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平安という宝石

The Jewel of Peace

チャールズ・プライス
Charles Price



主の御言葉の中には何という宝が隠されていることか!少しの時間、少しの忍耐、少しの祈り、少しの希望があれば、神聖な真理の無尽蔵の富の中から、救い主の微笑みという陽光の中で煌めき輝く宝石を取り出せる。私はあなたたちに平安、麗しい平安、素晴らしい平安、あらゆる理解を超えた平安の秘訣について語りたいと思う。人はこれを理解できない。それはあまりにも神聖だからである。

ピリピ人へのパウロの手紙の四章では、五節からこう記されている。「あなたたちの寛容をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事も思い煩ってはなりません。ただ、事ごとに、感謝を伴う祈りと嘆願とによって、あなたたちの求めるところを神に知ってもらいなさい。そうすれば、あらゆる理解を超えた神の平安が、キリスト・イエスを通して、あなたたちの心と思いとを守ってくれます」。この素晴らしい御言葉の中に平安の秘訣が隠されている。この秘訣を私はあなたたち全員に知ってほしいし、主の恵みにより、あなたたちはこの秘訣を得ることができるのである。

この箇所が示唆しているのは、人生は必ずしも麗しい凪ではないということである。ここで述べられている平安は凪の平安ではなく、嵐の平安である。もしそれが凪の平安だったら、理解を超えていなかっただろう。完全に自然なものだっただろう。この世もそのような平安を経験していただろう。少し考えれば分かるように、それはわれわれが嵐の只中で享受する平安である。紛争の中で持つ静けさである。せわしい世の中の喧騒の中で持つ心の静けさである。そのため、これは説明不可能である。そのため、これはそんなにも素晴らしいのである。この世の哲学者たちがこのような平安の現われを目撃する時、彼らは困惑して頭を振る。そして、このような平安を持つほど豊かな人々に何があったのか理解できない。

静まって知れ

この秘訣は、確信と賛美の心構えにある。われわれは何と騒々しいことか!あたりを駆け回って大騒ぎすることか!自分たちの要求を何とわめきたてることか!この御言葉の中で使徒は、「あなたたちの寛容をすべての人に知らせなさい」とわれわれに懇願するところから始める。

「寛容」という言葉は、おそらく、少しばかり誤解を招くかもしれない。原文では「優しさ」である。「静けさ」である。確信から生じるあの沈黙である。パニックを起こしてはならないと、われわれは命じられている。われわれは感情的ヒステリーに陥ってはならない。主は近い、と御言葉はわれわれに告げている。これが示唆するのは、イエスは遠く離れておらず、われわれの御父はわれわれを忘れておられない、ということである。救い主はわれわれを見捨てておられないのである!

困難と苦しみのとき、われわれは世人と同じ心情を現わしてしまう。われわれの証しは何と重苦しくなってしまうことか。われわれは常に神の約束を覚えているべきである。「私はあなたから決して離れず、決して見捨てない。下には永遠の御腕がある」と神は約束して下さっているのである。

麗しい平安というこの宝石を所有して示したいなら、われわれはそれを確信と信頼のうちに保たなければならない。そして、それを日の光や夜の暗闇の中で開かなければならない。この平安は陽光の中では心地よい。しかし、ああ、われわれの夜の暗闇の只中でそれがイエスの栄光を反射する時、それは何と煌めき輝くことか!

第二に、何事も思い煩ってはならないとわれわれは命じられている。言い換えると、心配するな!ということである。「百合について考えよ」とわれわれに言われた時、イエスはあの麗しい教訓をわれわれに与えて下さったのではなかったか?彼は翼で飛んでいる雀を指して、これらの雀の一羽たりとも、われわれの父の許しなく、地に落ちることはない、と言われた。彼は弟子たちに、「明日のことを思い煩ってはなりません。その日に必要なものをみな、神は憐みによって顧みて下さいます」と言われた。

われわれは一人で成長して自分自身の道を行くよう放って置かれなかった。むしろ神は、われわれの上に、夜は火の柱、昼は雲の柱を置いて、確実にわれわれの足が常に故郷への道を辿るようにして下さった。これが神が祝福して私自身の心に与えて下さった考えである。雲の柱が私を導いている限り、明日のことを心配するどんな権利が私にあるというのか?火の柱が私の案内である以上、機嫌を悪くして及び腰になるどんな権利が私にあるというのか?主御自身がある状況の中に私を導いておられる以上、どうしてその状況について悩まなければならないのか私には理解できない。

これを書いている今、私はシカゴの街にいる。シカゴは下町の商業街を除いて私のよく知らない都市である。昨日、私の友人の一人が私を車で郊外に連れて行ってくれた。その道を以前見たことは一度もなかった。われわれは大渋滞の中を進んだ。ガタガタ道もあれば、きれいで滑らかな道もあった。

もし私が質問攻めし続けていたら、私の友人は何と思っただろう?私がこう言ったとしてみよ。「これが正しい道であることは確かですか?あの道は良いように見えません。この道はあまりにもでこぼこです。何か他の道があるに違いありません。私が思うに、今、私たちは間違った方向に向かっています。あの角を曲がるべきだったのではないでしょうか?」云々。

友人は私を見て、心の中でこう言ったにちがいない。「プライス兄弟はきっと、私の運転に信頼していないにちがいない。私はこの道を知っており、何回も通ったことがある。一体全体、彼は何を心配しているのだろう?どうして私を信頼してくれないのか?」。

多くの人がイエスに対してこのように振る舞う。彼は彼らを導いており、彼らを守ると約束された。故郷に向かう足を彼はすべて御存じである。しかし数分ごとに、われわれは彼の所に駆け込んで、道のことで不平を鳴らすのである。「彼は間違いを犯したにちがいない」とわれわれは自分の心の中で確信しているのである。彼が左に曲がり、われわれを導いて緑の牧場から遠ざからせる時、「彼は右に曲がるべきだった」とわれわれは確信する。それで、われわれは不平を鳴らして呻くのである。間違いを見つけて不平を鳴らすのである。われわれの心と思いは麗しい平安で満たされてしかるべきなのに、騒動の状態にあることに何の不思議があろう?

主はなおも御自身の民を導かれる

雲の柱と火の柱によってイスラエルの子らを導かれた御方は、御自身が贖った者を人生のあらゆる紆余曲折を通して導いて、麗しい故郷の真珠の門に至らせて下さる、という姿勢をなぜわれわれは取ることができないのか!これはパウロがはっきりと教えたことである。彼が「何事も思い煩ってはなりません」と言う時、それは心配するなという意味である。イエスに信頼せよ。彼はあなたを最後まで導いて下さる。夜が暗ければ暗いほど、ますますあなたは信頼することができる。道がうねっていればいるほど、ますますあなたは彼に堅く信頼する必要がある。

「さて、主よ、私はあなたが選ばれたこの道が好きではありません。私に自分の道を選ばせて下さい」と、あなたはかつて主に言ったことがあるだろうか。あなたは私に微笑んで、「いいえ、決してそんなことはしません」と言う。よろしい、それでは、あなたにささやかな質問をしたい。時として自分が選んだのではない道にいることが分かると、なぜあなたは不平を鳴らして眉をひそめるのか?

だから、私の友よ、何事も思い煩ってはならない。心配するな。主は近い!言い換えると、主は遠く離れてはおられない。事実、主は息よりも近いのである。何事も思い煩ってはならない!

求めるだけでなく受ける

数年前、私の奉仕仲間である、とても深い洞察力のある神学者が、私が導いていた集会に参加した。初っ端から人々は主の御顔を求め始めた。毎晩、人々は祭壇で執り成しと祈りをしていた。懇願し、いつまでも求めていた。

ある晩のこと、この有名な説教者は私の方に身を寄せて言った。「この人々は絶えず探しているのに、見つからないのでしょうか。絶えず求めているのに、受けないのでしょうか?」。彼は批判して言ったわけではないが、この状況に困惑していた。この状況に注意して祈る必要があることを、私も自覚していた。

「まことに私はあなたたちに言います。悔い改めて幼子のようにならない限り、あなたたちは天の王国の中に入れません」(マタイ十八・三)。

理解を超えた平安を享受するには、求める方法を学ばなければならないだけでなく、受ける技術も教わらなければならない。神に対する信仰と確信に基づいて、自分の求めを一度知ってもらったら、あとはそれを主にお任せする境地にわれわれは達しなければならない。諸々の約束がすでに与えられている。それらを疑問視してはならない。

私の子供たちが若かった時、暑い日にはたびたび、私のところに来て、冷たい飲み物やアイスクリームを買うための硬貨を求めたものだった。私は心から彼らを愛していたし、彼らが私に対して抱いている愛を幸いに思っていた。

こうした求めを楽しみにしていた日々を私は思い出す。「夕食の後、仕事が終わったら、お金をあげよう。そうしたら、店に駆けて行って、好きな物が買えるよ」と私は子供たちに約束したものだった。私の記憶が正しい限り、子供たちがする必要があるのは、私が約束したことを一度だけ私に求めることだった。

絶えざる乞い求めと嘆願は、私にとって、私の言葉に対する信頼の欠如を意味しただろう。子供たちは私に信頼していた。私を信じていた。彼らが私にしたささやかな「祈り」――このような表現を使うことを許してもらえるなら――は、感謝と共に終わった。彼らの執り成しは私の約束に基づいていた。約束に基づいていたので、信仰は自らを強く主張して、執り成しは賛美に変わったのである。

われわれ年配の者たちは、この教訓を学ばなければならない。私が今述べているのは、神の聖徒たちの上に臨む執り成しの霊、したがって聖霊御自身のことではない。私が述べているのは人生の日々の経験のことである。日々の経験の中で、われわれは自分が望んでいるものをすべて受けていないからという理由で、思い悩み、心配し、感情的に神経質になっている。おそらくそれは、われわれが「受け取り」方を学んでこなかったためである。神を信じる方法を学ばない限り、われわれは受け取り方を学ぶことはできない。

ミュラーの物語

信仰の使徒であるあのジョージ・ミュラーの生涯のある出来事の物語をあなたたちに話すことで、私の思想を最も良く描写できると思う。話によると、ある日のこと、彼の孤児院がまだ小さかった頃、食料貯蔵庫が空になった。供給が減り、子供たちの小さな口には食物が必要だった。小さな少年たちや少女たちは、遊んでいるうちに空腹になるのが常だったからである。彼は祈りのために使っていた部屋に降りて行った。その時、神の子供を連れて行ったのだが、その子のペンを通してこの物語が世に与えられたのである。

ジョージ・ミュラーは自分の主の前に跪いて、必要なものを主に述べた。小麦粉の袋の数に言及することすらした。孤児院を維持して、小さな孤児の少年たちや少女たちに衣食を与えるのに必要なものを、彼は順番に一つずつ全て主に述べた。すると、想像しうる最も麗しい仕方で、彼は祈りを感謝に転じた。彼はイエスに、孤児たちは主のものであること、孤児院は主御自身の導きによって維持されてきたこと、自分の主が孤児院を顧みて下さることを自分は知っていることを告げた。立ち上がった時、彼は自分と一緒に祈っていた人の顔に向かって微笑んだ。

確かに、必要は満たされた。もちろん、満たされた。彼は感謝を伴う祈りと嘆願によって、自分の願いを知らせた。自分の問題を恵みの御座の前に持ち出した。主は彼の必要を知り、ジョージ・ミュラーにはできないことをイエスが行われた。奇跡を行われた。必要を満たす手段を持っている誰かに、御霊の声で語りかけられた。そして日が沈む前に、孤児院の裏口に貨車から小麦粉の袋が降ろされたのである。

あらゆる場合がこのような具合であるとは私は主張しない。しかし、私は絶対的に確信している。われわれの中には、地下室でひたすら求めることに多くの時間を費やすあまり、台車が戸口で答えを携えて控えている音を聞き逃す人がいるのである。

壮大な結論

そして、パウロは輝かしい結論に達する。われわれがこの教訓を学ぶ時、然り、それを実行に移す時、何かが起きる。あまりにも素晴らしいためあらゆる理解を超えている神の平安が、われわれの心と思いを満たす、と彼は告げる。この平安が臨むのは答えと同じ時である、とは彼は言っていない。答えの前に平安が臨むのである。この平安は答えによらない。答えを与えることのできる御方を信じるわれわれの信仰による。これが秘訣である。

沈滞と平安との間には大きな違いがある。われわれの生活はわれわれの御父の御手の中にあることを理解する時、そして、御父だけが必要を満たせるのであり、そうすることを御父は御言葉の中で約束して下さっていることを悟る時、われわれは思い煩わない境地に達する。われわれの中の誰にとってもこれで満足なはずである。われわれ全員にとってこれで十分なはずである!

この平安は心と思いの両方を守る。心と思いの間には違いがあることはお分かりだろう。心は感情を取り扱い、思いは理性を取り扱う。心の諸々の過程は霊的である。思いの働きは論理的である。時として、心と思いは衝突する。われわれの自我の領域の内側深くで心は信じたがっているのに、思いが理屈を言い続けて心の平安を乱すのである。

一度ならず、この争いがわれわれの人生で荒れ狂ってきた。それに気づかない時でも、これはそうだった。われわれは神との交わりを持ったばかりだったかもしれない。イエスに信頼していたかもしれない。主の祝福を受けて、御霊の動きを感じていたかもしれない。勝利が与えられることを自分の心の中で確信していたかもしれない。しかし、家に帰る途中、われわれはそれについて考え始め、われわれの思いはわれわれの心を痛めつけ始めた。理性が信仰に対して戦い始め、われわれは自分が信じたいことを信じられなくなってしまった。この思いと心との闘い、信仰と理性との長年の戦いの中で、時としてわれわれは、自分が信じていないことを信じるという矛盾に陥ってしまう。

しかし、ああ、イエスの内には甘美で幸いな場所がある!隠れた命がある。これはあまりにも麗しくて聖いため、そこでは心と思いは調和する。主に完全にいつまでも信頼するという学課を自分たちの過去から教わる時、この戦争は終わり、この戦いに勝利する。たとえ家に帰る道が分からなくて暗闇の中で泣いている子供のようだったとしても、われわれの涙は見えない手で拭い去ってもらってきた。そして、われわれの心は救い主の導きの中で喜ぶ。もはや思い煩う必要はない。もはや心配する必要はない。主は近い!われわれの主はあまりにも近いため、われわれは主の御手が自分の頭に触れるのを感じることができる。そして、われわれは主の御声の音を聞いて感動する。主は魂という園の道をわれわれと共に歩み、祈りの格子窓の下でわれわれと語られる。その時、艱難はわれわれに影響を及ぼさなくなる。なぜなら、試練はわれわれを主の傍に追いやるにすぎないからである。

外側の嵐は内側の嵐を意味しない。心と思いの両方が神の力によって保たれ、われわれの人生が賛美という美しい衣で覆われる時、世の暴風雨は心の中の平安を乱さなくなる。神の恵みにより、自分もこう言えるようになる霊的経験にわれわれは達する。「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、権力者たちも、今あるものも、来るべきものも、高いものも、深いものも、他のいかなる被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」(ローマ八・三十八〜三十九)。だから、これはわれわれの遺産である。あなたはこれを持つことができる。あなたはこれを経験するべきである。どうか神がその愛の中で、あらゆる理解を超えた神の平安を、あなたに分け与えて下さいますように。どうかあなたが主を今日も明日も自分のものとして、主の光の中を絶えず歩み、遂には真珠の門が開かれますように!

§

「私の中に安息と回復があります。この世ではあなたたちは艱難に会いますが、あなたたちは私の中に安息を見出すことを学ばなければなりません。なぜなら、私こそあらゆる理解を超えた平安を与える者だからです。私こそあなたたちの心と思いを守って私を知る知識を与える者だからです。

この世ではあなたたちは艱難に会います。この世ではあなたたちは混乱と騒動に会います。この世ではあなたたちは冷遇を受けます。しかし恐れてはなりません。私は世に打ち勝ちました。そして、あなたたちは私の中に自分の勝利の分け前を見出すのです」。