第二章 家の規定

T. オースチン-スパークス

聖書における神の家の偉大な啓示についての考察の冒頭で、私たちは次の事実を指摘しました。すなわち、神は世界を創造するとき、人と共に住むことを目的としておられた、という事実です。この啓示の最後を見ると、これは「神の幕屋が人と共にある」という偉大な宣言がなされる時に実現することがわかります。最初の頃、神はエデンの園の中を歩いて、堕落前の人と会話されましたが、これにそれが伺えます。次に、状況は彼の臨在にふさわしいものではなくなりました。というのは、彼の権利が侵害されて、人は反対を受ける側ではなく反対する側に回ったからです。さらに、人は――それ以降ずっと生まれつき――反対者の側に立っています。この事実は、神への信仰がある種の試練にさらされる時、必ず露わになります。

もはやご自身にふさわしい状況の中を自由に動けなくなった時、主は人々に間に一つの場所を得ようとされました。こうして当初の御旨を放棄することなく、辛抱強く介入してご自身の権利が認められるようにしようとされました。神の絶対的な主権的権利を証しした信仰の人々は、神をこの世から締め出したままにしようとする霊的な階級組織の総攻撃を常に受けないわけにはいきませんでした。「全世界は悪しき者の中に横たわっています」。ですから、神の家であるものは全くこの世から分離されなければなりません。証しのためにこの世とつながっていたとしても、この世に属するものが一つでもあってはならないのです。これは私たちを、神の家の第一の主要な特徴に導きます。信者は個人的・団体的に彼の家、彼の住まいであることを思い出してください(これについては後でもっと詳しく考えることにします)。

次に、エゼキエル書のいわゆる「家の規定」について考えることにします。

「家の規定」

「家の規定は次のとおりである。山の頂とその周り全体の全地域は最も聖である。見よ、これが家の規定である」(エゼキエル四三・十二)。

主の臨在にふさわしくなければならないというこの原則は、人との主の関わりに関する啓示全体を通じて一貫しています。聖さは独立した真理の一部門として教えられることがよくありますが、神の御言葉の中にある真理の偉大な面はみな、ある中心と関係しています。その中心とは主ご自身です。ある要求に対して適切な動機を持つには、その要求を、偉大な永遠かつ普遍的な遠因を伴うその背景に照らして見なければなりません。ある断片や局面に集中してそれに個別の地位を与えるのは危険です。そうするならその力を奪うことになります。ですから、聖さについて見るときは――他のすべての神聖な要素と同じように――この一つの偉大なすべてを含む神の御旨に照らして見る必要があります。御旨によると、「神の家」は、人に分与可能な神聖な特徴をすべて結集して具体的な形で結晶化したものなのです。(これには神性は含まれません。)

このように、聖さの問題は、人と共に住む住まいを造るという神の願い・御旨にも当てはまります。その住まいにふさわしい条件は聖さなのです。

前に指摘しましたが、神の家が最初に登場したのはベテルにいたヤコブに対してであったことを見たので、その文脈に戻ってこの「家の規定」を取り上げることにします。彼が「ベテル」で最初に神に会った時から、「立って、ベテルに上りなさい」(創世記三五・一)と神に命じられるまで、二十年の歳月が流れました。なんという二十年だったことでしょう!苦難や試練を受け、背かれ、ふるい分けられ、神の正しさを証明したのです。彼はあの歴史的な夜について考えて、その意味や意義をより深く理解するための時間を十分に持っていました。だからこそ――二十年後に――この命令が下った時、彼は直ちに家族にいくつかの重要な指示を与えたのです。「異国の神々をあなたたちの間から除き去りなさい」。「ベテル」つまり神の家は、他の神々のための場所ではありませんし、偽りの神、「今の時代の神」や礼拝の分裂を示唆するもののための場所でもありません。それは聖くありませんし、主の臨在に全くふさわしくありません。これは礼拝の場合に当てはまるだけでなく、肉の力の問題についても当てはまります。主がヤコブにベテルに上るよう命じられる前に、ヤボクでのあの恐ろしい出来事がありました。そこで彼の太ももの筋――彼の自己の強さの象徴――が萎えてしまったのです。生涯の最後まで、彼はその弱さを抱え続けました。そして、やがて老人になった時、彼は息子たちを祝福しました。「杖の頭によりかかって」、信仰によってそうしたのです。自信は断ち切られなければならないこと、神への信仰だけが自分の唯一の力であることを思い知らされます。そうです、これ以降、この偉大な事実が常に目の前に示され続けるのです。すなわち、肉は神の家とは全く相容れないものであるという事実です。

神は決してご自身を人の「肉」にお委ねになりませんでしたし、これからもそうでしょう。もしパウロが神の家を他のだれよりも完全に導入しようとするなら、彼は他のだれよりも多く「肉」について、そしてそれを除き去る必要性について述べるでしょう。神の家が再導入されるたびに、これに留意してください。幕屋に関して、なんと入念な注意が払われたことでしょう。幕屋に関わる人はみな、自分の肉を覆わなければならなかったのです。亜麻布の服はくるぶしを覆うのに十分なほど長くなければなりませんでした。肉が発汗しないように、亜麻布に羊毛を混ぜてはなりませんでした。聖なる塗り油を、血が塗られていない人の肉に塗ってはなりませんでした。祭壇に上るための階段を設けてはなりませんでした。それは上る時に下半身が露出しないようにするためでした。旧約聖書における肉体は、新約聖書におけるあの寓意的な「肉」の型にほかなりませんでした。この徹底した体系における唯一の大きな関心事は、人の天然の命が神の御前で露出するのを防ぐことだったように思われます。

次に、宮がダビデを通して登場する時も、この同じ規定に直ちに出会います。ダビデは神の家を建ててはなりませんでした。彼の両手は血で汚れていたからです。これは一般的にそうだっただけでなく、特別な理由もありました。それにより、彼は汚れた者となり、永久に弱くなってしまったのです。彼はある領域で死と疫病の原因となりました。その領域は、たんなる直接的戦いの領域ではなく、サタンが手を下してきた領域であり、「肉」が支配していた領域でした。そのため、その計画はダビデに与えられましたが、その執行はソロモンに委ねられました。こうしてまた、すべてが神にふさわしくなるよう、入念な配慮がなされたのです。

ダニエル書(九章)、エズラ記(九章)、ネヘミヤ記(九章)の三つの告白の章ほど印象的な章は、聖書の中にまずありません。これらの章はみな、エルサレムの神の家と主の民の間の不幸な状況と関係しています。それらは、神の栄光とは全く調和しない状態のために引き起こされた、一つの大きな叫びとすすり泣きを示しています。エルサレムの神の家が廃墟と化しているときに、バビロンの栄華や栄光はダニエルにとって一体なんだというのでしょう?彼にとっては一つのことだけが重要でした。それは神の栄光でした。その栄光は、状況がそのままであるかぎり、曇ったままでした。あの状況、神がご自身の家からあのように去られたのは――この告白が明らかにしているように――「肉」が聖所の中に、そして聖なる事柄の中に現存していたためでした。

エズラの祈りは恐るべきものであり、それを聞いた人を全員行動へと促しました。きわめて劇的で代価を要する行動へと促したのです。聖なる裔が異国のものと混合していました。異国の妻がめとられて、家族ができていました。これが霊的に象徴しているのは、下にあるものに向けられた愛情とその結果です。それは、主の民に影響を及ぼして地に向かわせる愛情の原理と、それから、それに続く責任を物語っています。これらを取り除くのはなんと困難でしょう!主の臨在と栄光というこの問題には、なんと大きな代価が必要でしょう。

これをみな新約聖書にあてはめると、第一に、内なる汚れのせいでどのように宮が捨てられたのかがわかります。主イエスが真の宮としてその地位につかれます。しかし、彼のパースンの意義を未だに認識していない人々のために、主イエスは数々の言動をされました。それらの言動は――記録に載っていますが――神の家に関するものについての御心を永遠に啓示します。彼は根本的に聖ではないものをすべて激しく非難し、神の住まいを戯画化する一切のものに対して激しく憤って行動されます。聖さと真理への情熱が、宮と公的に関係しているすべての人に対する彼の姿勢を特徴づけていました。さらに先に進むと、ローマ十二章で教会である「からだ」が導入される前に、六章のすべての働きに決着をつけなければならないこと、八章の立場を取って十二章一節に至らなければならないことがわかります。「あなたたちの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。それが、あなたたちの霊的な礼拝です。またこの世にかたどられてはいけません。むしろ、思いを新しくすることによって造り変えられなさい」。

同じことがエペソ書とコロサイ書の両方に言えます。この両書では、死・葬り・命の新しさへの復活が、「家」「からだ」「教会」に進む前に置かれています。

これはみな、詩篇の「聖なることは、あなたの家にふさわしいのです。ああ、主よ、永遠に至るまで」という御言葉を引き続き強調するものです。

もう一度言いますが、聖さは真理の一部門や、教えの一系統ではなく、神の家全体を含みます。その中心から周辺まで、その土台から頂石まで、そしてそのすべての中身を含んでいるのです。

人々は運動を組織し、共同体を造ります。神は人々を御旨のための道具として聖別されます。人々はどちらかと言うとなすべき働きについて考えます。神はご自身の子供たちの霊的状態を最も重視されます。

新約聖書を構成する二十七の書のうち、六冊は主に歴史であり、その中には多くの霊的教えが含まれています。残りの――二十一冊の書――はみな、信者らの霊的な生活や状況にあてられています。

神は、「働きや働き人を、わたしが要求する状態や水準以上に保ち続けよう」とは決して保証されません。もし霊的水準が低下するなら、人々が責任や負担を負わなければならないときが来て、主はその結果が彼らの上に降りかかるようにされます。

規模やいわゆる成功は、霊的価値を決めるものではありません。霊的に神にふさわしいかどうかが、霊的価値を決めるのです。神にしたがって物事の価値を決定するのは、それがあらゆる点で神を示しているかどうかです。

人がこの地上でキリストに下した最後の判決は、「まことにこの人は義人であった」でした。「成功者」でも、「有能な人」でも、「賢い人」でもなく、「義人」であった、という判決を下したのです。私たちの最大の関心事は、他の人々が成功と称しているものではなく、神が永遠に確立できるものでなければなりません。御旨に真に役立つものでなければなりません――つまり、キリストの顕現でなければなりません。そして、そのようなものはとりわけ聖さという印を帯びていなければなりません。

主イエスがご自身に関して人々に突きつけた一つの問いは、罪についての問いでした。

彼は、「あなたたちのうちの誰が、無学である、能力がない、名声がない、とわたしを責めるのか?」と問うたのではなく、「あなたたちのうちの誰が、わたしに罪があると責めるのか?」と問われたのです。

神の目には、その聖さの度合いを超えて価値のあるものはなにもありません。神に最も用いられた僕たちは、霊的状態を大いに重んじた人々でした。この人々に遥かに大きな影響を与えたのは、主の民の霊的状態であって、着手した事業の成功ではありませんでした。

全き聖めに関する諸々の務めから、多くの偉大な僕が生まれました。ヤコブは神の「皇子」――神と人に対して力ある者の意、これはベテルつまり神の家と関係していました――とならなければなりませんし、それには二十年要します。そうであるからには、神は彼をイスラエルの家――神の住まい――の頭としてふさわしい者とするために、肉を訓練し、懲らしめ、打ち砕かれるでしょう。

次のことに留意することが重要であり有益です。すなわち、主は往々にして、効力を発揮するずっと前に真理の啓示を与え、その後、私たちをその真理に――霊的に――適合させるために、私たちを対処する過程を開始されるのです。ヤコブの場合もそうでした。その時が来れば、なぜ彼が私たちをそのように導いて対処しなければならなかったのかがよくわかるようになります。そして、私たちはたんなる知的な方法ではなく、生ける方法でその中に入れるようになるのです。