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Visions

チャールズ・プライス
Charles Price



今晩、私は「幻」という主題について心を込めてあなたたちに話したい。少し前のこと、私はかなり働くことを余儀なくされた。それは、私が神の御力の下にあったとき私に臨んだ幻について述べた証しのためだった。私はまず次のことに同意したい。神が人に与える本物の経験の偽物を、悪魔は狡猾にも造り出せる。冷笑的な人々の足下に座している人々は、われわれの目の前に絶えず偽物を並べ立てている。彼らは偽物について説く。偽物を高く上げて、嘲り、さげすむ。自分たちの奇怪で空想的なおとぎ話で自分たちの会衆の会員を怖がらせようとする。そして時には、正直で誠実な人々を怖がらせて、神の深い事柄から遠ざけることにまんまと成功する。

数年前、私が西に向かって旅していた時のこと、私は偽の五ドル紙幣をつかまされて悲しくなった。ある銀行家が偽物と本物の違いを私に示したとき初めて、私は自分が騙されたことに気が付いたのだった。ある人々が述べている論理を用いると次のようになるだろう。「友よ、五ドル紙幣には気をつけなさい。それから離れなさい。それを求めてはなりません。それを受け取ってはなりません。なぜなら、聞いてください。この世には偽物があるからです」。しかし、私の姿勢はこのようなものでは全くない。私は今晩ここに立って、親愛なるあなたたちが私に与えてくれる五ドル紙幣をすべて受け取る所存である。

今日の問題は、この世の物質主義が霊的に価値あるものを教会から奪うことを、教会が許してきたことである。今日は物質主義の時代として知られている。現代的思考は物質主義的哲学の基礎の上に建てられている。教育はこの恐ろしい怪物の胃に飲み込まれて消化されてしまっている。その結果、聖霊の力に関連するものはすべて投げ捨てられてしまっている。そう遠くない昔のこと、私はある牧師から一通の手紙を受け取った。その牧師は自分の心を切々と私に注ぎだしたので、私の目にも涙があふれた。彼は真理を追い求めていたのだが、それにもかかわらず、真理だけが通って入れる扉を閉ざしてそれに鍵をかけていたのだった。彼は学びに打ち込み、真夜中に油で明かりを灯して、自分の心を満足させてくれるものを掴んで理解しようとした。そしてある日のこと、彼は私に話さなかったのでどうやってかは分からないが、「私はいかにしてバプテスマを受けたのか」という題名がついた私の説教の一つを手に入れた。彼はそれを読んだ。数年前にサンノゼの集会で私が跪いた時、どのようにして疑いの霧が私の心から晴れて、イエスが私の哀れな待ち望んでいる心にとって現実の方となったのかの物語を彼は読んだ。ダマスコへの途上にあったサウロのように、私がどのように御力に打たれたのかを彼は読んだ。どのようにして天が私の前に開かれて、神の炎の生ける舌が私の無価値な頭の上に下ったのかを彼は読んだ。それでこの哀れな人は私に書き送って、私が経験したことについて何か合理的な説明が私にできるのかどうか知ることを願った。私が彼に送った返事の手紙の一部を引用しよう。「兄弟、あなたは知ることを望んでいると私は信じます。あなたはそれを知ることができると、私はあなたに保証します。あなたが私に送った手紙の論調から、あなたは暗闇の中を手探りしていて、明かりをつけるためのスイッチを探しているように見受けられます。他の数千の誠実な心の持ち主と同じように、あなたは霊的真理を自分の知力で理解しようとしてきました。親愛なる友よ、それは不可能です。もしあなたが私の忠告を受け入れてくれるなら、神はあなたに門を開いてくださると思います。これらのことがあなたに臨むのは、学びによってではなく、隠れた祈りによってです。これらのことがあなたに臨むのは心を通してであって、頭脳を通してではありません。これらのことを見るのは御霊の目によります。あなたの肉体の目で、これまで書かれた全ての本を一万年かけて読んだとしても、これらのことを見ることはできません。もしあなたが臨在の秘密の場所に引きこもって、あなた自身の思いという怒れる群衆から逃れるなら、きっと神はあなたに御自身を啓示して下さるでしょう。すべてを忘れるよう努めて下さい。そして幼子のようになって下さい。そうするなら、御手があなたの上に置かれ、あなたは天の王国の中に入ると、私は信じています」。三か月後、この人から別の手紙を受け取った時、私はどれほど喜んだことか。私は彼と会ったことは一度もないが、それでも私は彼を友人と見なしている。彼は自分の心と頭脳との間のあの戦いについて私に話してくれた。自分の信仰と自分の理性との間に生じた戦争について説明してくれた。その後、ある輝かしい朝のこと、砕かれた悔いた心を蔑まれない御方が彼のところに来て下さったのである。義の太陽が昇って、疑いの雲はすべて晴れたのである。

御霊に満たされた生活

私の友よ、私は今日あなたに宣言したい。御霊に満たされた生活というものが存在するのである。私が言わんとしているのは、われわれをキリストの模倣者とする霊で満たされることではない。人々は時々、好戦的な霊で満たされたり、何かに熱狂する霊で満たされることもあるが、そういうことではない。私が述べている御霊とはひとりの御方であり、知的存在であり、われわれ一人一人の生活の中である特定の務めをなさる御方である。人が聖霊のバプテスマを受ける時、それは聖霊に満たされることを意味する。聖霊の務めはとても明確で美しく、福音書の締めくくりの章でそのあらましが述べられているし、パウロの手紙の様々な箇所でも述べられている。聖霊がわれわれの体を所有する時、われわれが全く完全に聖霊に明け渡される時、われわれは別世界の中に生き始める。われわれは諸々の霊的器官を持つようになる。なぜなら、神の御旨がわれわれに啓示されるのはそれらの器官によるからである。慰め主なる御方は何と聖なる幸いな務めを、御霊に満たされた生活の中で果たして下さることか。あなたは「御霊はあなたたちにすべてのことを教えます」というイエスの御言葉を覚えているだろうか?あなたは聖書を開いて椅子の上に置き、あなた自身の静まった部屋で跪いたことがあるだろうか?あまりのも麗しくて甘美なため、蜜と天の息吹の芳香とで滴っている言葉を読んだことがあるだろうか?あなたの内側に住んでいる御方が生ける御言葉の隠れた宝をあなたの前に示して下さる事実を、あなたは意識したことがあるだろうか?そして最終的に、この聖霊に務めにより、あなたは喜びのゆえに叫び、神の素晴らしいあらゆる善良さのゆえに神を賛美するのである。

しばらく前の、私が聖霊でバプテスマされた直後のこと、私は自分の部屋で一人で主を待ち望んでいた。私は、私の机の上から聖書を取って、それを開いて読むように、という御霊の直接的導きを感じた。聖書のページをパラパラめくると、ヨハネによる福音書の十四章が開いた。そして、この素晴らしい章の節を読み進んで行くと、とうとう「もし私が去るなら、私は戻って来ます」という御言葉に来た。突然、栄光の波が私の体を駆け巡った。私がこの御言葉を見ていると、それは私の目の前で緋色になるように思われた。再び私は「もし私が去るなら」という御言葉を読んだ。私は聖霊の動きを感じた。しばらく前に訪問する特権に与ったあの国に運ばれたかのようだった。私はオリーブ山の上にいた。そして向こうには、あまり遠くない所に、人々の小さな群れが見えた。その人々の一人は祝福された私の主だった。突然、私の仰天した目の前で、主が高く、高く、高く、昇って行くのを私は見た。最終的に主は私の視界から消え、天の草原に浮かんでいる真っ白な羊毛状の群雲で見えなくなった。

涙が私の頬を流れ落ちた。自発的に私は聖書のページをめくった。すると今度は、使徒行伝が私の前に開かれた。私の友よ、それは一章十一節だった。涙目を通して私は読んだ。「ガリラヤ人よ、なぜあなたたちは天を見上げて立っているのですか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは、同じ有様で戻って来られます」。「同じ有様で」――「同じ有様で」。私の内なる声がこの句を繰り返し続けた。突然、輝かしい真理が私の待ち望んでいる心と思いの回廊中に充満した。この再臨の真理は私にとって真昼の太陽のように明らかだった。次の一時間も、私の教師である聖霊により、御言葉が相次いで私の存在の回廊中を行進した。神は通常の聖書の本文の大軍を集結させられた。そしてこの大軍が、かつて見たことのない衣をまとった壮大な観兵式の中、私の前を歩んだ。人生で初めて、「イエスは再来される、イエスは再来される」と私は叫んだ。その日私が読んだ御言葉は、それ以前に何回も読んでいたものだった。ああ、教えるために来臨されたこの祝福された聖なる御方の務めは、何と素晴らしかったことか。御言葉は新たな意味をまとったのである。この御方はキリストのものを受けて、それを私に啓示して下さっていたのである。

これは幻である。然り、天の幻である。地の塵から金で舗装された通りへと至るはしごの幻である。われわれは開かれた墓の傍らに立ってはいるが、それはイエスの御腕の中で安らかな、われわれの愛する者たちの幻である。われわれの背は重い十字架の重しの下でたわんではいるが、それは栄光の世界の陽光の中で輝き煌めいている冠の幻である。私はあなたに尋ねる。これは非聖書的だろうか?神の御言葉はこれを告げてこなかっただろうか?主の使徒たちはこれを約束しなかっただろうか?現代の黙示録、死すべき人の目から隠されている真理の啓示は、もうありえないのだろうか?私の親愛なる友よ、もしあなたたちが天の音楽を一度も聞いたことがないなら、私はあなたたちが気の毒である。もしあなたたちが自分の肉体の目では決して見えない事柄を御霊の目で一度も見たことがないなら、私はあなたたちに懇願する。跪いて、祈りに祈れ。恵みの手段を無視してきたせいで、あなたたちクリスチャンは何という祝福を逃してきたことか。神はあなたたちにあるものを与えることを願っておられたのに、あまりにも忙しくてそれに手を伸ばして受け取らなかったことが、あなたたちの人生に何回あったことか。人生の巡礼の旅路で、神は天の歌をあなたたちに歌うことを願っておられたのに、あなたたちはこの古びた物質世界のジャズ音楽を聞くのに忙しかったことが、どれだけしばしばあったことか。私はあなたたちに告げる。今晩この大観衆の中にいるわれわれは一人残らず、神の恵みの富の大多数を逃してきたのである。それは、われわれが時に属する事柄で占有されていたからである。目はあっても見えない人々で、この世は満ちている。知性はあっても理解できない人々で、この幕屋は満ちている。私は今、耳はあっても聞こえない人々に向かって話している。「私たちがほしいのは事実、事実、事実です」とあなたたちは私に言う。私の前にあるこの講壇が木でできていることは事実である。あなたたちはそれを信じている。あなたたちはこれを見ることができるし、理解することもできる。私の頭の上にあるこれらの電球がガラスとフィラメントでできているのは事実である。あなたたちはこれを理解し、頷いて承認することができる。しかし、私があなたたちに幻について、あなたたちに語りかける神の御声について、偉大な教師であり全ての真理の啓示者である聖霊について話すと、あなたたちはすぐに戸惑いの表情を浮かべる。「私には分からない」と心の中で言う人もいる。私の友よ、私はあなたたちに言う。あなたたちは知ることができる。ハレルヤ、あなたたちは知ることができるのである。物質的事実と同じくらい、あるいは確かにそれ以上偉大な霊的事実が存在する。然り、私はあなたたちに告げる。霊的事実はさらに偉大なのである。今晩、身の回りに見えるものがすべて消え去ったとしても、激しい熱で物質がすべて溶け去ったとしても、霊の事柄や見えない事柄は残る。私は神に祈る。どうか神があなたたちの目を開いて下さり、あなたたちがこの真理を見ることができますように。

エリシャがドタンにいた時、彼の僕が彼と一緒に彼の仮庵の中にいたという聖書の記録を、あなたたちは思い出さないだろうか?二人の人が同じ仮庵の中にいたが、それでも彼らは遠く隔たっていた。二人は同じ仮庵から外を見て、一人は火の馬を見たが、もう一人は肉体の馬を見た。一人は信仰に満たされていたが、もう一人は恐れに満たされていた。なぜか?一人は肉体の目で見ることができるだけだったが、もう一人は御霊の目で見ていたからである。自分の僕が恐れおののいていたために、エリシャがどのように少しイラついたのか、あなたは思い出さないだろうか?彼はその僕を椅子に座らせて、彼と議論し、説得しようとすることもできた。しかし、議論を尽くしたとしても、僕の心から恐れを除くことは決してできなかっただろう。その代わりに、「主よ、彼の目を開いて、見えるようにして下さい」と彼は祈った。神はその祈りをかなえられた。すると、その僕は頭をその仮庵から突き出して、飛び跳ね、「ハレルヤ、神に栄光あれ!山々は火の馬と火の戦車でいっぱいだ。万軍の主がわれらと共におられる。ヤコブの神はわれらの避け所である」と叫んだのである。

私の友よ、これが今晩わたしがあなたたちのために祈っていることである。あなたたちの目を開いて見えるようにして下さい、と私は神に求めている。少し前に、あなたたちはこう歌った。

「完全な服従、完全な喜び、
 携え挙げの幻が、今や私の視界を満たす。
 天使たちが下って来て、天より
 憐みのこだまと愛の囁きとをもたらす。」

この詩歌を歌っていたとき、あなたたちの半数は自分が何について歌っているのか分かっていなかった。誰がこの詩歌を書いたのか、あなたたちは知っているだろうか?盲目のアメリカ人詩歌作者のファニー・クロスビーである。然り、私の友よ、彼女は盲目だった。しかし、あなたたちの中には「自分は素晴らしい視力を持っている」と主張している人々もいるが、そのような人々が決して見たことのないものを彼女は見ることができた。あなたたちの中には標識や劇場や懸賞戦を見ることのできる人もいるが、ファニー・クロスビーが述べていたのは「携え挙げの幻」である。にもかかわらず、あなたたちは私に「彼女は盲目だった」と言う。否、私はあなたたちに告げる。あなたたちの方こそ盲目なのだ。あなたたちが見失っているものを思うと、私の心は痛む。あなたたちが決して見たことのない、御霊の目によってのみ判別できる現実を考えると、私は打ちのめされる。あなたたちを捕らえてきた恐るべき物質主義から、神があなたたち全員を解き放って下さるよう、私は神に願う。そして、あの祝された慰め主、真理の偉大な啓示者が、あなたたちの内なる心に語って下さるよう、私は願う。

十字架のあの不屈の小さな兵士であるパウロがコリントにある教会に最初の手紙を書いていた時のことを、あなたは覚えていないだろうか?その第二章で、「私はあなたたちの所に行ったとき、『イエス・キリスト、十字架に付けられた方の福音』を宣べ伝えた」と彼は告げた。この初期の時代のすべての宣教者の中で、パウロは間違いなく最高の教育を受けた人だった。彼は、おそらくタルソの大学を卒業した法律家だっただけでなく、ガマリエルのお膝元で哲学をも学んだ。彼は知性に秀でていた。知的巨人だった。しかし彼の学識、教育、哲学、法律家業は、決して彼を神にもたらさなかった。彼は回心前からとても誠実だった。だが、間違いに誠実だった。私の友よ、あなたの誠実さはあなたの正しさを意味しないという事実を思い出せ。あなたの正直さはあなたが真理を見出していることを必ずしも意味しないという事実を思い出せ。誤謬の中でとても誠実な人が何千人もいるし、間違いに誠実な人が何百万人もいる。あの日、ダマスコ路を旅していた時、サウロはこの状態にあった。すると、彼は力の下で倒れた。彼の背にのしかかったのはどんな力だったのか、とあなたたちは尋ねるかもしれない。私はあなたたちに告げる。それは神の力だった。この力の下にあった時、彼は一つの幻を見た。それはこの人の人生の転機だった。ダマスコの中に彼は盲目の状態で入った。しかし肉体的盲目の中でも、彼はかつて見たことのないものをはっきりと見ることができた。神の御言葉にしたがって、彼はまっすぐと呼ばれている通りに行った。これはどんな人にとってもクリスチャン人生を始めるのに良い道である。その後、まっすぐと呼ばれている通りから、彼はアラビアの広大な砂漠に行った。そこで何が起きたのかは御存じの通りである。聖霊が彼の教師になられたことに、私は微塵の疑いも抱いていない。彼は諸々の幻を見た。天から直接、深遠な諸々の教理的真理を受けて、それが後年彼の手紙の中に具現化された。「私は血肉に諮らなかった」と彼自身がわれわれに告げている。ある時、彼がエルサレムに行って、昔のペテロと十五日間滞在したのは事実である。この二人は共に何という素晴らしい時を過ごしたに違いないことか。ペテロがパウロをエルサレムの至る所に連れて行って、この都の景色と、自分とイエスが一緒に過ごした場所の景色とを見せるのが、私には思い浮かぶ。しかし彼がこれらの深遠な真理を得たのはペテロからではなかった。聖霊からだったのである。

だから、コリントにある教会へのこの手紙の中で、彼がこう記しているのをわれわれは見出す。「私はあなたたちの間でイエス・キリスト、十字架につけられた方以外何も知るまいと決意しました」。私の友よ、人々をイエスのもとにもたらせれば彼らを真理にもたらせることを、パウロは知っていたことがわかる。イエスは真理である。分与された真理であるだけでなく、彼御自身が真理である。人々をイエスにもたらせれば、彼らを永遠の日の牧草地に向かって開かれている真珠の門にもたらせることを、パウロは知っていた。イエスが来たのはその道を人々に示すためではなかった。というのは、「私は道である」と彼は仰せられたからである。彼がイエスを宣べ伝えた理由は、彼らの信仰が人の知恵にではなく神の力に基づくようになってほしいからである、と彼はこのコリント教会に告げた。しかし、自分は愚か者ではないこと、そして、主を受け入れたクリスチャンは狂信者ではないことを、パウロは宣言する。なぜなら、彼は六節ではっきりとこう述べているからである。

「しかし私たちは完全な者たちの間では知恵を語ります。この世の知恵や、この世の滅びゆく君主たちの知恵ではありません。むしろ、私たちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵です。それは神が世の始まらぬ先から私たちのために定めておかれたものです。この知恵をこの世の君主たちは誰も知りませんでした。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。

これは何と力強い言葉だろう。何という輝かしい真理の通り道に、パウロは遠い昔の時代の古のコリント教会の人々をもたらそうとしていることか。しかし今、私はあなたたちに読みたい。あなたたち全員が聞けるように読みたい。

「しかし、こう記されています。目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は御自身を愛する者たちのために備えて下さいました。神はそれらを御霊によって啓示されました。御霊はすべてを探り、神の深い事柄さえも探るからです」。

これを聞いただろうか?神はこれらを御霊によって啓示してこられたのである。

すると、「あなたは幻を信じているのですか?」とあなたたちは私に尋ねる。「人々が幻を持つのは危険だと思いませんか?」とあなたたちは私に尋ねる。私の友よ、あなたたちに言おう。神を知る唯一の道は超自然的啓示によると、私は心の底から堅く信じている。聖霊の務めはあなたが救われる前から始まり、あなたに自分の罪を認めさせる。聖霊の働きは継続して、あなたを祭壇にもたらす。そしてそこで、イエス・キリストの尊い血を通して平安と赦しを見出す。ああ、カルバリの小羊の血。ああ、血、流された血、これが私の心を罪から清める。祝された聖霊はこの血を適用し、それから、「あなたは私たちの主イエス・キリストにあって新創造です」とあなたの心に囁かれる。その後、もしあなたが聖霊にそうしてもらうなら、初めからあなたと共におられるこの御方は、あなたを臨在で満たし、高き所からの力をあなたに授ける。これを完全に明らかにすることにしよう。血で洗われたクリスチャンはみな、聖霊を得なければならない。この一連の集会が終わる前に、回心して御霊に満たされた人の生活における聖霊の務めに関するメッセージを、私はあなたたちに与えるつもりである。今晩、あなたたちが完全に服従して、自分の心を神に明け渡すよう、私はどれほど神に祈っていることか。あなたたちの内側の最も深い部分に語りかけているあの声の囁きにあなたたちが注意しますように、そして、祝された聖霊に平原や山々を縫って導いてもらい、遂にはベウラの地の空気を呼吸するようになりますように、と私はどれほど祈っていることか。然り、神の深い事柄、あなたたちの死すべき心では決して理解できない事柄は、神の恵みという包みに包まれており、誉むべき三位一体の第三格位によってあなたたちに与えられるのである。

羊飼いたちがユダヤのベツレヘムの野で聞いたように、天使たちの歌があなたの心という野で再び聞こえるようになる。ヤコブのはしごの横木は決して壊れたことはなく、石の枕も綿毛のベッドのように柔らかくなる。あなたが冷たい石の長椅子の上に横たわる時、牢獄の壁は消え去り、ジョン・バンヤンと共にあなたは神の都への道すがら楽しい山々を歩いて登ることができる。たとえ人が手を引いてあなたを連れ回し、あなたのことを盲人呼ばわりしたとしても、あなたはファニー・クロスビーと共に、「携え挙げの幻が、今や私の視界を満たす」と歌うことができる。たとえあなたが少しばかり粗末な小屋に住んだとしても、あなたは王宮に住んでいる人よりも富むことができる。皿洗いをしている時でも、あなたは「彼処では私のために豪邸が建設中です」と歌うことができる。幻。私は幻を信じているのか?然り、私の友よ、私の目は全き栄光に包まれた王を見てきたのである。