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キリストとの合一

Union with Christ

チャールズ・プライス
Charles Price



「愛する者たちよ、もし私たちの心が私たちを罪に定めないなら、私たちは神に対して確信を持つことができます。そして私たちが求めるものはなんでも、神から受けます。それは、私たちが神の戒めを守り、神の目に喜ばしいことを行っているからです。神の戒めとはこれです。すなわち、私たちが神の御子イエス・キリストの御名を信じ、彼が私たちに命じられたように互いに愛し合うことです。神の戒めを守る人は神の中に住み、神もまたその人の中に住まわれます。そして、神が私たちの中に住んでおられることは、神が私たちに賜った御霊によってわかります」(一ヨハネ三・二一〜二四)。

私たちの心が私たちを罪に定めない時!」。これは素晴らしいことではないだろうか!キリストと共に葬られて復活し、キリストの中に全く失われた結果、自分の心の中に何の罪定めもなくなり、「私たちが求めるものはなんでも、神から受けます。それは、私たちが神の戒めを守り、神の目に喜ばしいことを行っているからです!」という崇高な確信が生じる経験に、あなたは飢え乾いてこなかっただろうか?

この輝かしい章の一節で「見よ、私たちが神の子と呼ばれるために、どのような愛を父は私たちに授けて下さったことか」と告げられているのに、どうして罪定めが生じるのか?実を言うと、このような罪定めは一般的に言って現在や未来の代わりに過去を見つめて生きることによって生じる。われわれはわれわれのためのキリストの御業によって表わされた神の恵みを見つめる代わりに、自分たちがしてきたことを熟考することにあまりにも多くの時間を費やしてきた!神はわれわれを罪に定められないのだから、どうしてわれわれが自分を罪に定める必要があろう?

自分の心に罪定めの感覚を抱えたまま、御父の御前に出ることはできない。われわれに関する神の完全な御旨を知ることができるのは、われわれの魂が引き上げられて、「キリストは私を解放して下さいました!もはや私は自分の咎の結果を恐れて生きることはありません」と歌う時だけである。カルバリは全ての鎖を断つ一撃だった。そして、重しや妨げは全て取り除かれたのである!

この同じ章の二節が「私たちはのようになります。なぜなら、ありのままの彼を見るからです!」とわれわれに告げているのに、どうしてわれわれの心はわれわれを罪に定めるのか?われわれはありのままを見ることになる。なぜなら、われわれは彼のようになるからである!われわれはわれわれの内に啓示される主の栄光を見るようになる。そして、われわれは遂に満ち満ちた豊かさの中に入るのである!

イエスが地上で務めをされた時代、当時の人は彼を見たが、彼らの目は曇っていた。また、彼を覆っていた幕はまだ二つに裂かれていなかった。彼の肉体という幕が、油注がれた御方を人々の眼差しと視界から隠していた。時々、人が信仰の手を差し出すとき、主は一時のあいだこの幕を脇に寄せることをお許しになり、ありのままの御姿を見ることができた。しかし、そういった時ですら、その幻は限定されており、ほんの一時の間しか垣間見れなかった。完全に見るには、彼を見るための明かりだけでなく、その光景を形成する幻も必要だった。

ある時、山の上で、その栄光が輝き出た。その栄光の中の神の光の現われはあまりにも大いなるものだったので、彼の衣まで光の織機で織られて天の輝きで作られたかのように思われた!

彼の復活の後、テベリア湖の逆巻く湖水のそばで、彼らは彼の栄光を再び垣間見た。自分たちが主を見たことを、彼らの心は知っていた。そして再び、彼は彼らの飢えを満たし、彼らの全ての必要を供給された。「ああ、キリストよ、あなたは私たちのすべてのすべてです!」。われわれが必要とするものはすべてイエスの内にある。しかし、主の御旨はわれわれがありのままの彼を見ることであり、その後、われわれがのようになることである!彼に似た者となることは――すでに始まっており――完成されて永遠のものとなるのである!

キリストとの合一

「ここに愛があります。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さったのです!」。われわれは今ふさわしい者ではないが、決してふさわしくなることはない。しかし、神の恵みがそれをみな顧みて下さっている!自分はふさわしくないという感覚によって、キリストにあるわれわれの財産の満ち満ちた豊かさの中に入ることから逸らされないようにしようではないか!キリストとの合一という幸いな特権を享受できるのに、どうして自分を罪に定める精神によって歩まなければならないのか!

もしわれわれの心がわれわれを罪に定めないなら、われわれは「確信をもって」神のもとに行くことができる。もしわれわれの心がわれわれを罪に定めるなら、それはおそらく、「私たちが神の御子イエス・キリストの御名を信じ、彼が私たちに命じられたように互いに愛し合うことです」という神の戒めにわれわれが従わなかったからである。地の絆を払い落として天の霊的な領域の中に入ることはわれわれの特権である。その領域の中で、われわれは御父の導きによって自分たちの地位を悟り、われわれに関する神の御旨の核心を知るのである!

それゆえ、キリスト・イエスにある者たち、肉に従ってではなく御霊に従って歩む者たちに対してもはや罪定めはない――全くない!肉を去らせよ――御霊にあって歩め――そうするなら罪定めは去る!それは真理の光に耐えられないし、恵みの栄光と憐みの無限の高さと深さとの啓示の中に存在することもできない!

罪定めはない

人がわれわれを罪に定めなくなる地点に、われわれは決して到達できない。小さな子供のときに宮の中にいたイエス御自身、その地上の両親から「悪い子」と思われた。彼は御父の仕事に従事していたのである。彼らは誠実だったが、それにもかかわらず、彼を誤解した。彼が「私は父の仕事に従事しなければならないこと(私の父の御旨を行っていること)が、あなたたちには分からないのですか?」と言われた時の、その叱責の優しさが分かる。

ヨセフとマリヤは盲目さと愛のゆえに彼を叱責した。しかし、彼の心の中に罪定めはなかった。おそらく、われわれの内側で御父の御旨に働いてもらい始める時、多くの人々が批判するだろう。われわれは「神秘主義」の罪で告発されるだろう。もしわれわれが何らかの「過去の偶像」を去らせようものなら、われわれは接触する人の数人から罪に定められるかもしれない。しかし、われわれが避けるべき罪定めは、しかしながら、われわれ自身の心による罪定めである!これが去る時、われわれは確信をもって恵みの御座に近づけるようになり、われわれが求めるものはなんでも神から受けることを知るようになる。去らせよ。

これにより、肉の意志を行う者たちの間から出て行くことが必要になる。これが、「私のために父や母、姉妹や兄弟、家や土地を喜んで捨てようとしない者は誰でも、私にふさわしくありません」と仰せられた時、イエスが言わんとされたことである。彼の御言葉に完全に従順に歩んで、彼の御旨に対する献身の生涯を送ろうとするなら、われわれは全てを「去ら」せなければならない。そうするなら全ての必要は満たされる。霊、魂、体のためのすべての必要は満たされる。

足りないものは何もない。彼の内に癒しがある。涙は拭い去ってもらえる。悲しみの代わりに喜びの油があり、灰の代わりに美しさがある。それから、神の愛の小川がわれわれという経路を通して妨げられずに流れ出る。そして、われわれは無尽蔵の供給の泉から飲む!われわれは自分が神と一つであることに気づき、神の性質にあずかる者となる。模倣はやみ、参与が始まる!

彼のものは全てわれわれのものである!われわれは全く彼のような者である。「この今の世にあって、私たちは彼のような者だからです」。われわれは彼と共に死に、彼と共に葬られ、彼と共に復活し、彼と共に昇天した。したがって今や、われわれは栄光にあずかる者たちである。この栄光は彼の栄光であり、神の永遠の日の夜明けの啓示の光によって完全に現わされるのである!

われわれはこれを犠牲にして安物の宝石にしがみつくべきだろうか?肉や自己という偶像を保って、天の宝、永遠の宝石の冠を失うべきだろうか?命を神に明け渡しさえするなら、この宝がわれわれ一人一人の内に宿るのである。

新しい衣

われわれが肉ではなく御霊によって歩むなら、肉の衣は汚れたものとしてわれわれから剥がれ落ちる。そして、われわれは御霊の衣服を着せられる。重苦しい霊の代わりに賛美の衣をわれわれは得る!われわれは罪という汚れた衣や自己義認という不十分な覆いの代わりに、転嫁されたイエスの義の衣を着る。

それゆえ、「彼らの間から出て、離れなさい。汚れたものに触れてはなりません。そうすれば私はあなたたちに対して父となり、あなたたちは私の子となります!」と主は呼ばわっておられる。この世が外面をどのように判断しようと決して気にするな!われわれを虜にしていたものはもはやない。虜は解放された。エジプトはわれわれの背後であり、約束の地の門は開いている。そして、エシュコルのブドウを味わい、乳と蜜の流れる地の無尽蔵の遺産を享受するよう、われわれを招いている。

常に満開の恵みの小道が、ベウラの山腹の周囲をうねっている!キリストはすべてのすべてである。そして、われわれが日々御霊と共に歩む時、われわれはキリストを傷つけかねないものを去らせる!われわれはイエスを大いに愛するので、彼の望みがわれわれの目的になる。彼の願いがわれわれの幸福となる。そして、「私たちはあなたの御旨を行うことを喜びます、おお、主よ!」と言えるようになる。

それゆえ、この小川は流れ続け、その優しい懐にわれわれを抱く。地の絆は後に残される。われわれはいかなる人も肉に従って知ろうとはしない――キリストさえも知ろうとしない!ここに自由がある。ここに富がある。ここに安息、平安、喜びがある!歌え、解放された者よ、その賛歌が栄光の世界の回廊にこだまするまで!歌って天使たちを驚かせよ――キリストは私に必要なすべてであると!私に必要なすべてであると!