第3章 キリストにある

A. B. シンプソン

私はキリストにあるひとりの人を知っています。
(コリント人への第二の手紙十二章二節)

聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞「~にある(in)」によって最もよく表されています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。第一は「キリストにある(in Christ)」であり、第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。

これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

まず第一に、私たちはキリストにあります。「キリストにある」とはどういうことでしょう?それは、キリストが代表となって、私たちのために立ち、私たちがそのすべての恵みと特権にあずかることです。アダムを盟主としていただく限り、私たちはアダムにあります。同様の意味で、私たちの政治的代表者は私たちのために立ち、私たちを代表するので、私たちは彼の中にあります。そのように、キリスト・イエスは私たちのためであり、私たちの代表者です。そして彼の行為はある程度私たちのものとなります。彼はご自身のためよりも、私たちのために行動されます。

私たちの罪は裁かれた

キリストにあって私たちの罪は裁かれました。彼が十字架上で裁かれたのは、彼の民の罪のためでした。あの暗闇の時、彼は「今がこの世の裁かれる時です」と言うことができました。私たちの罪は彼の上に置かれ、彼にあって取り除かれ、法理的に解決されました。私たちが負うべき罰と、私たちが受けるべき恥と苦しみは、彼の上に下されました。彼に信頼し、彼を救い主として受け入れて、彼との結合の中に入るなら、私たちは自分が受けるべき裁きから救われます。これがキリストにあることの第一の結果です。「私たちは、御子にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによります」(エペソ人への手紙一章七節)。「ですから今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません」(ローマ人への手紙八章一節)。「私のことばを聞いて、私を遣わされた方を信じる人は、永遠のいのちを持ち、裁きにあうことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハネによる福音書五章二十四節)。

私たちは義とされた

さらに、キリストにあるなら、私たちは彼の義によって義とされます。私たちの罪が取り除かれるだけでなく、私たちの義の欠如も取り除かれます。彼は、私たちが満たせなかった律法の要求を満たし、彼ご自身の功績と義を私たちに与えて下さいました。そして私たちは、律法を守った者、彼と同じ完全な精神を現した者のようにみなされます。彼の義が私たちに転嫁されました。彼は私たちを罪から義とした後、私たちを放っておくこともできたでしょう。もしそうだったら、私たちは監獄から出してもらったばかりのあわれな人、生活を始める資力を持たないみじめな宿無しの放浪者のようになっていたでしょう。しかし、キリストは私たちを律法の刑罰から救うだけでなく、彼の立場を私たちに与えて下さいました。キリストは、私たちにとって義となられました。「神は私たちのために、罪を知らない方を罪とされました。それは、私たちが彼にあって神の義とされるためです」(コリント人への第二の手紙五章二十一節)。これが、キリストにあることによって受ける二番目のものです。罪は消され、失敗と欠如は彼の十分な功績によって埋め合わされます。なんという喜びでしょうか!

イエスよ、あなたの血と義は
私の美、私の栄光の衣です。

もし私たちがキリストにあるなら、私たちは御父に受け入れてもらえます。私たち自身を受け入れてもらえます。私たちはキリストと同一視され、彼が占めておられるのと同じ地位を得ます。それは、たんに裁判官が私たちの罪をペンで消すことではありませんし、銀行家が私たちの無限の富をペンで帳簿に記入することでもありません。それは、御父がご自分の子供を抱いて、まさにキリストと同じ地位に置いて下さることなのです。

それは放浪者を富ませる億万長者ではなく、放蕩息子をふところに抱いて、「愛する御子」にあって受け入れて下さる御父です。罪が消され、義が与えられ、彼が愛されるように私たちも愛されること―――これが、キリストにあることの意味です。

神の子供たち

もし人がキリストにあるなら、その人は彼との交わりに入り、神にとってキリストと同じ者になります。イエスは「私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神」と言われました。「彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じた人々に、彼は神の子どもとなる力をお与えになりました」(ヨハネによる福音書一章一二節)。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもなのです」。

ヨハネによる福音書二十章十七節(訳注)
ガラテヤ人への手紙三章二十六節(訳注)

子たる身分を表すのに、新約聖書では二つの言葉が使われています。一つは「生まれた息子」を意味しますが、もう一つにはそれ以上の意味があります。子たる身分を表す二つ目の言葉は、ほとんどの場合キリストの子たる身分にあてられており、イエス以外の他の誰にもめったに使われていません。しかし、その言葉はキリストと結合された人たちを指すのにも使われています。彼らは新しく生まれて神の子供になっただけでなく、キリストが受け入れられたのと同じ意味で受け入れられます。すなわち、彼らは新生によって子たる身分を持つだけでなく、キリストご自身の立場をも持ちます。彼らは神の子供であるだけでなく、「長子」でもあります。東洋人の考えでは、息子と長子には大きな違いがあります。長子は世継ぎです。他の者は何らかの分け前にあずかることができますが、年長者が跡継ぎです。それで「御子は多くの兄弟たちの中で長子であり」と述べられており、信者たちは「長子たち」と呼ばれています。ですから愛する人々よ、あなたがたは天使がなることのできない「子供」なのです。私たちはイエスのように子です。私たちは「天に登録されている長子たちの教会」に近づいています。私たちは「神の相続人、イエス・キリストと共同の相続人」です。

ローマ人への手紙八章二十九節(訳注)
ヘブル人への手紙十二章二十三節(訳注)
ローマ人への手紙八章十七節(訳注)

聞き届けられる祈り

私たちはキリストにあります。そして、偉大な大祭司であるキリストが、御座の前で私たちを代表しておられます。ですから、私たちの祈りや礼拝は、彼ご自身が受け入れられるのと同じように、彼のゆえに受け入れられます。彼はあなたの名によって嘆願を手渡して、その裏に彼の御名を記されます。そして、まるで彼が願っておられるかのように、あなたの祈りは御父のみもとに届きます。キリストはご自身の人格と性格において、あなたを代表しておられます。彼は個人としてそこにおられるのではありません。私たちは個人と見なされているのではなく、キリストと一つである者と見なされています。私たちがこのようにキリストと一つである者として来る時、私たちは自分の欲するものを願い、それを受けます。これが次の約束の意味です、「もしあなたがたが私の内に住み、私のことばがあなたがたの内に住んでいるなら、何でも望むものを願いなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(ヨハネによる福音書十五章七節)。

共同の相続人

私たちはキリストにあって万物を受け継ぎます。私たちは彼と共に御座に座します。彼のすべての豊富、すなわち後の時代に来ようとしているものはみな、私たちのものになります。彼はご自身の未来と私たちとをつないで下さいました。キリストは私たちと一緒でなければ、決してなにものも所有されません。愛する人よ、もしあなたが「私はキリストにあります」と言えるなら、続けて「私は彼にあってすべてのものを持っています」と言うことができます。それで、パウロはエペソ人のために、「キリストがどのような方であるのか、彼らが見ることができますように」と祈りました。「神はキリストを、すべての支配、権威、力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く上げられました。また神は、彼をかしらとして教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二十一~二十三節)。彼は「私のものはすべてあなたのものです」と仰せられます。永遠の時代をもってしても、その測り知れない富を使い尽くすことはできません。

彼の所有は私のものとなり、
彼のように私はなります。
彼の神聖な栄光を着せられて、
私は彼のようになります。