ホーム

人は神を知ることができる

Man Can Know God

チャールズ・プライス
Charles Price



人は神を知ることができるのか?この問いは一世紀になされ、他のすべての世紀でもなされてきた。神を知ることができる、というのが本当なら、必然的に次の事実が続かなければならない。すなわち、全き誠実さで主を求め、遂に顔と顔を合わせて主とまみえた人の人生には、新しい日の出が臨むのである。そうすることが本当に可能なら、われわれは――内外の――全ての騒音や争いから身を引くべきだし、完全な平安をもたらし、完全な満足を与えてくれる、あの崇高な経験の中に入るべきである。

主の御顔を求めることはわれわれにとって何と祝福された特権であることか!しかし、見いだすことがもし不可能なら、どうして求める必要があろう?われわれは良いものから悪い習慣を育むおそれがあるし、時として、一つの経験から別の経験へと導く近道となるよう神が意図されたものから儀式を形成してしまうおそれもある。

大きな隔たり

魂が御霊に属する上の領域に達して、霊的な諸々の真理をそのあるべきところや背景から引きずり下ろし、そして、それらに儀式的な肉を装わせようとすることは、何と空しいことか。その二つの領域の間には大きな隔たりがあることを彼らは忘れている。肉的な事柄を霊の衣で飾り立てることが不可能なように、霊的な真理を肉の衣で飾り立てることも同じくらい馬鹿げている。これらのものは二つの異なる、区別された、別々の領域に属する。これらは異なるだけでなく、敵対関係にある。

事実、これらは絶えざる戦いの状態にある。肉の欲するところは御霊に逆らい、御霊の欲するところは肉に逆らう。そして、この二者の間に魂は立っている。肉による礼拝は魂的なものになる可能性がある。その現れを見るのに、あまり長く旅する必要は無い。そのような礼拝はとても感情的なものになりうる。感情に働きかけて、その指でわれわれの感情の琴線をかき鳴らすことができる。余りにも多くの場合、われわれはそれを「祝福を得ること」と呼ぶ。それは紛れもなくわれわれを掻き立てて、われわれの気質の最も深い部分にまで及ぶ。しかし、家に帰る時には、せいぜい感情的刺激しかないのである。この感情的刺激は、他の刺激剤同様、しばしのあいだ元気づけてくれるが、後に残るのは頭痛と後悔である。

また、純粋に霊的な礼拝でも魂の領域に引きずり下ろされるおそれがある。しかし、そうすることによって、われわれは神の麗しい御旨を成就する力を、それから奪ってしまうのである。肉欲があまりにも大声でわめくので、神の御声は次第に消えて行き、御霊から聞くことはすぐになくなってしまう。しかし、決して忘れてはならない。肉を御霊の領域にもたらすことは不可能である。神はそのようなことを決してお許しにならない。神はその扉を閉ざされる。

われわれは魂の及ぶ限り上に向かって肉によって礼拝することもできるが、それより高く昇って霊の領域に至ることはできない。この旅が上向きか下向きかによって、魂が肉の及ぶ限り上に昇るか、あるいは、霊が下るかが決まる。肉は「霊の中に」達することはできないし、神の御霊は肉を扱おうとはなさらない。魂は両側に扉を持っており、一方が開かれるとき、他方は常に閉ざされる。これらは二つの異なる、区別された世界である。水の世界と大気の世界が遠く隔たっているように、これらの世界も同じように遠く隔たっている。魚が美しい山腹の緑の草を食べて生きることができないように、小羊も海の底では生きることができなかった。

その幻

この真理を強調する理由は、何世紀ものあいだ、人々は彼らの肉的性質の領域の中で神を見いだそうとしてきたからである。彼らは知恵を遣わして神を探させたが、知恵は空手で戻って来た。次に知識が出撃したが、戻って来たときにはつまらない考えや空虚な言葉しかなかった。彼らは神が創造された宇宙の中に神を探したが、その結果、汎神論が生じた。彼らは神がなさったことを見たが、神を見いだすことはできなかった。彼らは神の御手が造ったものを見たが、自分たちを造った御手の幻を決して受け入れなかった。彼らは神の臨在の証拠を見たが、その証拠が示す臨在を決して見いださなかった。

神の目はとても清いため、悪を見つめることができず、不法を見ることができない!そうである以上、汚れと色欲と肉的衝動のこの世界――この世界の中で人間は生きかつ動き、存在している――の中にどうして神を見いだすことができよう?神は御自身の聖さの言語を絶する輝きの中に住んでおられ、堕落した人と神の永遠の義との間には、罪過と堕落のせいで大きな隔たりがかたく存在していたのである。

神は、御自身の性質上、罪のただ中に住むことができなかった。そして人は、その罪深い性質上、神の臨在の中に入ることができなかった。この隔たりを橋渡しするために、われわれの救い主はやって来られた。彼は神と人の両方である!カルバリ山で贖いの完全な代価が支払われる前、彼だけが人類と神に触れることのできる唯一の者だった。カルバリ以前に、神はアビスを渡るよう人を召すこともできた。しかし、カルバリ以前、神を知る特権――今日人が神を知っているように神を知る特権――を授かった人は誰もいなかったのである!

ただ御霊の中でのみ

贖いの栄光の真理が日の出のようにわれわれの魂の上に燦然と輝く時、そのときわれわれは知る。われわれは自分たちがかつて魂の諸々の部分によって生きていたこれらの肉的で罪深い領域を立ち去ることができるのである――前方に向かって、上に向かって御霊の領域へと至ることができるのである――愛する御子にあって受け入れてもらえる領域に至ることができるのであり、神と対面することができるのである――しかし、これは肉の領域の中ではなく、ただ霊の領域の中だけである!

われわれは神の接触を感じることができる。御声を聞くことができる。そして、知的にではなく霊的に理解する能力に相応しい者となることができる。神は啓示された御旨の栄光をわれわれに明らかにし、永遠の御旨の諸々の奥義をわれわれに知らせて下さる。これは人々がイエスの足下で文字通りその中に座した領域である!これこそ主がサマリヤの道ばたの井戸で女に向かって「神は霊ですから、神を礼拝する者は真理の中で礼拝しなければなりません」と言われた時、主が語られた場所である!肉の中ではない。儀式の中ではない。理性の領域の中ですらない。知性の王国の中でもない。人の業績や、美しく化粧張りされてはいるが皮相的ないわゆる「文明」とやらの境界内でもない。まったくそのような所ではないのである!

もし神に会いたいなら、われわれはそれから逃れなければならない。それは「十字架に付けられるべき」古い人である。この古い性質を燕尾服や祭服で飾り立てて主の御前にもたらすことはできない。われわれに関することはすべて新しくされなければならない!再生によって主に従わなければならない。その時はじめて、われわれは霊の栄光の壮大な山々に昇って、永遠の神の臨在の中に入ることができるのである。

生ける御言葉

知的・文化的領域の中でしか生きていない人々は哀れで気の毒である。彼らは肉の目で山上の垂訓を読み、イエスに似た者となるために最善を尽くしている。道ばたにいたあの女のように、彼らは地面の穴から湧く類の水しか思い浮かべることができない。彼らは「アテネ人」である――とても宗教的である――しかし空っぽで真の霊性に欠けているのである。

カペナウムの会堂の会衆が、永遠に飢えを満たすパンについて主が語られるのを聞いた時、彼らは物質のパンという考えから逃れられなかった。飢えは食欲を意味するものに他ならず、彼らは水で潤せる渇きしか知らなかった。彼らは荒野に降ったマナをただちに思い出した。そしてわれわれも、「肉」という言葉は聖書の中でこの肉体や肉の幕屋以上のものを指すのに使われていることを忘れて、同じ過ちを犯しているのである。

われわれの体の素晴らしい諸器官の中に道徳的性質は何も無い。肉の家の中にあなたは住んでいるのではないし、肉の家のことを聖書は述べているのでもない。その家の中に住んでいるのは肉の人である。「肉」という言葉は人の性質の中にある神の律法に抵抗するものを描写するのに使われている。それは堕落した人類の中にあるあの堕落した性質であり、この性質は御霊に属する事柄に逆らって永遠に戦う。この性質はあまりにも罪深く堕落しているので、それを神の諸々の律法に従わせることは決してできないし、天の父の御旨を行うことも決してできない。

肉を対処する際、パウロは婉曲的な言葉をまったく使わない。彼は言う、「それを十字架に付けよ。それを死に渡せ。それを殺せ!」と。彼はそれを「古い人」「罪の体」「死の体」と呼んでいる。それを繕おうとしてはならない。それを褒めそやしてはならない。それを涵養してさらに豊かな良いものにしようとしてはならない!詰まるところ、「肉」は人の中にある罪の原則である。それはあなたではなく、あなたを支配して駆り立てる力である。キリストがあなたの友であるように、それはあなたの敵である。もし「肉の中に」あるなら、われわれは神を喜ばせることができない!

神の御手――釘跡が残る御手――が下に向かって差し伸べられていることを、われわれが知ってさえいれば。この御手は愛と恵みをしたたらせつつ、われわれをこの卑しい自己という拘束の中から引き上げて、贖い、再生、聖化、栄化という高次の領域にもたらそうとしているのである。

内住

コロサイ書の三章十六節で、「キリストの言葉をあなたたちの内に豊かに住まわせなさい」とパウロは述べている。この言葉には人が思う以上の、皮相的考えを超えた意味がある。ただ一つの生ける御言葉しかない!御言葉が紙の上に、人が肉のせいで完全には従いえない律法や戒めの形で記された時代もあった。「それは肉のために弱い律法である」とパウロは宣言した。神は肉において罪を罪定めされた。

しかし、言葉が肉体となる時が来た!預言者たちの口から発せられた全ての言葉、古の詩人や祭司による全ての歌、大預言者たちや小預言者たちの霊感された口から発せられた全ての発言は、神の御手に触れられたものだったのである。

ひとりの赤ん坊がユダヤのベツレヘムに生まれた。御使いたちは歌い、栄光のオラトリオが御父の家の円天井中に響き渡った。

恵みはひとりの生ける御言葉を遣わされた。それは書き記された御言葉や語られた御言葉が決してなしえなかったことを成就するためだった!キリストの御言葉が自分たちの内に豊かに住むことを許す時、実際のところわれわれはキリストであるところの御言葉がわれわれの存在中に住まいを定めることを許すのである。キリストの内住のゆえに、御父はわれわれの内に何の罪も御覧にならない。なぜなら、われわれは愛されている御子にあって受け入れられているからである!

ああ、わが魂よ、ホラティウス・ボナーと共に歌え。

「あなたの枷であって、私の枷ではありません、ああ、キリストよ、
 私を鎖から解いてくれるのは。
 そして、獄屋の扉を破ってくれるのは。
 もはや二度と閉じ込められることはありません。

 あなたの傷であって、私の傷ではありません、ああ、キリストよ、
 私の砕かれた魂を癒せるのは。
 あなたの鞭打たれた傷跡であって、私のではありません、
 私を健やかにしてくれる香油を含んでいるのは。

 あなたの死であって、私の死ではありません、ああ、キリストよ、
 支払うべき贖い代を払ってくれたのは。
 私のような者が千回死んだとしても、
 支払うにはあまりにも少なすぎます。

 あなたの義だけが、ああ、キリストよ、
 私を覆うことができます。
 いかなる義も役に立ちません、
 ただあなたの義を除いて。」

書き記された御言葉を思いの中に受け入れることができたとしても、それでもこの生ける御言葉を霊の中に持っていない可能性がある。物事が猛烈なスピードで進む今日、われわれは生ける御言葉と真に親しむ時間をほとんど取っていない!聖書の中の一つの章を駆け足で読むなら、その結果、この御言葉に満たされることはない。この御方の助けがなければ、書き記された御言葉の中に「この御言葉」を見いだすことはできない、と私は信じている。しかし、あなたがこの生ける御言葉を得る時、その栄光の臨在は書き記された御言葉の意味の上に光と啓示を投げかけるのである。

ヨセフ・パーカー博士はある若い説教者に「聖書を決して駆け足で読んではならない。ゆっくり進んで周囲を見渡せ!」という忠告を与えた。同じように、もしわれわれが今日の自動車に乗って時速五十マイルや六十マイルで疾走するなら、道ばたの花の何が見えるだろう?鳥のさえずりを聞くことや、岩々の中に神の創造の驚異を認めることができるだろうか?滝の音楽を聞きつつ水を飲むことができるだろうか?われわれの手の届くところで静かにひっそりと成長しているささやかな物事の隠れた美しさを深く探求することができるだろうか?

ある人々にとって、イエスのたとえ話は人の知性が捉えるべき幾ばくかの真理を含んだ物語にすぎなかった。たとえ話の中に生ける御言葉が息づいていることを彼らは見落としたのである。イエスが行われたことは啓示の手段にすぎなかった。そのどれ一つとっても、それだけで完結するものではなかった。しかし、キリストの時代の人々はあまりにも盲目だったので、彼らは前へと、そして上へと導いて、生ける御言葉の奥義の開示へと至る道を見ることができなかったのである。

御言葉はわが足のともしび、わが道の明かりである。しかし、今いるところに立っている限り、人々はともしびや明かりを必要としない!この道はわれわれをあるところに導かなければならない。われわれの足は神の召しに応えなければならない。神の召しはわれわれを今いるところから連れ出して、神が望んでおられるところにもたらす。

隠された宝

イエスの教えの中にこの宝がどれほどたびたび隠されているのかにあなたは気づいているだろうか?われわれが探しているものは常に明らかだとは限らない。見つけ出すまで探さなければならない!最初に啓示の光を受けた所でこの高価な真珠に至って拾い上げることのできる人は誰もいない。アブラハムのように、自分が住んでいた所から出て行ってどこに導かれるのかわからなくても喜んで進むほどに神に信頼しなければならない。この道は常に肉から――われわれの卑しい性質から――物質的なものから、知性や「文化」からさえも遠ざかる道である。

再生されていない人は自分の文化によって自分を飾り立てて、外面的な覆いで自分の内に依然として存在する腐敗を隠そうとしてきた。これをすっかり忘れて、これらの言葉を自分にあてはめるとは何たる高ぶりか!神は霊だから、神を礼拝する者は霊と真理の中で礼拝しなければならない。

カルバリを通り抜けて、上に向かって伸びるわれわれの魂の門――この門は御霊の領域へと伸びている――を開かない限り、神を知ることはできない。この領域、この圏内でのみ、人は永遠なる御方と顔と顔を合わせてまみえることができる!ああ、人よ、再生されていない人よ、肉から生まれただけの人よ、決してあなたは御霊の領域に入れない!準備に一千万年費やしたとしても、神の聖い臨在の中に一瞬たりとも入れない!あなたは再生されなければならないのである!

肉の人が決して入れない領域、御霊の人だけが入れる領域がある。新創造にならなければならない!上から生まれなければならない!神から生まれなければならない!再生されて永遠なる御方の子とならなければならない!再生されて嗣業を受けなければならない。この嗣業はとても莫大で限りないため、それはわれわれの儚い想像を圧倒する。それを微かに知ることですら、御霊の領域の中に入ることが必要である。これはみな何と偉大で素晴らしいことか。御霊から生まれるとき、われわれは霊の現実を判別できるようになる!その所でわれわれは自分の体を生きた供え物として神に献げることができる。そしてその所でわれわれは霊の交わりを享受することができる。「あなたたちもまた、生ける石として、霊の家に建て上げられて、聖なる祭司団となり、イエス・キリストによって神に受け入れられる霊のいけにえを捧げなさい」(一ペテロ二・五)。

解放

この新創造の命はわれわれを神の愛する御子の王国の中にもたらした。もはやわれわれは、かつてわれわれを支配していた諸々の律法や、われわれの人間性の卑しい部分の奴隷ではない。そうしたものからわれわれは永遠の契約の血によって解放されたのである!あなたは新創造である!あなたの命の潮流は全て反転した。私が次のことを述べる時、「理解力を照らしてくださいますように」と私は聖霊に祈る。あなたが低い領域から高い領域に昇るとき、あなたが御霊の領域に入る時、肉の命があなたの古い性質に自然なものだったように、あなたの新創造の霊の命はあなたの新しい性質にとってきっと自然なものになるだろう。この新しい領域の中を従順に歩むことが、霊的に自然なことになるだろう。それは苦闘ではない。戦いではない。

魂的性質の境界近くにいる人、肉に対して扉を開いている人の命の中には戦いが生じる。罪を犯すことはかつてあなたにとって難しいことではなく全く自然なことだった。それと同じように、今や新創造の命により、陽光に照らされた従順の小道を神の霊に導かれて歩むことが、あなたにとって自然で、天性に適った、自動的なものになる。そして、あなたは自分の耳を神の御声に傾けることを学ぶのである。

罪定めはない

あなたはこれを読んだことがあるだろうか?「それゆえ今や罪定めはありません!」。それは過ぎ去った。われわれは解放された人々である。われわれは下劣なもの、物質的なもの、肉的なものを超越するすべを心得ている。新しい世界があるのである!われわれは新創造なのである!われわれは御霊にあって昇ることができ、そこで神と会話するのである。われわれは雲の間を歩いて進むことができる。そして、そこで出会う諸々の栄光は、地の物質的事柄を価値を失った安物の宝石や些末事のように思わせる。

われわれはこの世の事柄については貧しいかもしれない。しかし、ああ、信仰においては何と富んでいることか!ピリピ三・二十はわれわれに告げる、「なぜなら、私たちの国籍は天にあるからです。そこから、救い主、主イエスの来られるのを、私たちは待ち望んでいます」。これは将来のことではない。のことである。

これらのことを昇天の真理と呼ぶことができよう。この飛翔は上向きである。自己から出て、肉から離れるのである!天然に属さない領域の中に入るのである。肉や血は神の王国を継ぐことはできない。しかし、神の子たちにはできる!しかし、われわれはまず霊的な存在にならなければならない。主に結ばれるのは天然の者ではなく霊の者であり、それはこの聖なる合一による。こういうわけで、富んでいる人が神の王国に入るのは難しいのである。この「富む」という言葉はこの世の持ち物で満たされることだけだと思ってはならない。知的に富むこと、知識に富むこと、業績を誇る思いをも意味するのである。決意に富むことをも意味するのである!この世の持ち物に自己満足することをも意味するのである!

しかし、御霊の領域に入ることを望むなら、われわれは世とその所有とを求める願いを下さなければならない。なぜなら、われわれが霊の領域の中を昇れば昇るほど、天然的で一時的なものに属するものはますます重要ではなくなってゆく、というのは絶対的に正しいからである。

神は霊である

井戸のところに座っていた女に対するイエスの言葉を思い出そうではないか。礼拝はこの山やあの山に限られていなかった。エルサレムの山や他の山に限られていなかった!山々は礼拝とは全く関係なかった。ブロックと漆喰で宮を建てて、そこに神を閉じ込めることのできる時代は過ぎ去った。礼拝はこの大聖堂やあの教会で行うものではなかった。神は霊だったので、神を礼拝する者は肉から、魂から出て、霊の領域に入らなければならなかった。そこで彼らは霊と真理の中で礼拝することができたのである!

そこで彼らは顔と顔を合わせて救い主にまみえた。そこでは天のそよ風が彼らの頬にキスし、栄光の世界の音楽が霊の耳に舞い降りた。確かに、それは新しい領域だった!しかし、彼らはキリスト・イエスにある新創造ではなかっただろうか?人が御霊に導いてもらえる場所が存在する。導かれているなら、他人からの詳しい指示は必要なかった。神ご自身が彼らに語られたのであり、臨在は慰めだったのである!

あなたは神を知ることができるだろうか?人々が律法の下にあった時代ですら、われわれの天の父はエノクと共に歩み、会話することができた。それならなおさら、贖われた子供たちがこの同じ経験を享受することは可能である!何たる特権か、このように甘い祝福された合一から必然的に発する神の恩恵にあずかれるとは。