第一章 ベテルの神

T. オースチン-スパークス

神の御言葉の思慮深い読者なら、二つの偉大な点に感銘を受けずにはいられません。その二つは聖書の最初から最後まで一貫しています。一つは、この世界に関する神の介入であり、その行程と歴史に対する持続的な飽くなき介入です。もう一つは、この世界から神を追い出し、排除しようとする試みの絶え間ない連鎖です。この後者のような試みが、創世記に記録されている創造の前に起きたようです。そこに記録されているこの試みにアダムは巻き込まれ、彼を通して人類全体も巻き込まれました。その後、神の介入は、しばらくの間、個人と関係していました。この人々は神とその権益を代表し、神の証しを維持するために立ちました。この代表と証しにおいて最も顕著なものは祭壇でした。アベル、ノア、アブラハム、イサクもそうでした。この人々は祭壇の傍に立って、世界を所有・統治する神の権利があまねく奪われかけていることに一石を投じました。彼らの上に、神のためにそれを証拠として保持する重責がのしかかりました。その信仰の試練は恐るべきものでした。ヤコブに至ると、それまで証しを特徴づけていたものが継承される一方で、新たな展開があります。この新しい特別な要素とは神の家です。彼の人生の最大の経験・転機は、なんらかの形でベテルと関係しています。この特徴の導入は、時代の流れの中で画期的なものです。それはたんなる人の夢ではなく、神の介入です。天が開かれて、裂かれた雲を通して神が語られたことはあまり記されていませんが、意義深いことに、なんらかの形でそれが起きる時は必ず、それはこの偉大な霊的真理と関係しています。この偉大な霊的真理は、ルズであの晩起きたことの核心をなすものであり、その後永遠に新しい名――ベテルすなわち神の家――で知られるようになりました。

神の家の真理は旧新約聖書を通して継続的に啓示されてきましたが、それはみな、あの夜の神の介入――その結果、その名が自然に生じて永続するものとなりました――にまで遡って集約することができます。それは咄嗟のひらめきでヤコブに臨んだ霊感であって、それにより彼は自分の経験をそのように定義づけて表明するよう導かれたのでしょうか?それとも、この咄嗟のひらめきは、神は地上に家を持たれるという観念に彼が慣れ親しんでいたことを意味するのでしょうか?私にはわかりません。しかしいずれにせよ、私たちは今、次のことを知っています。すなわち、それは神ご自身にとってその時点で新しいものではなく、永遠の過去における神の御旨から発した御思いでありみこころだったのです。そういうわけで、それに対するこの最初の言及の中に、少なくともその後さらに明らかにされるであろう多くの点を見いだせる、と期待してもかまわないでしょう。それだけでなく、実際のところ、ヤコブが最初に関わった「ベテル」には、その後のすべての啓示の最も包括的な縮図が含まれているのです。

直ちに先に進んでこれらの要素に注目することにします。しかし、読者に警告した方がいいでしょう。私たちはたんなる聖書研究や聖書解釈をしようとしているのでありません。そうではなく、これは私たちの知性や観念全体に途方もない課題を突き付けるものなのです。私たちの多くは、子供の頃から長年にわたって、神の家のことを宗教的礼拝が公に行われている特別な建物だと考えてきました。教会堂、チャペル、伝道館だと考えてきました。「教会とは、神を正式に礼拝するための建物であるか、英国教会、ローマ教会、非国教徒教会といった宗派である」という観念とそれとを結びつけて考えてきました。

おそらく、多くの人々は、こうした問題に関して、せいぜいこのような考えしか持っていないでしょう。彼らの視野や認識は、ある特別な場所や、ある特別な歴史的「つながり」に限られています。そのため、「教会のつながり」「この教会」「教会員」といった語句を耳にします。さて、ほとんど言うまでもありませんが、このような言葉によって示される考え方は聖書とは無関係であり、このような言葉によって意味される「教会」や「神の家」は神の御言葉に啓示されているものではありません。

私たちはたんなる聖書研究に取りかかろうとしているのではありません。諸事に関する真の霊的真理をいっそう十分に回復する必要がある、と非常に真剣かつ厳粛に感じています。主は御心に適うものを地上に持つ必要がある、と感じています。そうでないものはみな、どんなに高価で、精巧で、長く続いてきたものであっても、彼の試練の火の中で、「木、草、刈り株」の運命を辿ることになるのは確かです。歴史的建造物が必要を満たして自らの存在意義を示すことのできない時代に、私たちはますます深く入り込みつつあります。宗教指導者たちや神の僕たちの心の中に、弱さや無力さや失敗の感覚が広がりつつあります。他方、神の真の子供たちの間で、霊的な飢えが深まりつつあります。主を求める願い、現状への失望が深まりつつあります。そして、「諸教会」は自分たちの霊的糧となるような本物を持っていない、という認識が深まりつつあります。膨大な量の補強が必要であり、また、「教会」を維持するためにあらゆる種類の制度的・社会的手段が導入されていますが、これはその弱さをまぎれもなく露わにしています。

神の真の僕の多くは、この霊的状況に心を痛めています。新しいビジョンと新しい力の必要性を自ら意識しつつ、穴の開いた袋に金を入れたり、ざるに水を注いだり、実が熟すずっと前に落ちるのを見たりしているような感覚に似た痛みを感じています。

穴の開いた袋に金を入れること

こう述べることをお許しください。神は御心に適っていないものを支援することはできません。御心に適うものを得ることがこれまで以上に必要になりつつある時代にあって、良いものですら――それが最善のものの敵である時は――彼はますます祝福できなくなりつつあります。かつて用いたものでも、ご自身の究極的御旨や御思いに至らない時は、用いることができなくなりつつあります。

もしヘブル人の預言者たちの何人かが今日ここにいたなら、彼らの言葉を現状に適用するために改定する必要はほとんどないでしょう。イザヤ、ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、その症状を容易に察知して説明できるでしょう。彼らは言うでしょう、「ああ、なるほど、そういうことですか。私は以前そんな状況を見たことがあります。あなたたちは自分の宗教のことで忙殺されています。自分の宗教組織を維持するために大きな力を注ぎ込んでいます。そのために費やす力やエネルギー、知恵、工夫、努力は相当なものです。あなたたちは伝統を大事にしており、もしそれで成功を収められるなら新しい斬新なアイデアをなんでも試す覚悟があります。しかし、心の奥底では、それは死んだ馬を鞭打つようなことだとわかっています。傾いた壁を支えることにほとんどかかりっきりなることをわかっています。時間と力と手段を費やしても、それに見合う結果は得られないことをわかっています。あなたたちは哲学的であろうとしていて、『頭数を数え』たり結果について悩んだりするのは自分たちの役割ではない、統計は真の判断手段ではない、と言おうとしています。しかし、それが正しい分野もあるかもしれませんが、この哲学は、実際にはいわゆる失敗を覆い隠すためのものでしかないことがよくあるのです。何年も前に、私はそれをこう述べました、『二十升の麦の積まれた所に来ても、十升があるだけだった(つまり、期待の半分の量に彼らは失望したのです)。また酒ぶねに来て、五十桶くもうとしても、二十桶があるだけだった(半分以下です)』。『立ち枯れと腐り穂と雹が、あなたたちの畑と納屋を打った。あなたたちは多くを望んだが、見よ、少なかった。あなたたちがそれを持って来たとき、それは一息で吹き払われた』。確かに、確かに、あなたたちはそのすべてに疲れ果てて、疑問を抱き、『神は本当にその中におられるのでしょうか。なぜもっと明確に協力して栄えさせてくださらないのでしょう』と怪訝に思っています。物事を維持するために多くの手段や方法に訴えずにはいられないというこの事実は、あなたが無意識のうちにこう認めていることを示すものにほかなりません。すなわち、そうしなければそれは干上がってしまうだろうこと、したがって、その中には命がないということです」。

「昔、似通った状況の中でそうしたように、あなたたちのためにすべてを説明することができます。ある時は、耳を傾けて従う人々がいたので、私たちの言ったとおりになりましたが、別の時には、『私たちの言葉が聞き入れられなかったため』、少数の人目につかない人々を除いて、ほぼ絶滅してしまったのです」。

もしこれらの預言者たちに状況の説明を求め、状況を神の権益と御力にかなう水準に引き上げるために私たちが意識すべきビジョンは何かと尋ねるなら、彼らはいくつかのことに言及するでしょうが、間違いなくすぐさま的確に

「わたしの家である、と主は言われる。」

と強調して述べるでしょう。彼らは次に私たちを聖書に導くでしょう。そして、彼らが私たちを創世記から順に導いていって、ご自身の家に対する神の第二の関心事を示すとき、私たちは目をこすり、驚いてポカンとするにちがいありません。ここで「第二の」と述べたのは、それよりも大事なものがあるからです。それは、その元となった御旨です。この区別を念頭に置くなら、神がいかにすべてをご自身の家と結びつけられたのかがわかって、私たちは大いに驚くにちがいありません。祝福や裁き、繁栄や呪い、栄光や恥、命や死、奉仕、訓練、交わり、啓示、管理、権威などはみな、神の家と結びついています。彼はご自身をご自身の家と結びつけられたので、彼ご自身を知る全き知識は彼の家を通してのみ得られます。これを見るとき、私たちは厳粛な気分にならざるをえません。こういうわけで、なぜこんなに多くの流産や、主の名によって空しい労苦がなされているのか、という問いかけに対して、私たちはこう答えます――「なぜなら、わたしの家が荒れ果てているからである」と。

「なぜなら、わたしの家が荒れ果てているからである」

しかし、直ちにこう言わねばなりません。これは「教会」や「チャペル」の空席とはほとんど関係がありません。これは、「教会への出席」や不出席、国民の宗教生活全般の衰退といった現在の諸問題を、直接対処しようとするものではありません。この二つの問題は関連しているかもしれませんし、おそらく関連していると思いますが、私たちはそのような枝葉末節から始めたりはしません。

最も重要なのは次のことです。神の御心における主の家とは何かについて、また自分が生きているこの経綸について考える初期の段階で、私たちは誤った考え方を取り除かなければならないのです。

再び指摘したいのですが、聖書の偉大な真理を知的過程によって理解することと、その真理が神から聖霊によって心に啓示されることとの間には、途方もない違いがあります。私たちの中には、同じ真理を何年も知っていて説いていたにもかかわらず、この後者によって人生が全く変わってしまった人もいます。それは真理の本質の違いではなく、頭と心の違い、知性と聖霊の違いです。死と生、労苦と霊感、人と神の違いです。一方には研究によって、他方には霊的経験によって到達できます。どうすれば後者の域に達することができるのか?という問いが自ずと生じます。その答えは、まず第一に、その必要性を心の底から必死に自覚しなければならない、ということです。たんに力や、影響力、有用性、祝福を追求することではありません。神の誉れと栄光が大いに関わっているので、神の絶対的・徹底的・最善のもの以外のなにものも受け入れられないのです。これには、どんな代価を払っても最後まで進み通す意志が伴っていなければなりません。そして最後に、主はどんな手段・方法を用いてでも自分をそこに導いてくださるということを理解したうえで、主と明確な取引をしなければなりません。

おそらく、遅かれ早かれ、破局や乾きの過程が始まり、深い死の経験に入ることになるでしょう。これは、すべてが神からであって天然の人からのものはなにもないという基盤の上に、すべてが構成されるために必要なことです。死と復活を通して、一方の領域から他方の領域に移らなければなりません。これは常にそうでしたし、天の領域の定まった法則です。もしこのような形で私たちにもたらされるなら、新しい世界、新しいビジョン、新しい力、新しい務めを意味することになる、三つのものがあります。そのどれも、天然的に手に入れることが可能ですが、たとえそれを強く確信していて、情熱的に非常に熱心に強調したとしても、これといった成果を得られないおそれがあります。依然として、そこにはこの大きな違いがあるのです。私たちの中には、その違いを経験的に知っている人もいます。この三つのものとは、

主イエスのパースン

十字架の意義

彼のからだ――神の家――である教会の性質と目的

です。

これらについて話す人々に、「それは聖霊の啓示によってあなたに臨んだものですか?」と尋ねるのは、実に妥当なことです。

さて、ここまでは導入の話でしたが、ここからは、ヤコブのビジョンが記録されている創世記二八章に萌芽的に示されている神の家とは何かを見ていくことにします。

ここでは諸々の要素を収集して、それらの詳細な検討は後の章に委ねることにします。

1.ヤコブがいた場所

彼は離れた場所にいました。

この物語によると、彼はこの夢を旅の最初の夜に見たと考えられます。しかし、足の速いラクダで行かないかぎり、そんなことは不可能です。ベエルシバからベテルまでは直線距離で約六十マイルでした。それよりも三日目の夜の方が可能性が高く、彼はまだ二百マイル以上旅をしなければなりませんでした。興味深いことに、この物語では時間や距離、空間は関係ありません。しかし、ここでの特色は、ヤコブが一切のものから離れ、この世のあらゆる係累から離れていたということです。ベテルがそこに登場します。神の家は霊的にこの特色を帯びています。これは後で再び登場します。

2.ヤコブが見たもの

1.「一つのはしごが地上に立っており、その頂は天に達していた。」

これは天と地をつなぐもの、伝達経路を表していました。天と地は、この手段によって結合され、一つにされました。この手段によって、天は地と、地は天と接触するようになったのです。

2.「神の御使いたちが、その上を上り下りしていた。」

聖書に出てくる御使いは、人に対する神の御旨に関する行政の代行者を表しています。

彼らは「すべて仕える霊であって、救いを受け継ぐ者たちに仕えるために遣わされたのです」(ヘブル一・十四)。彼らは、キリストにおける神の御旨と関連しており、人々に関するキリストの御業と関連しています。

3.「そして見よ、エホバがその上に立っておられた。」

最も偉大な支配的点は、この問題における主の地位と啓示です。主はこの遠く離れた場所にやって来られました。言わば、この世の外にやって来られたのであり、事実それは主権的行為でした。その顕著な特徴は、神がこれと関係しておられることです。これが他のすべてを構成し、定義づけ、特徴づけます。これが、その先に起きることをすべて支配する要因であり続けます。神はご自身をなにかと結び付けられたこと、そして、霊的に導入されたものから決して離れたりはされないことがわかります。彼はその後の代々の時代にわたって、ベテルの神、神の家の神であり続けます。彼の御心と御旨がすべて満たされるには、人は彼の家が意味するものの中に入らなければなりません。

3.ヤコブが聞いたこと

「わたしはエホバ、あなたの父アブラハムの神、イサクの神である。あなたが横になっているこの地を、わたしはあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのようになり、あなたは西に、東に、北に、南に広がり、あなたの中で、またあなたの子孫の中で、地のすべての家族は祝福される。見よ、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこに行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻す。わたしがあなたに語ったことを成し遂げるまでは、わたしはあなたを見捨てない。」

さて、この御言葉を分析するまでもなく、その一般的な意味と趣旨はわかります。それはいくつかのことを表しています:

1.ベテルは、霊的な形でアブラハムやイサクに対する神の取り扱いと関係していた、神の継続的御旨と関連しています。この二人が関係・経験した諸々の霊的要素は、ヤコブに受け継がれ、ベテル――神の家――で姿を現します。

2.外の場所――離れた場所――で、御心に適っていない人と、神は主権的に、恵みのうちに、契約を立てて宣言と約束をし、自ら無条件に行く末を保証して、その主権を行使されます。その御旨は神のものであり、人の行為から始まるものでも、最終的に人の行為に依拠するものでもありません。

3.しかし、人が視野に入っており、述べられている内容は非常に現実的な形で人と関係しています。限定的な形ではなく、ベテルは地のすべての家族と関係しています。神がアブラハムとイサクについて述べられたことが、今やヤコブについて述べられますが、それはベテルと関係しています。少し先を見れば、これは論点のこじつけではないことがわかるでしょう。むしろ、ベテルは定着して、この御旨の将来と密接な関係を持つようになったのです。

4.ヤコブが述べたこと

「そして、ヤコブは眠りから覚めて言った、『まことにエホバがこの場所におられるのに、私は知らなかった。そして、彼は恐れて言った、『これはなんと畏れ多い所だろう!これはまさしく神の家である。これは天の門だ』。」

この言葉が示唆するところは明確です。

1.神の家は神がおられる所です。

2.神がおられる所では、神の御心にそぐわない者は、そこを恐ろしい場所だと感じて、恐怖に打たれます。ここでのヤコブは肉の人です。肉は神の御前にふさわしいものではありません。ヤコブはこれを悟らざるをえませんでした。「聖なることは、あなたの家にふさわしいのです。ああ、主よ、永遠に至るまで」。聖くない状態を神の家に持ち込むのは適切ではなく、自分はふさわしくないという感覚で良心は恐れに打たれざるをえません。

「天の門」は直ちに私たちを、直上の天が開かれていて御声が聞こえる所に導きます。開かれた天、御声、神の御心の啓示が、ヨルダン川における私たちの主の公生涯と務めの開始の特徴でした。変貌の山で彼の十字架の啓示が極点に至ったときもそうでした。それらはペンテコステとパウロの回心とも関連しています。これらの事例はみな一つであり、神の永遠の御旨と深い関わりがあります。ベテルつまり神の家は、開かれた天、神の御声、その御心の啓示という特徴を帯びています。

5.ヤコブがしたこと

「そして、ヤコブは朝早く起きて、頭の下に置いていた石を取り、それを柱として立てて、その頂に油を注いだ。そして、彼はその場所の名をベテルと呼んだ。」

柱は聖書では常に証し人や証しを象徴します。参照、創世記三一・五二、ヨシュア四・七、イザヤ十九・十九~二〇。

油は聖霊の型です。ですから、ベテルは聖霊の油塗りの下で立てられた証しを象徴します。これは、ヨルダン川の向こう側におられたときの主イエスの事例や、ペンテコステに日に同じ所にいた教会の事例にも見られます。

神の家がこのように最初に導入されたときの特徴を概観すると、つまるところ、私たちは自分がほぼ完全にこれらの原則の中を進んでいることに気づきます。これらの原則を霊的に理解するなら、神の家の性質と目的が実際何なのかについて、とても豊かな真の知識が得られるでしょう。

啓示の方法は変わり、その手段は変わります。本物は成長します。形式は過ぎ去ります。外観は異なります。しかし、御旨は同じであり、決して変わりませんし、決して破棄されることもありません。用いられる手段の失敗を常に乗り越えていきます。それは霊的なものです。そして、それを代表している物質的な媒体が挫折したとしても、その霊的実際はさらに強まる一方なのです。