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私たちの正当な権利を主張すること

Claiming Our Rights

E.W.ケニオン
E. W. Kenyon



キリスト教は一つの法的文書である。私たちの基本的な法律用語のほとんどは聖書に由来する。旧契約や新契約といった表題は、まさに法律用語である。贖いの計画のどの段階も――人の堕落から、イエス・キリストが人類を贖っていと高き大能者の右に座すまで――人が持つこの極めて優れた法的文書を完成する一連の法的手続きに他ならない。

法的観点から読まない限り、贖いの計画は理解できない。この贖いの計画には、三つの当事者がいる。神と人とサタンである。神は御自身に対して、人に対して、悪魔に対して義しくなければならない。

神が人を創造してこの地上に置かれたこと、神が人にある法的権利を授けられたことを私たちは理解している。授けられた法的権利は、生得権よりも容易に失われやすい。これらの権利を人は神の敵であるサタンに渡してしまった。これにより悪魔がこの計画の中に含まれるようになった。悪魔を対処する必要があるからである。贖いのこの全体的構想は、神が人類をアダムの罪から贖うことを追い求めて、それを公平な根拠に基づいて成就することだった。この根拠は、正義の要求と人が抱える必要を完全に満たして、法的根拠に基づいてサタンを打ち負かすものでなければならない。

人の堕落は法的行為だった。すなわち、アダムは神が自分の手に委ねられた権威と主権を他者の手に渡す法的権利を持っていたのである。これによりサタンは人と被造物を支配する法的権利を得た。

贖いの計画は神の多くの御業の中で最も独創的で最も素晴らしいものの一つである。神が何をせざるをえなかったのかに注意せよ。人は自分自身を悪魔に売り渡して、自分自身を奴隷にしてしまった。この奴隷状態は、人の支配の期間が始まらない限り続く。神はどうにかして堕落した人を罪から、サタンの支配から贖わなければならない。神はこれを、サタンや人に対して不義ではない方法でなさなけれなならない。神は、主権移譲という人の裏切り行為を認知して、それを破ってはならない。それは法的行為だったので、それを気儘に解消する権利は神にはない。神はサタンに対してあらゆる点で完全な義を示さなければならない。また、それと同時に、無力な人に手を差し伸べて、贖わなければならない。

そうするには、サタンの支配下にはないが人である方が地上に来て、人に対する正義の要求を人として満たすことが必要である。これを成就するには受肉が必要である。この受肉した方はサタンの支配下にあってはならないし、死の支配下にあってもならない。この目的のために、神は聖霊をユダの一人の処女に送られた。そして、この処女は身ごもって一人の息子を生んだ。この息子の誕生は天然的懐胎によるのではなく、超自然的懐胎による。この子供は死やサタンの支配下にはない。最初の人であるアダムが罪を犯す前に持っていたのと同じタイプの体を持っていた。この受肉した御方が成就した御業のどの段階も、完全な法的根拠に基づいていた。

この受肉した御方は、第一に、御旨を行う完全な人を求める神の御心の要求を満たされた。第二に、人として悪魔と対峙して、輝かしい公の戦いによって悪魔を征服することにより、堕落した人の要求を満たされた。「あらゆる点で誘惑されましたが、罪を犯しませんでした」。彼は十字架に進んで行き、神は彼に人類の咎を負わされた。彼はそれから、自分に負わされたこの重荷と共に、神の裁きの下で、地獄に下って行き、正義が要求する罰を忍ばれた。

この罰を受けた後、彼は死者の中から復活された。彼はサタンを征服された。サタンの支配を滅ぼして、その権威と力を取り去られた。それから、勝利の戦勝記念碑と共に、いと高き大能者の右に昇って、勝利の記念を偉大な御父の足下に置かれた。

この勝利という根拠に基づいて、罪人はイエス・キリストを個人的救い主として受け入れる法的権利を持っている。罪とサタンに勝利する法的権利を持っている。天のホームに対する法的権利を持っている。イエスの御名を祈りの中で用いる法的権利を持っている。御父の保護と顧みを受ける法的権利を持っている。神の家族の中で息子としての地位を持つ法的権利を持っている。聖霊の内在、御霊の顧みと保護、御霊の執り成しと教えに対する法的権利を持っている。主イエスの再臨の時に携挙される法的権利を持っている。不死の肉体に対する法的権利を持っている。新天新地における嗣業に対する法的権利を持っている。永遠に御父と共に住む法的権利を持っている。

私たちは自分の権利を主張しているか?

神の家族の霊的弱さや貧しさに弁解の余地はない。私たちの偉大な御父の豊かな恵みと愛を、御父の力と知恵と共に、私たちは自由に使えるからである。門のところに来て食物を乞う乞食のように、私たちは御父のもとに行くのではない。私たちは息子として御許に行って、自分の法的権利だけでなく、愛によって生まれた子供としての生得権をも要求する。私たちの御父に近づく私たちの権利を誰も邪魔することはできないし、疑問視することもできない。

救われていない世界が抱える大きな必要を理解し、この必要を満たせるのは教会を通して働く御父の大いなる御心だけであることを知る時、それは困窮した世界のための力強い執り成しへと私たちを駆り立てる。今日、神は教会によらずに人類に触れることはできない。教会が神の唯一の仲介者である。教会が自らの責務を担うことに失敗するとき、神の御手は無力になる。神は御自身を私たちの祈りの生活に制限しておられることを悟るとき、人はたじろぐ。私たちが祈りの責務を担うことを拒む時、神の御手は麻痺する。

私たちの権威

「なぜなら、罪があなたたちを支配することはないからです。なぜなら、あなたたちは律法の下ではなく恵みの下にあるからです」(ローマ六・十四)。「罪は主君としてあなたたちを支配することはありません」。罪は私たちに対する主権、権威を失った。サタンは旧創造に対する法的権威を持っているが、新創造に対しては持っていない。

サタンは罪人に対する法的権利を持っており、その権利に対して神は異議や疑義を唱えることはできない。サタンは罪人を奴隷として売ることができる。サタンは罪人の体・魂・霊を所有している。しかし、私たちが再生される瞬間――永遠の命、神の性質を受ける瞬間――サタンの法的権利は終わる。

キリストは新創造あるいは神の家族の法的かしらである。キリストは、御自分に与えられた全ての権威を私たちに与えて下さった(マタイ二十八・十八)。「天と地のすべての権威」。天は権威の座であり、地は権威を執行する場所である。キリストは「万物の上にあるかしら」であり、この宇宙における最高の権威である。それは、キリストのからだである教会の益のためである。

エペソ一・二十「神はその力をキリストの内に働かせて、彼を死者の中からよみがえらせ、天上で御自分の右に座らされました」。この御言葉ではキリストは「神の右」におられる。「遙か上」におられる。すなわち、キリストの権威の座は他のあらゆる支配者たちを凌駕しているのである。

ピリピ二・九〜十一「それゆえまた、神は彼を高く上げて、あらゆる名に優る名を彼に賜りました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが、すべてひざをかがめるためであり、そしてあらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神に栄光を帰すためです」。キリストは三つの世界――天と地と地獄――の中にあるあらゆる名に優る名を持っておられる。

すべての悪鬼や天使はイエスの荘厳な御名に服す。そして驚いたことに、彼は力あるこの御名を用いる法定代理人としての力を私たちに与えて下さった。私たちの全ての権威は、キリストが成就された御業に基づく。しかし、それはみな御名の中に包まれている。この御名を用いる法的権利を私たちに与えることにより、彼はこの全能の力を私たちがサタンの軍勢との戦いで自由に使えるようにして下さったのである。

マルコ十六・十七〜二十「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪鬼を追い出し、新しい舌で語り、蛇をつかむ。死に至るものを飲んでも、それは決して彼らを害さない。彼らが病人に手を置けば、病人は回復する」。

「それから、主イエスは彼らに語った後、天に迎え入れられて、神の右に座られた。弟子たちは出て行って、至る所で宣べ伝えた。主は彼らと共に働いて、御言葉に伴うしるしによって、その確かなことを示された」。「私の名によって彼らは悪鬼どもを追い出す」。ここで主は私たちの法的権威を定義しておられる。

私たちは悪鬼どもを追い出す。(これは、人々にまとわりつく悪鬼どもに対する権威を意味する。)私たちは悪鬼どもを人々の体から追い出す。人々の体、精神、霊に対する悪鬼どもの力を打ち破る。集会、家に対する悪鬼どもの力、また、時として地域に対する悪鬼どもの力を打ち破る。私たちの戦いは肉や血に対するものではなく、主権者たち、天上にいる権力者たちに対するものである。あるいは言い換えると、私たちの戦争はあらゆる階級、種類、権威を持つ悪鬼どもに対するものである。悪鬼どもは至るところで人を攻撃している。特に神の子供たちを攻撃している。

私たちはどうやって悪鬼どもから自分を守り、その軍勢に対する攻撃を導き、捕虜たちを解放すればいいのだろう?大気は悪霊で満ちており、悪霊どもは蝙蝠が古い建物に群がろうとするように私たちの体に群がろうとしている。私たちの祖国のうちにあるこの恐るべき悪の力が、ここに記したことを雄弁に証明している。

「私の名によって、あなたたちは新しい舌で語る」。この新しい驚くべき御霊の現れは、御名による私たちの法的権利である。御名の中に神の大能のあらゆる力が私たちのために保たれている。

「私の名によって、彼らは蛇をつかむ。死に至るものを飲んでも、それは決して彼らを害さない。彼らが病人に手を置けば、病人は回復する」。ここに示されているのは苦難や哀れさではなく、法的権威である。貯金している銀行で小切手を現金化する権利を持っているのと同じように、あなたは癒しを要求する権利を持っている。サタンから解放される法的権利を持っている。

もし誰かがあなたをこの国で迫害したり奴隷にしたりするなら、あなたが属して税金を払っている政府に保護してもらう法的権利をあなたは持っている。同様に、あなたは神の家族の一員として諸々の法的権利を持っている。今日、誰も白人奴隷を持つ権利を持っていない。同様に、サタンは神の子供を束縛する法的権利を持っていない。病は全て悪魔から出ている。私たちが立ち上がって自分の法的権利を行使するとき、御父はどれほど喜ばれることか。悪い習慣はすべて悪魔から出ている。

ヨハネ十四・十三〜十四、十六・二十三〜二十四「あなたたちが私の名によって求めるものは、何でもしましょう。それは父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたたちが私の名によって求めるものは何でも、私はそれをしましょう」。

この御言葉は他の御言葉とは異なる方法で祈りについて述べている。祈りとは御父のもとに行って嘆願することではなく、主人の地位に立つことである。主の権威を用いて悪鬼を追い出し、病人を癒すことである。逐語訳はこうなる、「もしあなたたちが私の名によって何かを要求するなら、私はそれを行いましょう」。主の地位にあって、私たちは御名の権威により病気と悪鬼どもに去るよう要求する。主はその場に臨在して、私たちが語る言葉を御力によって確証して下さる。この御言葉が述べているのは、主がマルコ十六・十七〜十八で私たちに賜った権威を私たちが行使することについてである。

さて、ヨハネ十六・二十三〜二十四に注意せよ。「あなたたちが私の名によって父に求めるものは何でも、父はあなたたちに与えて下さいます。その日には、あなたたちは私に何も求めないでしょう。まことに、まことに、私はあなたたちに言います、あなたたちが父に何かを求めるなら、父はそれを私の名によってあなたたちに与えて下さいます。これまで、あなたたちは私の名によって何も求めてきませんでした。求めなさい、そうすれば受けるでしょう。それはあなたたちの喜びが満ちるためです」。これはイエスの御名によって御父に祈ることである。

この御言葉が示しているように、今この宇宙で最高の権威の座に着いている力強い神の御子は、御名の力・権威・権力をサタンや悪鬼どもとの地上での戦いで用いる代理人としての法的権威を私たちに与えておられる。この強力な事実を前にするとき、霊的貧困や弱さは犯罪的である。力と権威を伴う天のすべてを私たちは自由に使えることを、この御言葉は示している。

これは信仰を持とうと努力することではない。自分の着ている服が自分のものであるのと同じように、この法的権利は自分のものであることを理解することである――あなたが眠るベッドがあなたのものであるように――あなたがかぶっている帽子があなたのものであるように、すべてはあなたのものである。法的に、幸いにも、あなたのものなのである。

御名を用いる権利をあなたに賜った人なる御方がガリラヤを歩かれた時、サタンはこの御方の前に立つことはできなかった。それと同じように、サタンは今も御名の前に立つことはできない。御名の持ち主である御方が、人の子として、地上を歩かれた時、病は無力だったように、今も御名の前では病は無力である。イエスの時代に悪鬼どもが御名を前にして屈服したように、悪鬼どもは今日も、神と共に歩む人の口が語る御名を恐れている。

地獄全体が御名の力を知っている。私たちの法的権利と権威を知っている。だから、自分の法的権威について無知な状態の中に私たちをとどめておくために戦っているのである。あるいは、私たちが自分の法的権威を知っている場合、私たちを罪定めの下にとどめておくために、私たちに自分の法的権利をあえて使わせまいとするのである。

マタイ十八・十八〜二十「まことに私はあなたたちに言います。あなたたちが地上で縛るものは、天でもみな縛られ、あなたたちが地上で解くものは、天でもみな解かれます。また、私はあなたたちに言います。もしあなたたちのうちの二人が、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいます私の父はそれをかなえて下さいます。なぜなら、二人または三人が私の名の中に共に集められている所には、私もその中にいるからです」。この御言葉を読むとき、その力と神から委ねられた権威のゆえに、心は静かに立ちすくむ。

「あなたたちが地上で縛るものは、天でもみな縛られます」。今日、これはほとんどの人にとって未探検の領域である。私たちは悪鬼ども、病、習慣を縛ることができる。人々がサタンの意志の中を進み続けることがないよう、人々を縛ることができる。あるいは、体を滅ぼすために魂をサタンに渡す恐ろしい力を用いることができる。「なぜなら、私自身としては、体は離れていても、霊は一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでに裁いてしまっているからです。すなわち、主イエスの名によって、あなたたちも私の霊と共に集まって、私たちの主イエスの力をもって、そのような者をサタンに引き渡したのです。それは、彼の肉体が滅ぼされても、その霊は主イエスの日に救われるためです」(一コリント五・三〜五)。

私たちは地域に対するサタンの力を縛って、人々がキリストを受け入れるのを容易にすることができる。「あなたたちが地上で解くものは、天でもみな解かれます」。私たちがイエスの御名により解放するものを、天の神はみな有効にして下さる。

何という力を私たちは持っていることか!それを用いようではないか!私たちは自分の強力な、天から賜った特権を用いるだろうか?至る所にいる束縛された男女を見よ。御言葉は私たちに、出て行って捕らわれ人を解放するよう命じている。

これは何を意味するのか?それはただ、神に感謝せよ、ということである。あなたは病人を解放することができる。私たちはそれを毎日私たちの働きで行っている!あなたは悪鬼に束縛されている人を解放することができる。この力ある御名によって、人々を縛る鎖を断ち切ることができる。ほとんどのクリスチャンは、証しであれ祈りであれ何らかの事柄で、恐れと悪魔的疑いによって縛られている。もし私たちがこの御名を用いて、それから彼らの権利を示すなら、彼らは一言で解放される。

この世への何という隷従と、束縛する悪魔的時代精神、この時代の神の目に見えない束縛を、私たちは耐え忍んでいることか。この世の神はどれほど人々を鎖につないでいることか!しかし、イエスが自由であるのと同じように、どの霊も解放してもらえるのである。

人々への恐れによって何と束縛されていることか。しかし、一言の権威ある言葉で、この鎖は断ち切られる。

欠乏への恐れによってどれほど束縛されていることか。そのせいで人々は数ドル与える代わりに数ペニーしか与えない。しかし、束縛されているすべての魂に対する解放、輝かしい解放がある。読者よ!御霊はあなたに立ち上がってこの真理を生きるよう命じておられる。

クリスチャンたちが祈りや証しの時に自由だったなら、私たちは何という祈りの集会を持っていたことか。神が私たちの手を用いることができるようにならない限り、神の手は縛られている。天使たちは私たちの僕である。彼らは私たちの働きをすることはできない。神は私たちの信仰や従順の程度に制限されている。私たちが神を小さくするその程度にしたがって、神はこの世でも小さくなる。この神から賜った権威を用いることによって神を大きくする人がいるところでだけ、神は大きくなる。私たちはキリストのからだである。私たちの手足がなければ、かしらは無力である。

ああ、私たちが自分の行いにおいて神に大能の力を揮ってもらわない限り、神はいかに無力であるのか、あなたには分からないのだろうか?心の中に一つでも罪があるなら、それは群衆を抱いたであろう神の御腕を縛ってしまう。私たちが用いられることを恐れるとき、神の全能の力は束縛される。

神に属する人々よ、神の人たれ、そして、あなたに委ねられた権威を用いよ。

初代教会は自分たちの権威をどのように用いたのか

使徒行伝は主として私たちの教科書である。それは、イエスの御名による勝利の一連の物語である。

新たに天から賜った権威を人々が用いた最初の記録――麗しの門のところにいた無力な人の癒し――が第三章にある。使徒たちは何と静かに確信をもって、「ナザレのイエス・キリストの御名によって立ち上がって歩きなさい」と言ったことか。神がどう応答して、この人が癒されたことか。その都がどれほど再び鳴動して、ユダヤ教が震撼したことか!使徒たちは捕らえられ、御名を用いることやそれを宣べ伝えることを禁じられた。この御名の中には力がある。イエスは地上におられた時、使徒行伝に記されている御名を通してなされた奇跡よりも大きな奇跡を行われなかった。

ペテロが一人の男と女を死なせて倒すのを、この書の中に私たちは見る。癒す力と屠る力――これは恐るべき力である。彼らはイエスから賜った権威の全能の力によって歩んでいた。彼らはイエスの御言葉を真剣にとっていた。神の御言葉は真実であると見なして、行動していた。

神のこの恵みの爽やかさの中を歩んだ人々について述べるには紙面が足りない。パウロが敵対者たちの目を見えなくするのを、私たちはこの書の中に見る。彼が霊媒から悪鬼どもを追い出すのを、私たちは見る。彼がまむしに噛まれても害を受けないのを見る。病人は癒され、死人はよみがえらされるのを見る。異教の諸々の都が、ユダヤ人の知られざる神に向かった。

三十三年という短い年月のうちに、この福音は、御名の力によって支えられて、普通の人々の手により、ローマ世界の至るところにもたらされた。パウロが触れた前掛けやハンカチが送られて病人の上に置かれると、パウロ自身が行うのと同じ力強い奇跡が起きたのを、私たちは見る。

この人々は私たちと同じ体の中に生きていた。私たちと同じ気性を持ち、私たちと同じように間違いを犯した。しかし彼らは、悪鬼どもや病気に対するこの神から賜った権威により、諸々の奇跡を行った。彼らは私たちと同じ気性を持つただの人だった。何が私たちを妨げているのか?なぜ私たちは弱さではなく力の中を歩まないのか?

パウロは、ある人の体を滅ぼすために、その人をサタンに引き渡すことができた。ヒメナヨとアレクサンドルについても同じことを行った。それは、冒涜してはならないことを彼らが教わるためだった(一テモテ一・二十)――「その中にヒメナヨとアレクサンドルもいます。私は彼らをサタンに渡しました。冒涜してはならないことを彼らが教わるためです」。

当時、宣教者たちは危険だった。クリスチャンたちは自分の主張を証明する力を持っていた。彼らは宣べ伝え、実行した。善を行った。今日、ある人々が言うように、「彼らは善を解き放った」のである。

彼らの信仰は言葉だけのものではなく、顕現と力を伴っていた。当時、奇跡は当たり前だった。彼らの時代、キリスト教は奇跡だったのである。