導かれている人――それが神の御心に適う人の地上生活です。主イエスはそのような人を啓示しておられます。聖霊の統治と支配の下でこの地上を歩む人、彼の権威を得るために、神の御心を把握するために、すべてを彼に委ねる人を啓示しておられるのです。

カルバリについて。その後、聖霊によって、特に一人の使徒を通して書かれた多くのことから、よくご存じのように、すべての信者の生活はカルバリに見合うものでなければなりません。しかも、徹底的にです。なにかを一度かぎり永遠に受け入れなければならない一方で、それは日々変わらぬ意味を持ち続けなければなりません。「常にこの体に主イエスの死を帯びていますが、それはイエスの命もまた私たちの体において現わされるためです」。これがカルバリの両面です。次に、天に迎え入れられることです。これからの数日間、信者の天的生活について述べるべきことがたくさんありますが、私たちは今、天に迎え入れられて、天からこのすべてにあずかる必要があります。

次の点は――これにつまずく人が大勢いるのですが、聖霊は、言わば、この原型を目的として来臨された、ということです。聖霊は栄光の主イエスを見ておられ、神の御心に適う成就された栄光の人を見ておられます。聖霊は、この原型を徹底的に、細部に至るまでご存じです。聖霊は来臨されました。もし私たちが真に上けら生まれた神の子供なら、彼は私たちの内におられます。そして今、聖霊が地上で行っておられるのは、この原型を内側に造り込んで、私たちを神の御子のかたちに同形化することです。多くの人がつまずいているのは、イエスについての客観的観念を真似ようとしているからです。彼らは、この素晴らしい人、愛に満ちた行いや優しい働きを伴うこの麗しい生活に関する、客観的な考えを得ます。彼を客観的に捉えて、その生活を自分の外側で真似ようとします。とても立派で、とても良いことですが、全く不十分です。キリストに倣うことはそのようなことではありません。それは、まず第一に、外面的な活動の問題ではないのです。

使徒はガラテヤ一・十六で「御子を私の中に啓示し」と、これを私たちに明示しています。愛する人よ、あなたは出かけて行って、人々に「あなたたちはイエス・キリストを模倣しなければなりません」と告げてはいけません。神にはある標準があります。何人も――聖霊の強力なエネルギーがなければ――その標準に到達できません。キリストという標準には、私たちのどんなエネルギーでも到達できません。模倣では不十分です。私たちに必要なのは、内なる新たな受胎、新たな働きです。聖霊がここにおられるのは、これを内的なものにするためです。この賜物――聖霊の賜物――のゆえに、神はほむべきかな。神格を持つひとりの御方が来臨して神のすべての子供の中に住んでくださることを知るのは素晴らしいことです。それは、彼らを神々とするためではなく、御子のかたちに同形化するためです。彼らを神性の中にもたらしたり、彼らに神性を移したりするためではなく、彼らを栄光の人に似た者とするためです。その結果、栄光のキリストは今や内なるキリスト、栄光の望みでもあるのです。これが私たちの希望であり、彼はすでに内側におられるということ以外に栄光の希望はありません。これはみな、聖霊のすべてのエネルギー・可能性・能力の中に集約されています。その中に集約されており、込められています。私たちが主にご自身の道を進んでいただくようにするなら、主は御業をなしてくださいます。

多くのことを述べてきましたが、これからの数日間のための前置きの話を終えるにあたって、次のことを述べたいと思います。神のこの偉大な支配的御旨、すなわち、栄光に至るすべての子らを御子のかたちに同形化することが、ここにいる私たちに対する彼のすべての取り扱いの理由なのです。私たちが通る奇妙な経験、私たちの人生の一部を形成する深刻な試練、私たちに関する神の摂理と主権によることはみな、神の御目的に照らして説明されます。これを認識しないかぎり、愛する人よ、進み抜く力は得られませんし、進み続けるための十分な原動力も得られません。奉仕、務め、私たちが召されている主の働きの問題を取り上げてみましょう。霊的な務めの中に真にある人、主のための霊的な働きの中に真にある人ならだれでも、それがいかに困難であるのか、それがいかに大変であり、極度に大変であり、ますます大変なものになっていくのかを知っています。それは、ほぼあらゆる種類の困難で満ちています。そして、その中で敵の活動という大きな現実と直面するのです。敵は、人が自ら行うこととは別に、またそれを超えて、働きます(そもそも人々が自分自身からなにかを行うならばの話です。そうかどうか私には定かではありません)。

いわゆる、生活や主の働きに関する通常の困難とは別に、敵が大いに支配しているかのように思われる特別な困難があります。このような奉仕の状況は、往々にして、敵がとても強く、主は御業をなすのがとても困難であることを、物語っているかのように思われます。敵のせいで主は御業をなすのがとても困難である、とあなたは思い込んでいるのでしょうか?これは直視すべき問題です。確かに――悪魔は大きな自由を有しており、多くの力を持っているように思われます。大きな困難を招いており、そのせいで主の僕はとても困難な苦しい時を過ごしています。そうではないでしょうか?主は対処しきれないほどの困難に直面しておられるように、ほとんど克服できない困難に満ちた状況に直面しておられるように思われます。しかし、全くそうではないのです。なぜ主は敵をここに残して、このような自由、このような力を敵に与えられたのでしょうか?なぜ、私たちの歩みが常にこのような困難に遭うのを許しておられるのでしょう?なぜ主のみこころの道で、自分を行き詰まらせるものに出会うのでしょう?神は御座に着いておられる神であり、聖霊は間違いなく強くて力があるのに、なぜでしょう?これがとても多くの人が抱えている問題です。

それはこう説明できます。その理由は敵の側には全くありませんし、主の側にもありません。私たちにあるのです。主は御子のかたちに同形化することを求めておられ、困難・試練・妨げ・悪魔の活動はみな、私たちを連れ出して神へと引き寄せ、私たちの内に主イエスの特徴を発達させるためなのです。霊的優位性、信仰、神の御子の力強い信仰、イエス・キリストの特徴と御霊の愛を発達させるためなのです。キリストのこれらの特徴がみな、私たちの内に完全に発達しなければなりません。だから主は、たとえ私たちが絶対的な主権を持つ力ある主の中に生きている時でも、敵に続けさせることや、私たちが困難・悲しみ・苦難に遭うのを許すことには価値がある、と考えておられるのです。

これはキリストの特徴を伸ばすためであり、それを得ないかぎり、進み抜く力は得られません。「主は私たちと共におられません、これに対応できません、神の力は現れていません」と言いだすなら、あなたの目的は劣化し、あなたは栄光のキリストではなく自分自身の周りを巡り始めることになります。栄光のキリストこそ、聖霊があなたをそのかたちに同形化しようとしておられる方です。自分の目的を知って、主がご自分の子供たちに何をしようとしておられるのか、そしてそれをどのように行われるのかを見ることが必要です。だれかを別の人のかたちに文字どおり同形化するには、経験的に彼らをその中にもたらす以外にありません。これは、教えや教理、説教によっては行えません。それをくぐり抜けて、私たちの存在全体がキリストにしたがって再構成されなければなりません。他方、それ以外のものはみな、順次、取り壊されなければなりません。それは、主イエスに属するものを構成するためです。主は私たちに目的を与えてくださいます。これが私が今朝求めているものです。すなわち、主イエスを見ることです。霊的に内省的になって、自分自身を見てはなりません。だめです!自分の霊を常に目の前に置いて、それを分析してはいけません。ここのところ述べてきたことですが、自分のことで占有されること、それは自意識であり、自意識は弱さです。どんな形であれ、自意識は弱さです。私たちは主イエスで占有されたいのです。

ああ、栄光の人のビジョンが私たちに示されますように。栄光を受けたキリスト――そして、神は地獄・死と墓・そのすべての裁きを彼に通らせて、そこに彼を連れて行かれました――神は彼をそこに連れて行かれました――ゆえに、これは勝利であることがわかります。彼は、ご自身と共に彼処にいるようになる多くの者たちの最初の者です。彼は私たちを彼処に至らせてくださいます。私たちはキリストにあって天上にありますが、自分がすでにいる所に近づかなければなりません。自分がすでにいる所に至らなければなりません!彼は御子を栄光の中にもたらされました。これは彼の最高の、すべてを含む勝利です。これには私たちの勝利、私たちのための主の勝利も含まれます。ですから、キリストの敵に対する主の勝利を祝うために、どうか主が私たちを主の凱旋行進の中で至る所に導いてくださいますように。